さくらが散る前に

もう一度







さくら散る前に
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 授業が終わったあと、教室に残るのは、帰る寸前の同級生の楽しげなざわめき。
 椅子に座ったまま帰る準備をする白石を、傍に立った謙也が、笑って誘う。
「今日、帰りお好み焼き食べてかん?」
「ああ、ええな」
「千歳も誘って」
 謙也の口から、その名前が出た時、白石は辛そうな瞳を、一瞬だけした。





 ―――――――――――――「もう、やめよや」





「…白石?」
「ん?」
 席から立ち上がると、追ってきた謙也が、不安げに聞いてくる。
「千歳となんかあった?」
 あの一瞬だけの感情を読みとって聞けるなんて、謙也が馬鹿だと言い出したのは誰だろう。こんなに他人の感情に聡いのに。
「……別れただけや」
「…………」
 言葉を失った謙也を促して、来る来ないに構わず白石は歩き出す。
 自分たちが付き合っていたことを、謙也も知っていた。

 別れたのは、本当に突然だった。







『千歳は、ほんまに俺が好きなん?』


 ある日の昼下がり。
 千歳の家に遊びに来ていた。押し倒されて、千歳を見上げる姿勢で、自分に覆い被さる千歳にそう聞いた。

「…どぎゃん意味な?」
「…そのまんまや。俺のこと好き?」
「…好いとうよ」
「……嘘やろ」
 あの時、何故そんなひねくれた返事をしてしまったのか、自分でもわからない。
 ただ、千歳の言葉を「嘘だ」と思ったのだ。



 千歳が高校は、九州に帰ることを知っていた。
 俺が何を言っても、無駄だった。

「離れたない」と、冗談に混じってだったけれど、何度か言った。

 千歳は笑って、「出来たらな」と、いい加減な言葉を返す。

 不安になって、やがて、心が死んだように、同じ結論だけが胸に落ちた。



「…俺、ほんなこつ、好いとうよ?」
「嘘や」
「…」
「九州帰るまでの、暇つぶしやろ。最初から、そう言ったらええねん」
 千歳は一瞬、息を呑んでそれから、俺の身体を離した。
 床に押し倒されたままの俺から離れた。
 俺は、気付かなかった。
 千歳が息を呑んだのは、憤りと、悲しさからだったと。
 俺はその時、「図星」だからだと思ってしまった。
「…もう、やめよや」
 そう言葉にした瞬間、千歳は低く呻って、自分の傍に足早に近寄って胸ぐらを掴んで、手を振り上げた。でも、殴ることはなく、手を降ろした。服を離した。
「…わかった」
 しばらくの張りつめた沈黙のあと、千歳は確かにそう言った。






 馬鹿だと、思う。謙也より、誰より、自分は、馬鹿だったのだと思う。

 別れてすぐ、千歳の手が恋しくなった。泣きたいほど、傍にいたくなった。
 あの声に呼ばれたくてしょうもなくなった。
 だけど、もう電話出来ない。引退したのだから、電話しないと会えない。
 ろくに学校に来ない千歳だから、会う機会すらない。
 完全に、途切れて途絶えてしまった。

 千歳が自分を好きでいてくれた。それだけは本当だと、気付くのがあまりに遅すぎた自分。
 未来の離れる予感に、不安になって、まだ一緒にいられる時間すら捨ててしまった。
 でも、これでいい。
 やがて、あいつのいない時間が全てになる。
 あいつはいなくなる。
 だから、今、馴れておけばいい。
 もう千歳はいないんだ。
 そう、思った方がいい。





 休みの日、財布だけ持って家を出た。
 部屋で着替えてる途中に、既に気付いてしまった。
 千歳の家に行こう。今日は暇だろうか。
 そんなことを考えていて、着替えていて、すぐ気付いた。
 行ったってもう、会えないんだ。俺はもう、ただの同級生だから。
 なのに、そのまま家を出た。

 千歳の家に行くわけじゃない。




「白石。ここ、桜?」
「ああ」
 付き合っていたころ、千歳と来た公園の桜並木。
 花は散っていて、千歳はそう聞いた。
「また咲いたら、一緒に来よな」
「…うん」




 気付くと、その公園に来ていた。
 少ない遊具と、向こうに見える並木道。
「…嘘吐き」
 そう、呟いた。
 来年、桜が咲く頃、もうお前はいないじゃないか。



「白石、四月生まれやろ? 一緒にお祝いしよ」



「…嘘吐きや」
 俺は四月生まれで、その頃にはお前はいないじゃないか。
「嘘吐き…」
 どうして、こんな沢山の思い出を、たかが一年足らずの間に俺に残した。
 もっと、どうでもいい思い出ばかりなら、短い思い出なら、


