なにも興味がなかった。 学校は、最たるモノ。 でも、最近、興味がある存在が、いる。 それは、俺を、呼ぶ――――――――――誘う。 最後の一人を蹴り飛ばすと、千歳はすぐさまその場を駆け出した。 誰かが来る前にとっとと逃げるに限る。 人気のない寂れた商店街に出たところで、友人が手を招いた。 「千歳!」 「桔平! 助かった!」 別に追っ手はもういないから困っていないが、橘を見ると無条件に安堵する。 「そっちも片づいたと?」 「ああ」 ピースサインを切る友人に駆け寄り、手を高く打ち合わせた。 「おなかすいたと。なんか奢って」 「そういう意味の『助かった』かよ…」 その日は目立ってやることもないので、ぶらぶらと道を歩きながら、途中買ったアイスを咀嚼した。 「この後どうする?」 「んー…どげんすっとかねぇ」 「俺は寄るとこがあるから、そっち行くが」 「まさかまた?」 「ああ」 橘はいつだったか、学校を抜け出して喧嘩していた時に出会った同じ中学生に懐かれて、いろいろ見てやってるんだとか。なにを、とは聞いたことがないが。 千歳には特にやりたいことがない。 腕を宙に伸ばしてから、千歳は「いや」と否定した。己の胸中を。 「俺も、行くとこがあったと」 「へえ」 橘はさして興味もなさそうに笑った。 どこにでもいる、不良。 問題クラスの中の特に際だった不良、というヤツだ。自分と、橘。 橘はまだいい。あれは基本、情がある。しかし、自分はとことん薄情で、いい加減だ。 今日もろくにクラスの奴らは集まっていないだろうと、千歳が登校すると、昇降口のところでいきなり後頭部を殴られた。 「っ……あんたか」 「あんたはないやろ。この放蕩息子」 そこに仁王立ちして、何故か片手にハリセンを持った、白金の髪のかなりの美形。 翡翠の瞳の青年は、今年からの自分のクラスの担任教師。 性格は真面目で冷静、かつ容赦がない。 「堂々遅刻たぁええ度胸や。さっさと来い!」 「えー……」 「えー、やない。語尾伸ばすな! それで可愛いつもりかアフリカ象が」 「…アフ……象……」 自分はそこまでのろくない、と千歳が反論すると、でかさの例えや、と彼は言った。 確かに、自分はでかいが。 「俺、可愛くなか?」 「可愛ないな」 「……」 千歳は、今度は声に出さずに不満そうにした。 白石蔵ノ介というこの教師は、学校に来いと言うし、時間も守れと言う。 だが、やらせるのはほぼ雑用だ。 授業じゃない。 生徒にやらせていいのかと聞くと、授業こそ真面目にやらんのやから、協調性を先に学べ、という。 確かに、授業なんか真面目にやらないけど。 「…おまえ、なんでそない不満そうなん」 背後に佇んだままの千歳に、白石は途中で立ち止まって、呆れた顔をした。 千歳はすぐ、歩き出して隣に並ぶ。 この人に興味をなくされるのは、嫌。 「わかった。なにすればよか?」 「珍しく素直やな…ま、ええか。おいで」 おいで、と綺麗に微笑んで言う。 その声と、手と、唇が、自分を何度でも呼んだ。 あれは、一ヶ月前の昼休み。 まともに授業なんか出ないし、学校に来るのもたまにで、千歳はやることもなく保健室のベッドに寝ていた。 ぼーっとしていると、保健室の扉が開く。 保健医でも戻ってきたか、あるいは本当の具合悪い患者か、と思っても千歳は寝台から起きあがらない。 すると、唐突に自分の寝ているベッドの周りのカーテンが引かれた。開いたそこに立つのは、見覚えのない綺麗な男。 「……」 迂闊にも見惚れていると、そいつはいきなり容赦なく自分の片耳を掴んで引っ張った。 「いだだだだだっ!」 かなり痛くて、悲鳴を上げる。そのまま起きあがらされて、千歳はなんなんだと、そいつを見上げた。 「堂々サボるなら、学校来るな。ここはホテルやないで」 柔らかいトーンの、厳しい声。教師か。学校に他になにがいるんだという感じだが。 きっちり着込まれているがラフな服装は、まだ若いせいで、大学生くらいに見える。 また、真面目にしろとか、そういう手合いかと、千歳はおっくうになる。 だが、見上げる彼のあまりの見目のよさに、悪戯心が沸いた。 「先生」 「え」 急に猫撫で声で呼んで、その手を掴むと寝台に身体を押し倒した。 上にのしかかると、そのあまりに細い身体と手首に、驚かされた。 「なんの真似や」 「……怯えんね」 「こん程度で怯える馬鹿やない。…ガキなら尚更な」 大きな身体の下に押さえ込まれながら挑発的に笑う彼に、今度沸いたのは、嗜虐心。 泣かせたいという気持ち。 ぐい、と強く足を開かせて身体を割り込ませると、また覆い被さって唇を深く塞いだ。 奪った唇のあまりの柔らかさと、甘さに理性を失ったなんて、初めてだった。 驚くはずの身体は、全く強ばらず、千歳の後頭部を手で抱くと、自らキスを深めた。 