学期始めの身体検査。おそらく身長測定を終えたのだろう知念が、次の検査箇所に行かずぼーっとしている姿を見つけて、甲斐は一緒にいた平古場を促した。
「あれ、知念。なにやってんだ?」
「さあ、でもぼーっとしてる」
行ってみよう、と言う甲斐に引っ張られるまでもなく、平古場はその長身に寄った。
「知念くん、どうしたの?」
甲斐が聞く。しかし、知念は視線を動かしもせず、ただただ無言だ。
「知念、どした?」
平古場が聞いても同じだ。
「………おい」
平古場は知念に対して割と短気だ。あっさり知念を蹴った平古場になれているのだろう。
甲斐は拍子に知念が取り落とした調査票を拾って、どしたの? ともう一度聞いた。
すると、今度はようやく我に返ったらしい知念が、調査票を受け取りながら無言でそれを甲斐に見せた。
「ん? なんだよ知念くん…。まだ身長測定しかしてないじゃん。何分ここでぼーっとしてたんだよ」
「……確か、十一時頃」
「うおーい知念、今十一時半だぞ。お前測定全部周りきるんか?」
平古場もさすがに呆れた。しかし知念はまだなにか考え込んでいる。
「どしたの? ほんとに。なんか誰かになにか言われたの?」
知念はごくまれに、その長身からからかいを受ける種の人間だ。まあ、田仁志ほどではないが。
「さっき、測定が一緒になった永四郎が」
「木手が?」
「俺の測定結果聞くなり、肩に手を置いて真顔で…“キャイーンのウド”……って」
平古場と甲斐は頭を押さえた。あの主将は、と思う。
木手は普段、馬鹿にするようなことは本当に価値がないと思っている相手にしかしない。
仲間内で、彼が他人を馬鹿にしているところは(冗談としてはともかく)全く見ない。
しかし。
「裕次郎…。それ、永四郎多分」
「うん、…“ウドの大木”って言いたかっただけなんだろーな」
迷った末、出た言葉がたまたま“キャイーンのウド”しかなかったのだろう。ウドはあってる。しかし他の単語があっていない。これでは某芸能人のことだ。それで知念は何故キャイーンのウドと似たところなどない自分がそんな呼ばれ方を(それも木手に)されたのかわからず三十分も無為に過ごした、ということか。
「……あれ、でもあいつ、身長気にしてたっけ?」
そういう文句が出るということはそういうことなのだが。
「いや、聞いたことない。気にしてないだろ。あれは。俺らよか一応高いし」
ますますもって謎だ。
「あ、ゆーじ。凛くん」
遠くから呼ぶ声がして、次いでどしんどしんという足音。すぐわかる。
「慧くん」
「二人はどこまで回ったさ? 俺はあと視力と足のサイズ」
「俺らはあと体重と…待て慧。なにその足のサイズって」
「あ、知らない? 身長及び体重で上履きの変動がありそうな生徒は調査票にはんこ押されて測定行くって今年の決まり」
「ああ、そんなのあったのか」
確かに、自分たちには無縁の測定項目だ。はんこなど押されなかったし。
「……ちょい待ち凛」
「ん?」
「さっきの知念くんの調査票にも、はんこなかった?」
「あ、あった」
「知念? あ、いる。あいつなにやってんの?」
田仁志は今気付いたらしい。零した意見はもっともだ。
「さあ。なんか測定結果言ったとたん、木手に“キャイーンのウド”呼ばわりされたらしくて…」
「あ。主将ならさっき会ったわ。俺」
「え? どうだった? いつも通り?」
「いつも通り……………」
田仁志は考え込む。仕草、口調はいつも通りだった。
「あ、」
「なに?」
「俺の測定結果聞いて、主将こう言ったさ。
“ブルータス”…って」
「なんだなんだ? あいつの中では今誰かしらに文句つけんのが流行ってんのか?」
「ブルータスってなに裕次郎」
「カエサルのだよ。ほら、美術室の彫像の下の紙に“お前もかブルータス”ってあんじゃん」
