アルファルド

 第七話−【孤独な星に今すぐ届け】





 もう一度願うから、聞き届けてアルファルド。


 孤独なお前に、今すぐ届け。





『白石に絶対幻滅せんワケ。ナイフ掴んででも止めたワケ。白石を、否定してしまったワケ。全部同じ理由たい。
 俺が白石を好いとうから。だけん幻滅なんかせん。死んで欲しくなか。…先生のものにしたくなか。
 …もう白石の共犯ではおれなか。
 自分以外の場所での白石の幸福を俺は願えなか。
 …俺は、共犯の資格なかよ。
 白石の幸せを最後まで心から願えんでごめん。
 ばってん、俺は白石を好きになったこつ、後悔せん。
 白石を好きになれたこつは…一生幸せ』



 あの日の朝の千歳の声が、頭を何度もリフレインする。
 愛されていたなんて知らなかった。
 最初は、ただなんて孤独なヤツだろうと思った。
 なんて、俺と似ているんだと傍に近寄った。
 予想なんかしなかった。
 それが、彼の心の天秤を揺らすことになるなんて。

「白石」
 呼ばれてびくりと顔を上げた。
「おー、千歳」
「教科書、借りてよか?」
「あ…ああ」
 なんの教科かを聞いて、机から取り出す。手渡すとそれだけで嬉しそうに笑った千歳の手には、もうすぐ外れる包帯。
「…お前、最近よく学校来るな」
 目をそらすようにそう聞いた。事実、千歳はあの日以降よく学校に来た。
 真面目に授業に出て、たまに教科書を借りに来て。
 部活を引退したから、もっと来なくなると思っていたから。
 教師の「受験生の危機感が芽生えた」という言葉を、俺は信じてない。
「当たり前ばい。部活がもうなかもん」
「…「受験生」?」
 まさかあの教師、当たりかと思ったが千歳は速攻否定した。
「白石の隣の組やけんね」
「……?」
「授業にでも出んなら学校来れなか。
 もう授業出とらんと白石との接点なかけん、出るよ。
 あと体育は白石と合同やけん、サボったらもったいなか」
 笑顔でそう告げた千歳は至極真面目で、アホかなんて茶化す余裕は自分に既になく。
 ただ赤くなってしまった白石を周囲が面白そうに見る中、謙也が暢気に笑う。
「相変わらずラブラブやなー」
「待て、謙也…いつ俺と千歳がラブラブ?」
「前からやろ?
 お前ら付き合うてんやろが」
「………お前はそう思てん?」
「てかテニス部全員」
「……………っ!」
 あらぬ誤解だと叫びたい。そんなわけない。
 けれど、誤解やんな?と同意を求めて千歳を振り返ると、彼は酷く真面目な顔で白石を見下ろしていて。
 パニックすら起こしていた思考が急ブレーキで停止する。
 思考が、心が動かない。顔が、身体が動かない。
 悪魔に魅入られたように動きを止めてしまった白石を見つめたまま、千歳が囁くように呼ぶ。
「白石」
 呼ばれて思わず顔を思い切り逸らした。
 すぐなにをしているんだと自分を叱咤したけれど、もう取り返しなんかつかなかった。
 あれ以上に、取り返しのつかないことなんかないと思っていたのに。
「白石」
 顔を見るのが恐い。千歳だって、おかしいって思った筈だ。
 俺を好きと言ったのだ。傷ついたって不思議じゃない。
 なのに、呼ぶ声は静かで優しくて、まるで違う。
 俺が孤独な星と評した時の彼じゃない。
 振り返った先で笑んだまま見つめる声も顔も、孤独な星なんかじゃない、甘くて優しい星の声。
 声も出せず固まった白石にすっと近寄った身体が、プラチナと言っていい髪にそっと触れて、その指は毛先を辿るように降りて頬を撫でる。
 瞬間、更に近づいた千歳の顔に、思わずぎゅ、と目を閉じた。
 その耳に、悪戯じみた声。

