「あそこ………?」
彼が見た先には、ただの普通の蔵が一戸。
けれど、政府から受けた指令と傍の住人が話す噂から、あそこだと言うのは間違いない。
祓うことを依頼された、あやかしの住処。
「……ま、固定観念はもう役に立たない…か」
どのあやかしはどこにいるべき、なんて固定観念はもう役に立たないとよくわかっている。今のあやかしは、皆大変だ。住処を失うあやかしだって多い。
そのための、『自分たち』なのだけど。
「じゃ、行きますか…」
千歳の膝を枕にして眠る蔵の髪を撫でていた千歳が、傍の謙也に軽い調子で訊いた。
最近、祓い人の動きが盛んなのは知っている。場合によっては、ここを離れなければならない。
「どげん? なんか変わった様子ばあっと?」
「…んー……特には」
首をしゅる、と肩の上に戻して謙也が答える。
「けど、なんや、違和感がある」
「違和感、ですか?」
光の言葉に、うんと頷いた。
「なんやろ。わからんけど、…妙な感じ? いつもとちゃう」
どこがて訊かれるとわからんのやけど、と謙也。
光と顔を見合わせた千歳が、蔵を任せるという風に視線を寄越した。
「見に行かはるん?」
「ああ。俺達だけならよかけん…蔵がおる」
蔵の身体を光に預けて、立ち上がった千歳が一瞬目を細めて、すぐ顔を歪めた。「千歳?」と窺った謙也も、言葉を閉ざして下を見るよう促した光に従う。
(冷気が、外から入ってくる…誰かが扉に手ぇかけてます)
(…本気か? こないなとこ来る奴なんか…)
「…祓い人…」
そう千歳が呟いた途端、重い扉が外から開かれた。
千歳が先行して一階の床に飛び降りる。視線で下から「蔵を守れ」と示され、光と謙也は上で様子を見た。
「……驚いた」
響いた声は若い、否、幼い少年のもの。
白を基調とした黒い紋様の衣服に、肩に下げた長い布はあやかしに効く封じ札の布。
「……お前、祓い人とや…?」
祓い人には間違いない。だが、若すぎる。
蔵より幼いかもしれない少年に、千歳が一瞬知らず気を緩めたのを上の謙也が小さく叱咤した。
「っ!」
千歳がハッとして視線を動かした時には遅い。少年はそこにいない。視線を彷徨わせた千歳の身体が封じ札に囚われて、力が全身から抜けてしまう。
「っ…く…!」
やむを得ずその場に倒れ込んだ千歳を、上から謙也が小声で呼んだ。
その謙也を制して、光が蔵を彼に預ける。
「…まだいるね?」
少年が窺った先に、吹雪をまとって舞い降りた雪童を彼は微笑で迎えた。
「誰やお前。殺すで」
「やったらいいじゃん。出来るならね。雪女のおにーさん?」
「雪童やアホ!」
光が両手で操った吹雪が襲いかかるが、少年は交わさず肩に下げたもう一つのモノ――――――鎖で繋がった二枚の小さな鎌を手で回転させ、吹雪を起こした風で吹き飛ばす。
「っ…」
「光!」
「来んな謙也くん!」
光目掛けて走った鎌に、思わず飛び出した謙也の身体が見計らったように舞った布に囚われた。
光の腕が防げず、鎌の鎖に絡め取られる。
「封縛!」
「「!」」
ばしん、と雷が走ったかと思うと、身体が鉛のように動かなくなった。
祓い人の使う、あやかしへの術の一つだ。
「安心して。俺はあんたたちの退治じゃなく、ここから退去のお願いに来たんだ。
殺さないよ。あんたたちが、おとなしくいなくなってくれるなら」
そういう少年を信じられない。第一、今は出られない。彼が、彼を置いていけない。
「信じなくてもいい。殺すのは、気が重いけど…」
嘘吐けと思った。俺達を思いやる人間は、蔵だけ。他にいるはずがない。あやかしに心を寄せる人間なんて。
その刹那、千歳が天井を仰いで叫んだ。
「出て来るな!!!」
謙也と光が、やっと彼の存在に気付いたが遅く、彼の足が底の床に飛び降りた。
「蔵っ!」
途端血相を変えた三人のあやかしに、祓い人はそれをあやかしと思いかけ、首を横に振った。
「……人間の、子供?」
「やめて…」
「蔵、よすばい! やめろ!」
「やめてや!」
恐れも知らないように少年に飛びかかった蔵が、驚いて反応の遅れた少年の腕をしっかりと掴む。けれど、全身は震えていて、まして彼は生まれてからここを出たことがない。力は、ないに等しい。
「…あんた」
「やめて…みんなを殺さへんで!」
「……だから、俺は」
「やめて。俺? 俺が悪いんやろ!? 俺なんかを育てたから!
やから千歳ら殺すん!? せやったら俺がいなくなるから…っ俺殺せばええやん…!」
「蔵!? なに言っとう!」
千歳が動かない身体を叱咤して身を起こし、必死に叫んだ。
「お前が悪いこつなか! お前がなんで悪かこつなっとや!? お前が死ぬ必要なかね…やめてくれ、その子に手ば出すな!」
祓い人は次の反応を選べずに固まった。三人のあやかしたちはまるでこの世の終わりのように悲壮な顔でこちらを見ている。
(…育てた? あやかしが…人間を?)
「……あの、…育てた? ……人間を、あやかしが……?」
「そうや! 俺が忌まれた子やから」
「…忌まれた……?」
そんな話は聞いていない。生まれた時から閉じこめられていた、と必死に話す少年が、ここにいるなんて話は政府からも、村人からも訊いていない。
だが、それ以前に信じがたい。あやかしは人と相容れぬもの。
それが守って育てた子供。そんな常識、自分は知らない。
思わず、たたらを踏んで、蔵の外に出てしまった祓い人の脳裏を、過ぎる記憶があった。
(あの子の名前、「リョーマ」って。外来語。…イヤだ。汚らわしい)
「蔵!」
響いたあやかしの悲鳴に、祓い人は我に返る。
空を飛行するのは、幾多の外から来た、あやかしだ。
「え、なんで…こんな沢山…っ」
「祓い人! これ外せ! やないと死ぬで!」
祓い人は謙也の言葉に迷うそぶりを見せたが一瞬だった。すぐ、三人をとらえた封じ札を外し、自分の腕に絡ませる。
「千歳! 蔵を!」
「わかっとう! 蔵!」
蔵をしっかり抱えた千歳を確認して、光が手から放出した吹雪を空一体に放つ。
それが風によって強められているのが祓い人にもわかった。
(あの巨人のあやかしじゃない…あっちの?)
考えている暇もない。
背中に背負っていた荷物から巨大な布を出すと、空に向かって投げた。
己の視界を覆う布に手を突きだし、命じる。
「我が目にうつる汝の覆う場にいるあやかしの動きをつかの間止めおかん!
八戒封縛!」
祓い人の視界を覆った布は、その『本来見える範囲』のあやかしを―――――――――――――つまり、空に現在いるほとんどの動きを封じた。
すぐ様踵を返してその場を去る三人のあやかしと一人の人間に、慌てて祓い人は後を追った。
あれも効力は長くない。それに、人間の存在をあやかしの傍に確認して、そのまま見逃したらなんと言われるか。
「ちょっと、待てよ!」
四人分の足音が響く。それは、寒い冬、雪の降る前の明るい真昼だった。
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