目を覚ました

あなたの夢を見てたのに …








雨の音
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「千里?」

 呼ぶと、やっと、振り返る、顔。
 そうして、俺を見て、微笑む。

「蔵?」

 やっと、呼ぶ、声。




 なにがって、わけじゃない。
 触れてくれる。毎日、忙しくても。
 でも、でも、その違和感が、ずっと。
 こわくて、こわくて。

 堪らなかった。







 目覚めると、雨が降っていた。
 布団から身を起こすと、隣でまだ眠っている息子の髪を撫でて、蔵ノ介は微笑んだ。
 まだ起きそうにない。
「…千里?」
 寝室には、いない。
 立ち上がって、ダイニングに行くと、テーブルの上に書き置きがあった。

『飲み物買ってくる』

「…俺も起こせや」
 そう、呟いて、また、胸の中に暗い闇がふくれる。
 怖くなる。

 千里は最近、おかしい。

 ずっと、俺じゃない、空や窓の向こうを見ていることが増えた。
 呼びかけないと、俺を振り向かない。呼ばない。
 まるで、『呼びたい』誰かが『窓の向こうに』いるみたいに。

「…っ」
 首を左右に慌てて振る。
「アカンて」
 こんな早合点してどうするんだと自分を諫めた。
 あいつは、優しいし、俺を大事にするし、金太郎にだって優しくて。
 忙しくても、帰ったら呼んで、キスしてくれる。
 大事に愛されてるのに、不安になるなんて。
 いつもご飯を食べる椅子をひいて、座る。
「帰って、来い…」
 早く。
 そうして、馬鹿だって、アホだって、考えすぎだって笑って欲しい。
 雨だから、不安になったんじゃないかって。
 深読みしすぎだって、笑って。
 長い沈黙は、独りの時間を蝕んで、雨の音は増幅する。
 起きない息子を起こそうか。怖い。
 唐突に、家のチャイムが鳴った。
 千里じゃない。
 立ち上がって玄関に向かい、開けると、隣に住んでいる謙也が立っていた。
「…蔵? なんや、えらい、顔色悪いでお前」
「…あ、そうか?」
 そんなひどいだろうか。心配そうな親友に気遣わせまいと笑うと、彼の隣にいた謙也の夫まで心配そうにした。
「いや、ひどい顔ですって。蔵ノ介さん」
「寝起きが悪かったんやない?」
「…?」
 二人は顔を見合わせて、不思議そうにする。
「どないしたん?」
「実家からスイカもらったから、お裾分け。
 金太郎と千歳なんかよう食べるやろ?」
「ああ、ありがとう」
「中に運びますよ」
 財前が持っているスイカを、そのままダイニングまで運んでくれた。
 そこで、彼は不意にテーブルに起きっぱなしの携帯に気付いた。
「鳴っとりますよ?」
「あ、ほんまや…。千里のやけど」
 忘れて行ったのか。
 その時、なんだか、すごく嫌な予感がした。
 普段、携帯を盗み見たりしないけれど。
 だけど、妙に嫌な予感がして。
 俺の、嫌な予感は、妙に当たると自分でわかっていたから。
 予感がすると、本当に嫌なことが起こってることが多すぎて。
 だから、見て、安心したかったんだと思う。なにもなかった、と。
 思いたかった。
 メール一件。見知らぬアドレスと、明らかに女性の文面。
 内容に、余計、死ぬと思った。
「蔵ノ介?」
 謙也の声に、我に返る。
「あ、なんでもない。ごめん」
「…なんか、変なんやった?」
「ううん。会社の人みたいや。ごめんて、なんでもない」
 そう、必死に否定する、自分の顔色は、多分相当ひどかった。





 コンビニに来てから、雨が降り出して参った。
 傘を買うにも、金が足りない。
 仕方なく、小降りになってから帰り道を急いだ。
「あれ?」
 住んでいるアパートの軒先の下。
 いかにも、待っている形の姿は、蔵ノ介じゃない。
 隣の部屋の、会社の後輩。
「光? どげんしたと?」
 雨が入らないところまで来て、足を止めて見下ろすと、財前に軽く睨まれた。
「…心当たりがないなら、ええんですけど」
「…?」
 疑問符を浮かべると、財前は手元に握っていた携帯を千歳に放り投げた。
「これ、俺の」
「気付かないようにスって来たんです」
「は?」
「…まあともかく、中。新着メール」
 聞き捨てならないが、とりあえずフリップを開いてメール受信フォルダを見る。



『私のアドレスです。登録しておいてくださいね。また明日』



「……、てか? 誰ばい? これ」
「心当たりナシ?」
「なか」
「会社の誰かとか」
「俺、アドレスは会社の誰にも教えてなかよ。携帯番号しか。上司にも」
「…え? マジすか?」
「うん。やって、こういういらんメールが来たら、蔵が不安がる」
 から、誰にも教えなかったら、よか。と千歳。
「万一漏れたら?」
「即、アドレス変更」
 即答する千歳の顔に、やましさは全くなくて、本心だとわかる。
 財前は溜息を吐いた。
「これスったことにも、あの人、気付かなかったんです」
「…蔵?」
「ええ。よほど、思い詰めてたのか…ひどい、顔しとった」
 雨の音が、背後でする。
 不安を、膨らます音がする。
「なんか、しました?」
 その声さえ、なにかの、警告音みたいに、耳の奥でうるさい。