「キスされる思った?」

 ハッとして目を開けると、もう身を離した千歳の顔がにこにこと笑っている。
 謀られた。
「期待した? 流石に教室じゃ出来なかねぇ」
「するかアホ!」
「そう? 期待されんでもするけど」
「…っ!」
 白石が真っ赤になったのと同時に周囲の生徒が沸く。
 千歳が教科書片手に背を向けながら顔だけ振り返る。
「キスもそれ以上もしたか。嫌がるならその気にさせる。
 俺、お前よりそういう場数は踏んどうよ。
 言うたろ? …好いとうよ、て」
 言うだけ言ってさっさと二組を後にした千歳をざわめきで見送ったクラスメイトがすぐ白石に視線を向ける。
「お前ら、ちったぁ恥と外聞気にせえや?」
 背後の謙也の、「ラブラブなんは知っとるから」という呆れ声に否定を返す気力もない。
「…謙也…」
「ん?」
「悪い。サボる。先生に保健室てよろしく」
「……は!?」
 背後で数秒の理解の間の後驚いた謙也を振り返らず、白石は早足で教室を飛び出した。
「…マジ? 次、オサムちゃんの授業やろ…」





 廊下を校則ぎりぎりの速度で歩きながら、白石は沸騰したんじゃないかという頭を必死に働かせる。
 三年の教室じゃアカン。金ちゃん、なんかもっと無理。…つか今から授業!
「…そや!」
 思い浮かんだ場所に向かって足を急がせる。

 墜ちている。
 墜ちたに決まってる。
 目があっただけで言うことを効くように目を閉じて。
 触れる指に『期待して』。

『期待した?』

 …したわアホ。
 する気なかったんに、したアホは俺や。
 そうさせたんはお前やろ!
 告白して、抱きしめて、好きって言ってキスした人間が普通にあの流れで触れるなんて誰が信じるんや!

 がん!と音がする程扉を開けて中に入ってから、ずるとその場にしゃがみ込む。

 でも、それがイヤじゃない自分。
 迷惑や、ない自分。

 …期待する、自分。

 嘘や。
 俺は先生が好き。
 なのに、

「ちょっと図書館の扉の開け閉めは静かに――――――――――…部長?」
 今の部長はお前や、と突っ込んだ。



「珍しっスねぇ。サボりですか」
「サボり図書委員に言われたない」
 立ち上がってカウンターの中の財前に言う。
「今の白石先輩ですよね? 凄い勢いで扉閉めたん」
「うん。あ、財前!」
「はい?」
「そこ、匿ってくれ」
「………………………は?」
 白石が指さした『そこ』は財前の目が狂っていなければ、図書委員のいるカウンターの中だった。


「てかなんなんスか。匿ってて」
「他にないんやもん」
 結局中に招いた形の白石はしゃがみ込んで、外から見えないように頭を低くしている。
 全く持ってらしくない。
「千歳先輩?」
「なんでわかるん!?」
「いやなんでってなんとなく…あの謙也くんでさえわかるし。
 やなくて、…」
「わからん」
「?」
「けど…笑われてどきどきして…触れられたらキスされるて期待する」
「…部長、今更初恋みたいなこと言われても」
「……財前」
 途方に暮れたように声がかけられる。
 無敵の部長の姿はどこにいったのか、という顔。
「…俺、…先生とはそう見えたことなかったん?」
「…は?」
「『先生好き』みたいな…風に」
「いや全く皆無ですわ。…つか、なんスかその爆弾発言。
 千歳先輩とずっと付き合うてたんでしょ?」
「…謙也にも言われた。…いつから」
「……割と最初からです。でも」
 ?と見上げた後輩が、思い出すようにしてああ、と頷く。
「もう大会が始まる頃か、いつか明確に覚えてません。
 けど、いつからか千歳先輩のあんたを見る目が、…優しくなったんですわ。
 ものっそう大事やて、愛しいて目で語っとって、あんたもそれに嬉しそうに応えてた。
 やから付き合うてるてみんな思っとった」

 愛しい? 大事?

