[1pの自尊心] 「小石川。お前、身長いくつ?」 それは、入学してすぐ、仮入部が終わった次の日に、当時の部長が聞いた質問だ。 見るからに、部内一のチビだった小石川は、困った顔をしながら律儀に答えた。 「13」 「130p!?」 「139pです!! あと1pで140ですよ!」 という小石川の訴えは、生憎届かなかった。1pの差だろうが、「130p」のチビという認識をされる。 そんなに嫌なら、四捨五入して「140」と言えば良かったのに、と他の同級生は思った。 先輩の一人が、一年の中で一番大きな石田の巨躯を見つけて、手を引っ張った。 一年の中ではでかいだけで、三年には流石に勝てない身長の先輩も多かったから、石田は素直に従った。拒む理由もなかった。そもそも、先輩がなにをしたいかわからなかったから。そして、テニス部の先輩は、良くも悪くも皆、善人だったから。 「こう並べて…おお、小石川、ちっちゃいで!」 「嫌味ですか」 石田と小石川を並べて、先輩は「幾つ違うんやろ?」と考え込む。 「石田やったっけ」 こんな風に対比させられても、彼は不快なばかりだろうと石田は危ぶんだが、当の小石川は普通に聞いてきた。「ああ」と頷く。 「石田、何p?」 「…168p」 「…へえ」 小石川は何故か、一瞬ホッとした顔をした。すぐ笑って、「29pちゃいますよ」と先輩に自分から言った。驚く先輩達を余所に、石田を見上げてにこにこ笑った。 「石田って、でっかいな。名前もかっこええ」 「……嫌やないんか?」 「悪意があるなら嫌やけど、善意やから」 小石川はどこか楽しそうだった。 あとから、大きくて、また関西弁も完璧ではなく、笑いにも積極性のない自分が部内で心配されていた。とけ込むのに、みんなが笑いやすい話が欲しかった。と知る。 小石川は自分の低身長が餌になって、石田がうち解けたんなら別にいいとなんともない顔で言う。 1pを気にした癖に、妙に物わかりがいい。 後日、彼があの時安堵したのは、石田の身長の末尾が「9」ではなかったことにだ、と教えてくれた。 末尾が「9」だったら、「29」差じゃなく「30」ジャスト違う。それは嫌だ、と。 1pはあんまり大差がない、と言っていたのはお前じゃないのか、と言ったら、小石川は身長を値切られて嬉しいヤツはいないと答えた。 育った環境だけのせいではないが、面白い価値観だと。それが最初の印象。 そんな石田の記憶は、昔の話だ。 小石川は少なくとも、今はチビではない。 むしろ、でかい部類だ。 朝、起きると妙な気分になった。 普段、同室の石田より、自分が早く起きる。目覚めは小石川の方がいい。 相手が起きるまで待ってるわけがない。普通に洗顔しに行って、コンタクトをつけて、戻る廊下で起きてきた石田と会う。大抵は。 学校に行くのは、それは一緒だ。嫌じゃない。むしろ楽しいし、好きだ。 ただ、目が覚めるまで相手を待っていたら、それは女子校の女子高生か、彼氏彼女だ。 そして、その日、珍しく自分が起きた時、石田は既に寝台にいなかった。 珍しく負けたと思った。勝負なんか最初からしてないが。 加えて、他のヤツに負けるなら悔しいことも、石田だと素直に受け入れられる。人徳が多分、石田は四天宝寺一ある。 (そら、テニスは悔しいけど…) テニスに関しては、あのパワーも体格も羨ましい。 欲しくて、以前から「師範を越える」と言い張って身長を伸ばす努力をしたが、勝つ前に身長は183pで伸び悩んだ。多分、もう劇的には伸びないんだろうな、とわかる。 石田もまだ伸びるから、勝てないだろう。それは諦めた。 上背はある方だが、石田には勝てない。繊細なテクニックでは勝っても、実際試合をしたらパワーに負けてしまうのだから、少しの「勝ち」は全く意味がない。