「ああ……なに、裏切り者ってこと?」
「多分…」
そう言った瞬間、田仁志はひどく情けない顔をした。その彫像のことは知らなかったのだろう。田仁志は木手に同級生としては異常なほどの尊敬があるのだ。
俺は尊敬する主将のなにを裏切ったんだろうと頭を抱える田仁志の巨体の後ろから、あ、と不知火が顔を出した。隣に二年の新垣もいる。
「おうダブルスコンビー」
「お前らなにこんな固まってんの」
「いや、それがさ」
甲斐は簡潔に、本日の主将の奇行(奇言?)を説明した。
「……あー」
しかし不知火と新垣の口から漏れたのは、納得したという意味の“あー”だった。
「え? お前らなんか知ってんの? 木手実は女だったとか」
「なんで女」
「いやあの日とか」
「んなわけないって。いや、お前らさ、木手の足のサイズ知ってる?」
と不知火。いや知らない、と答える。
第一、足のサイズなど聞いたこともない。
「木手なら、そだな。27センチくらいが妥当だろ」
「いやあの長時間の片足立ち見ろよ。28くらいあんね」
えーそれはちょっとさーと言い合い未満の言い合いに走りかけた平古場たちに、まだいたらしい知念が、ああ、そうか、とようやくの納得を見せた。
「え? 知念くん、なんかわかったの?」
「ああ、さすが知念。わかったか。田仁志に対するブルータスもなぁ」
「え? 裏切り者だろ?」
「違う。ブルータスは、意味だけなら、阿呆、なんだよ。木手は多分そっちの意味で使った」
「……阿呆」
田仁志はやや呆然と呟いた。
「木手さあ、足のサイズ入学した時からずっと25センチなんだよな」
不知火の言葉に、平古場と甲斐、田仁志はしばらく理解が追いつかず目撃した女子曰く、魚のような機能していない目をしていたらしい。
「……25?」
「25」
「木手が?」
「そう、入学した時からずっと」
「………」
それで足のサイズの変更の余地あり、とはんこを押された知念と田仁志に訳の分からない言葉をふっかけたのか、と気付いた二人は一緒になってため息をついた。
あいつは、と呟く。
「あれ、なんでこんなとこに全員集合してるの」
そういう周波の日らしい。やってきた木手の声に、お前の所為だと言いそうになって、平古場はやめた。
「……永四郎?」
「なんですか?」
顔には出ていない。出ていないが。
「なんか、機嫌、いい?」
「そんなことないですけど。早く測定終わらせなさいよ」
木手は長居する気がないのか、さっさと行ってしまった。しかし、まとう空気がどことなく上機嫌な気がしたのだが。
「……先輩」
新垣がひっそりとチクった。なに? と聞く先輩たちに。
「主将が持ってた調査票、…はんこ押されてました」
後輩のつつましやかな報告に納得。だから上機嫌。それを押されるまでの自分の奇行など覚えてもいないのだろう。
疲れた。と平古場は甲斐を引っ張って体育館の中に向かう。
知念がようやく、よかったと呟いて次の測定に向かった。甲斐が最後によかった、じゃねーって。と言うが聞いているのか果たしてわからない。
ああ、俺たちの周りはマイペースすぎる奴らばっかだ、と甲斐は呟いたがテニス部以外の人間には甲斐と平古場も同じ印象を抱かれていることを彼らは知らない。
でも、今日の部活は木手機嫌いいだろうから多少楽じゃねえ? いや晴美次第だろ。と交わし会っていた平古場と甲斐の予想を裏切って、放課後、部活に現れた木手の顔は暗かった。不機嫌、というより暗かった。
不知火が、足のサイズの測定結果が、0.5センチしか変わってなかったかららしい、と教えてくれた。
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