それにまた千歳が驚いた。 数秒、舌の絡まり合う音が響く。 やっと口を離した時、彼は千歳の下で、舌なめずりをして微笑んだ。 「お次は? 坊や」 「……」 「シたいなら、教えたる」 赤い舌を、赤い唇から覗かせて、微笑む顔のあまりの扇情的な様に、理性はまた消えそうになる。 堪えて寝台を降り、背後に下がった千歳に彼は起きあがると、くすくすと笑った。 「あんた…」 「お前の組の担任、白石蔵ノ介」 「…こげなこつ、してよかと…」 「俺、被害者やろ? 加害者くん」 「…」 言葉を失う。どっちが加害者でも、悪いのは教師になるはずだ。なのに。 「ちゃんと授業出ぇ。ホテルやなく、学校来ぃ」 とん、と軽い足取りで彼は寝台を降りると、千歳の高い頭を叩いて傍を通り過ぎる。 咄嗟に掴んでしまった手首は、やはりあまりに細い。 「…また、おいで?」 掴まれた手首に、なんの力も入らない。どころか、その状況で、彼はそう誘って笑った。 また、とわざと掠れさせた声で。 緩めてしまった千歳の手から、己の手を抜き取ると、彼は保健室を後にする。 千歳は茫然と、その場に残されていた。 「先生ー」 修学旅行のしおりを何故か作らされている。 千歳はぼんやりと、しかし手は動かして、白石を呼ぶ。 「ん?」 探しものなのか、机の中をあさっていた白石は、顔を上げて微笑んだ。 「これ、俺も行くと?」 しおりを指さして問いかける。 「もちろん」 「えー」 「お前が来んかったら、俺一人やん」 さらっと、そんなことを言って、白石は千歳に向けて笑う。あの日と同じ、妖しい笑み。 「一人にしたら嫌やで? 千歳」 「………」 そんな言葉と笑みに、真っ赤になっている自分は、やっぱりこの人に会いに学校に来ていると思い知る日々。 あの時、触れた唇と、身体、細い手首。 あまりに、頼りなく、あまりに、綺麗で。 それが、あまりに強く、自分を誘う。 もっと、欲しい。 今まで見たどの女より、綺麗で、欲しくなる身体。 犯したい衝動。 紙一重の、汚せない気持ち。 「…先生」 「ん?」 傍に、千歳の手元に出来たしおりを見に近寄った白石に、千歳はすがるように呼びかける。 「…キスしてよかと?」 限界だ。もっと、欲しい。 おいで、って、もう一回言って。 「…ダメ」 白石はあっさり、教師の顔で切って捨てた。はよせえ、と千歳の頭を撫でて。 こんなの、じゃないのに。 千歳は俯いて、そう心の中で呟く。 次の日、学校に行くために家を出たはいいが、途中で面倒になった。 橘も多分今日は来ない。 どうでもよくなって、ふらふらしていると、隣町の不良と出くわす。 向こうは三人。自分の体格なら、負けたりしない。 どうでもよくなった。 だって、あんたは、あの日のあんたを夢のようにするから。 夢みたいに、振る舞うから。 夢にしてしまったから。俺とのキスも。 大きな音が響いた。 自分に拳を振り上げた不良の背後から、その後頭部を殴ったのは、中身入りのペットボトル。さして、痛くないはずだが、衝撃はあるだろう。 「暴力反対、や」 彼らの背後に立つのは、白石だ。あの声で、わかる。 あの日に似た、妖しい声。 自分に敵意を変えて向ける連中にも白石は慌てない。 千歳の方が慌てたが、白石はあっさり手を掴んで、その場に一人を背負い投げた。 全員相手にする気はないらしく、道が空いた隙に千歳の背中を思い切り叩いて促した。 逃げるで、と。 わけわからない。 あれだけ、教師の顔しておいて、助けるためにあっさり力使って。 一緒に徒歩で学校まで向かう途中、千歳が余程泣きそうな顔をしていたのか、白石は立ち止まって、笑った。 優しい笑顔。 あの顔が欲しいと思う反面、そんな顔を、嬉しいと思う。 「…せんせ」 「ん?」 「……俺、…」 「…」 迷う、千歳の頬を白石の白い手が撫でた。 優しかった。泣きたくなる。 「……あれ、夢?」 「あれ?」 「初めて会った日の…っ」 とぼけた白石に、カッとなって叫ぶように口にした言葉は、途切れた。 白石の手が首に回って、仕掛けられたのは、あの日と同じキス。 千歳は目を見開いたあと、すぐ夢中になって、その細い身体を掻き抱く。 しばらく重なったキスは、離れると間に糸を引いた。 千歳の腕の中で、白石は笑う。ここは、道なのに。 人は、見あたらないけれど。 打算? 計算? それとも。 「…おいで、千歳。…一緒に、堕ちてや…」 そう、あの日のように誘って、妖しく笑う顔がある。 もうどうでもいい。 そう思った。千歳がもう一度重ねた唇はあまりに甘い。 白石の手が、背中に回って、優しく触れた。 もう一度、と願った。 最後までと、あなたが呼ぶ。 もう、あなた以外、どうでもいい。 どこまででも、一緒に堕ちていい。 THE END |