わかってる。 妙な気分になったのは、負けた所為じゃない。 昨日、帰り際に親友の白石に妙なことを言われたからだ。 「ああ、おはよう」 ぼーっと寝台に座ったまま考え込んでいたらしい。小石川が気付くと、石田は部屋に戻ってきていた。手にタオル。洗顔だ。 「おはよう」 「どないした? 妙な顔しとるが」 「あー、うん、なんでも…」 ない、と言う前に石田の大きな手に、頭を撫でられた。なにも言えなくなる。 石田は優しく微笑んで、背中を向けた。手が離れる。 なにかに、落ち込んだりすると、石田は気付く。 言葉をまずかける。話を聞いてくれる。 だが、それに及ばないことの場合、ああして頭を撫でてくる。 安心させるみたいに。 「師範って、お父さんやな」 無性に悔しくなって、そう言って、すぐコンタクトケースを持って部屋を出た。 一年の時に言われるならまだしも、三年になって図体も大きい同級生に言われたらショックだったのか、石田はぽかん顔で固まっていた。 部屋を出て、すぐ後悔した。 やっちゃったと思った。 石田は悪くない。でも悔しくなってしまった。 『いちゃつくなら、余所行け』 あれは、昨日、部室で話す白石と千歳にそう言ったのが発端だった。 部室で、他はみんな帰って、自分たち三人だけ。 小石川は所用で席を外していて、帰ってきたらキスしてた、というシーン。 ちょっとした嫌味。それも、千歳に限定して。 そうしたら、白石はきょとん顔で自分を見た。 「健二郎って、モテるんに」 「は?」 なんだいきなり。モテる自覚はある。が、関係ない。 それも千歳なら無視するのに、白石。 「いやぁ…。キスに免疫ない顔しとったから」 「は? そんなん大抵ないやろ。中学生やで」 「今時中学生は充分マセとうよ。小石川の感性って昔の人?」 お前が言うな。お前のその(見たことないが)無駄な女との経験が異常なのであって、自分は普通だ。 なんで白石はあんなのがいいのか。 「健二郎は、好きな人おらんの?」 「…え」 何故か、その時返答に迷ってしまった。いない。はっきり言えば良かったのに。 「なら、したい気持ちはわかるやろ」 白石は「いる」と受け取ったらしく、そう微笑んで言う。 したい気持ちは、わからない。 いたらわかるんだろう。いないんだから。実際は。 でも、反論出来なかった。 今朝、起きてすぐ、自覚して困惑した。 朝、起きた時、石田がまだ寝ているとホッとする。 一人じゃないと、安堵する。部屋から出れば誰かしらいるのに。 石田がいることに意味があると気付いて、昨日の己の迷いの理由を知った。 前から、彼女を欲しがってはいた。 千歳と白石が羨ましいというか、多分、意地だった。 彼女が欲しかった。 彼女がいれば、――――――――――石田への未練を断ち切れる。 すくなくとも石田への気持ちを忘れる免罪符にはなるのだ。 自分は、それで許せる。ごまかせる。 だから、自分が石田を好きだと気付く前に早く。 そう、意地になっていたと、気付いた。だから、二人が羨ましかったんだ。 悔しくなった。 だって、告白しようがない。石田なんて。 一番、汚したらいけない。以上に、断られて距離が出来たら、泣くくらいには、気付く前から特別だった。 廊下で立ち止まっていたらしく、肩を叩かれた。 振り返ると白石がいる。 にっこりと笑うから、こいつはわかっていたのだ。 朝食は、めずらしい組み合わせになった。 白石が小石川と食べている。自分の前にいるのは、白石の恋人のはずの千歳。 「師範ー…それで終わる気と?」 立ち上がろうとした石田に、千歳は呆れたように言った。 ハッとして、石田は手元のトレイを見る。ほとんど残っている食事。 