 忘れるのも、容易かったのに。


「……千歳の、嘘吐き」



 桜は、まだ咲かない。








 卒業式の日に、桜が咲いた。
 三月に満開なんて、やはり温暖化の所為かなんて、思いながらも、綺麗だと見上げた。
 女子たちに取られた所為で前が開いたままの制服を脱ごうかと思いながら、母親と帰路につこうとした時だ。
「白石」
 自分を背後から呼び止めたのは、千歳だった。
 心臓が痛いほど鳴った。うるさかった。震えながら、振り返るとそこには、いつも通りの笑顔。
「すみません。ちぃと白石、借ります」
 母親は、「ええ、どうぞ」と軽く頭を下げる。俺は茫然として、千歳に手を掴まれるまま引っ張られて、走った。






 連れて来られたのは、あの公園だった。
「こっちも満開とね」
「…」
「白石、ひどか格好ばい。脱いだら?」
 笑って言う千歳に、なにも言えなかった。
 そんな、久しぶりに会った同級生に言うみたいな言葉。
 胸が痛むだけだ。
 なにも答えないでいると、千歳の両手が頬を包んで、顔を上げさせた。
 千歳と視線が合う。相変わらず優しい黒の瞳の奥は、微かに怒っていた。
「…なして、離れたとや」
「……別れたやろ」
「俺は、別れるなんて言ってなか」
「わかったって言ったやん!」
 大声を張り上げて否定した言葉が響く。あまりにも、泣きそうな声になってしまって、千歳は悲しそうに自分を見下ろした。
「俺は、白石の『暇つぶし』って言葉に、そう思われとるなら、思われないように、って。『わかった』て言うたと。
 別れるつもり、なか。絶対、別れなか。俺は」
「……それから、電話しなかった」
「白石が怒っとったから」
「…学校も」
「…俺と別れたって、振る舞うお前を見たら、俺はお前をどうにかしてしまうばい」
 優しく、大きな手が頬を撫でる。そのまま抱きしめられた。
「…俺も、一杯一杯やったと。…お前の言葉の意味を、取り違えた。
 …ごめん」
 柔らかい、優しい声がする。その中に混ざる、悲しい震え。
 それに、優越感を抱く自分に、白石は吐き気がした。
「…もう、ええ」
「ほんなこつ?」
「もう、恋人でおらんでええ」
「…そぎゃん、意味ならきかんよ」
「もうええから…!」
 手を離してくれ。笑って、俺を離してくれ。
 もういいから。
 そう馬鹿みたいに願った。
「もう、お前はおらんくなるんや。やから、俺は馴れなあかんから。
 …馴れさせろや…」
 お前のいない学校に、街に、時間に。
 早く馴れないと、死んでしまう。
 桜が散る前に、馴れないと、俺は死んでしまう。
「…馴れさせんよ」
 千歳は強く断言して、より一層きつく抱きしめた。
「…白石、来年の桜も、一緒に見よう」
「……、え?」
「再来年も、一緒に見よう。
 お前の誕生日、ずっと、祝いたい」
 そう言って、千歳は身体をそっと離した。白石の手を、そっと握った。
「俺、帰らんから。…大坂におるから。…別れんよ」
 ふわりと風に舞って、自分の髪に落ちた花びらを、千歳が摘んで手の平に置いた。
「…ほんまに?」
「うん」
「……嘘やない?」
「うん」
「……」
 声も出せずに硬直した自分を、千歳はもう一度抱きしめる。
「…白石、…好いとうよ」
 千歳の声が、優しく耳をくすぐった。いつも以上に、優しくて、暖かい声だった。
「…千歳」
 自分から、千歳の身体にすがりついて、涙を堪えずに泣いた。
「…好きや」






「あの子、おもしろい子やね」
「え?」
 家に帰ると、母親が微笑んでそう言った。千歳を指して。
「今日、卒業式終わったあと、わたし見つけて『白石くんのお母さんですか』って。
 頷いたら、『これからよろしくお願いします』って頭下げたんよ。元気よく。
 びっくりしたわぁ」
「………」
 俺は、言葉を失った。
 千歳は、大坂の高校を受けていて、それは、また一緒にいるけど。
 親の説得に時間がかかったと彼は言ったが。
「……アホなんや。あいつ」
 俺は母親にそう答えた。
 顔は、あまりに幸せそうに、緩んでしまった。





 桜が咲いたら、一緒に見よう。

 来年も、再来年も、大人になっても。

 その度、一緒に手を繋いで、祝って。

 さくらが散る前に。












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 携帯サイトの2000ヒット記念兼本館一周年半記念のフリーリクエストの一つ。

 作成日時:2009/06/13