 千歳は、いつ俺を好きと気付いた?
 橘との試合のあと?
 なら、気付く前から彼はもう―――――――――――――。

 そして、俺はそれに応えていた。

『それ』を嬉しいと受け取っていた、気付かなかったうちから。

 気付くのは必要だった?

 千歳の傍が心地よかった。
 本当はずっと。
 謙也たちより、家族より、…先生より。
 暖かくて、泣きたい程安らげる腕の中に帰りたいと願ったから、あの日抱きしめられて嬉しかった?
 もう帰れないと思っていた腕に抱きしめられて、涙は溢れたのだろうか。

 彼はもう、共犯じゃない。

 千歳はもう違う。
 彼はもう共犯でも、自分を否定した人でも、部員でもない。
 引退したから、もう自分は千歳を構う理由のある部長じゃない。
 なら、今日も学校に来ていると知って胸にじんわりと染みる気持ちは…



「久しぶりやな」
「あ…」
 不意に言われて、思考が引き戻された。
 昼休みに渡邊を見かけた途端、彼に呼ばれた。
 手伝って欲しい、と。
 渡邊はあの一件には触れない。
 けれど、今見つめる彼の瞳は、その答えを自分に促していて。

 迷うことなどないと思っていた。

 彼が自分を欲する日を、頑なに願ったのは自分。
 似ている、が動機でいい。だから、俺を選んで。
 そう願った。
 悪魔になろうと願ったのも全て、そのためだ。
 でも差し出された手を、人を前にして、迷うのは何故。
 あの日、逃げたのは何故。

 願ったままに、抱きしめられていればよかったんじゃないのか。

「…くんが好きなんや」

 耳に触れた声に、ハッと視線を窓の外に動かした。
 今の声は『千歳』と言った。
 窓の外に立つ、千歳と見知らぬ女子。
 告白、なんてすぐわかる。

 胸に沸いた苛立ちが急かす。
 なに断るの考えてん。
 俺が好きやから、て言えや。
 言えばええやろ。

「…白石」

 肩を掴まれて間近で呼ばれて、急に思考は現実に帰った。
 目の前にいるのは渡邊だ。
「せんせい」
「白石…」
 自分を呼ぶ声に、辛さが混じっている。
 何故と、悩む必要は既になく。
 やって、あなたは理解ってる。

 ずっと見えないふりで、目隠しした。
 先生が好きなんに、他の男が気になるなんてと。
 どれだけ軽いんだ自分は、と見えないふりをした千歳への気持ち。

 でも、今が答えだ。

 その渡邊に、彼と二人きりの部屋で『応え』を望まれていて、応えれば彼が自分のモノになる時に。
 千歳の声に反応して、そちらを見て、自分を好きと言えと願う自分。
 …その気持ちが、答え以外のなんなんだ。


「俺は、好きな奴がおるから」


 外で千歳の声がする。
 行きたいんだと、あそこに早くと願う心を、嘘だなんて呼べない。
「…先生」
 呼んで見上げた恩師の顔は、わかったように目を細めて、少し痛そうに笑ってみせた。
「先生、今でも好きですよ。
 …先生の、あなたが」
 そう告げて、部屋を飛び出した。
 追う足音はない。



 もう、一人の男のあなたを好きな俺はいない。
 好きなのは、『先生』。先生を他の教え子と同じに思う、普通の心。

 廊下を抜けて、上履きのまま出た庭を走ると、そこに立つ千歳が振り返る。
 下駄を履く足。自分より大きな、腕。巨きな身体。柔らかい声。




「千歳」




 俺の、





 俺の好きな人。





 あの日の、孤独な星に届くように声にした。


 時間もなにもかも越えて、届いて。


 抱きしめてくれ。




「好き」





 この声に願う。
 どうか今すぐ届け。

 孤独な星に今すぐ届け。

 そうしたら、もう、俺もお前も孤独じゃない、傍で輝く二つの星。




 泣きそうに微笑んだ身体が駆け寄って、抱きしめてくれる。

 耳元で囁かれて、囚われるように上げた顔に落とされたキス。

 名前を呼んだら、もう一度落とされた。












 2008/12/29 THE END