「…すまん」 また座り直した石田に、千歳はちらりと背後の方の席の、小石川を見た。気付いていない。 「なんか言われたと?」 小声で聞くと、石田は重いため息を吐いた。 前から、小石川は自分たちを見て「相手がおるゆうんは羨ましい」と言った。嫌味の範疇。しかし、心なしか、本心が混ざっていると気付いた。 無差別に相手を欲しがるタイプじゃないから、好きな人がいるのかと思った。 そこで、思い当たったのは石田だ。小石川は好きか知らないが、石田は小石川を好きだった、と思い当たった。 軽く、煽ったつもりだったが、その所為なら、責任を感じる。 「……」 石田はひたすら、落ち込んだ顔で、俯いている。箸をまた握る気配もない。 「どげんしたと」 「……父親とは、恋愛せえへんよな」 「…は」 千歳は思わず言葉をなくしてしまう。石田はそれきり黙り込んだ。 「銀にそない言うたぁ?」 「やって、悔しかったから」 食事の後。千歳から石田の様子のおかしさを聞いて、白石は小石川を自分の部屋に引っ張り込んだ。今日は休みだ。 「せやかて、『お父さん』………」 石田の気持ちを知っている白石は、なんてことを、と嘆きたくなった。 父親扱いを、好きな相手にされてしまったら、誰だって落ち込む。 「ほな、健二郎は、銀になんも言う気ないんや」 わざと素っ気なく言うと、小石川は拗ねた顔で頷いた。 「正確にはあるけど、…言えるとかの問題ちゃうし」 すぐ撤回して、彼は頭を掻いた。 「?」 「師範なんか、手が届かないし」 あまりに弱気なことを抜かす小石川の頭を、白石は思いきり殴った。すぐうめき声があがる。 「なにすんねん!」 「千歳の仇や!」 「おま、今まで千歳を俺がどついたとき、千歳が正しかったことあったか!」 「ない!」 「……」 即答されて、小石川は頭を押さえたまま、なんともいえない顔をした。 「いや、ノリでな…。実際は千歳関係あらへん」 包帯を巻いた手をジェスチャーのように動かして、気まずさを緩和しようと白石は笑う。 「いや、もうええ。なんでも…」 「よくないやろ」 「……父親言うんは、撤回するし」 小石川はそう言ったきり、黙ってしまった。 そうじゃない。両思いなのに。 白石は歯痒くなる。 すぐ手を伸ばせば届くのに。 なんでこいつは己のことに、こんなに鈍くて疎いんだ、と心の中で叫んだ。 「俺が師範を好きいうんは、…言えたら奇跡やから」 そう小石川が自信なく言った瞬間、背後の扉が開いた。びっくりして振り返った小石川と同じく、白石も吃驚した。ノックがなかった。 そこに石田が立っていて、白石に謝ると、硬直している小石川の手を掴んで引っ張っていってしまった。 「………まさか、聞こえた?」 残された白石は呟く。扉はとうに閉まっていて、誰も拾わない。 ―――――――――――――確実に聞いてる。 小石川は部屋まで連行されて、そう確信した。 無言で自分の手を離して、石田は見下ろしてきた。 なんと弁解したらいいか、謝ったらいいか。以前に、もう普通じゃいられないとわかるから、胸が死ぬほどに痛くなった。涙が目に滲んだ瞬間、大きな手で頬を包まれて、引き寄せられる。なにかが口に触れた。すぐ石田の唇だと知る。その時には離されて、抱きしめられていた。 「…師範?」 ぽかんと、夢を見たみたいに呼ぶ小石川を抱きしめたまま、石田は好きの二文字を繰り返した。ただ、嬉しくて安堵していたから、とあとになって知った。 だって、30pも違ったら父親じゃないか。 せめて、1pでも遠くてよかったけれど。 今更に、あの時1p違っていたら、好きになんかなれてなかったと。 言うのは、かなり未来にしておこうと思った。 2009/07/24 |