 玄関をくぐると、初めて出迎えがなかった。
 いつも、必ず出迎えてくれていたのに。
「蔵?」
 寝室を覗くと、いなかった。布団で眠る、息子の姿。
「……」

(こぎゃんときは…)

 心当たりは一つしかない。

 寝室の隣の部屋。書庫にしてある、狭い部屋だ。
 なにかあると、彼はそこで膝を抱えて悩む。
 自分にも吐き出せなくなると、独りで泣く。
「蔵ノ介」
 そこにいた彼は、身体を抱えて横になっていた。
 呼びかけに、視線だけ向けても、起きあがらない。
「…蔵」
 もう一度、呼んで傍にしゃがみ込む。
 髪を撫でようと手を伸ばすと、払われた。
「蔵?」
「……」
 自分を睨み付ける顔は、財前の言ったとおり、青ざめてひどかった。
「蔵。…待って。誤解ばい」
「なにが誤解や」
「あれは」
「だって」
 起きあがらせると、自分の手を振り払って、身を縮こまらせる。
「…あれは、多分、アドレス勘違いした誰かのメールばい」
「アドレスをどう勘違うんや」
「俺のアドレス、『chitose1231』で、アットマークやけん。
 …多分、同じ『千歳』さんの誰かで、誕生日が一日違いとかの人宛やなか?
 俺は、会社の誰にもアドレス教えてなか。光にも。
 一応メールが来るようにはしとるけん、それはPCアドレスを携帯で見れるようにしちょるだけばい。携帯アドレスにじかに来たりせん」
「……」
 相変わらず、ひどい顔が、自分を見上げている。
 心底、泣きそうに、辛い気持ちでいる時の顔。
「蔵。言うて? なにが、不安?」
 髪を撫でると、今度は振り払われなかった。そのまま、胸元に抱き寄せる。
「……、窓」
「まど?」
「最近、俺が呼ぶまで、外見てて。
 ずっと、見てて。
 窓の外に、誰かがおるんやないかって…」
 喉を詰まらせた声が腕の中で聞こえた。背中を何度も撫でると、徐々に弛緩する。
「…いや、」
「なんか、あるの? やっぱり」
「そうじゃなか」
 強く、言い切ると蔵ノ介はびっくりして、少し安堵したように自分を見た。
「あれは…、ほら、…最近、蔵が体調しんどそうやけん」
「…俺?」
「うん。なんか、そう見えっと。
 怠くなか?」
「…たまに、そうやけど」
「…休ませてやりたか。ばってん、俺が、…馬鹿やけん」
「…?」
「見てると、…ヤりたなるけん、…目をそらしとかんと」
 髪を何度も撫でられる。額にキスが落ちた。
「誤解せんでよか。…馬鹿やね」
「…、…、」
 一本一本を辿るように、撫でる手に合わせて、胸にすがりつくと、千歳の優しい声がした。
「ごめん」
「…ごめん」


 泣いてしまった。

 あとで、なんであんなに悲しかったのか、不安だったのか、わからなかった。




「てか、…普通に毎日くらいシとんのに?」
「…あー、実は、一日に、…もっとシたか」
「……わかった。わかった。無理や」
「言葉がおかしかよ?」

 買ってきたジュースを冷蔵庫に仕舞っていると、寝室から寝ぼけた息子が起きてきて、蔵ノ介に抱きついた。
「母ちゃん…、抱っこ…」
「こら、金ちゃんはもうおおきかろ?」
「…父ちゃんでもええ」
「…寝ぼけとるな。金ちゃん、父ちゃんがケーキ買ってきてくれたで?」
「ケーキ!?」
 一気に覚醒した息子に、「コンビニの安いんやけん」と千歳。
 はしゃぐ息子の声を聞きながら、外を見ると雨は止んでいた。





「…」
「謙也さん?」
 一方、謙也宅。数日後。
 携帯を持った謙也が、固まっている。
「どないしたんですか?」
「いや、この間の蔵ノ介な?」
「はい」
「……妊娠してたから、意味もなく不安やった…みたい、らしい」
「……そうですか。てか、俺も欲しいんですけど」
「あと八ヶ月待てば産まれるんになに言うてん」
「いやそうなんですけど」
 既に妊娠していた謙也は、「俺、そんな不安になってたっけ?」と考えている。
 背後に財前が乗っかってきたので、それも有耶無耶になった。















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 携帯サイトで相互の九条さまから「親子ちとくら」のリクエストでした。

 作成日時:2009/06/08