微熱

◆微熱◆










「――――――――――――――――はぁ、流石乙女の考える事って…」
 妙に脱力して呟き、べたりと屋上に寝っ転がる友人の髪を、風が流していく。
 空はよく晴れた夏の色。嵐の後の、高い空。





 その日は、やけに視線が宙を彷徨いていた。
 これ以上の表現がない。

「……なんか、今日滅茶苦茶人と眼が合ってる気がする」
 昼食中の避難場所を探しつつ、ぽつりと呟いた菊丸の声を、廊下の雑音の中でもはっきりと捕らえて不二がそちらを振り返る。
「あれ、英二も?」
「……不二も? なんか大石も似たよーなこと言ってたなぁ」
 弁当を持った手をぶらぶらと振りながら、歩く。その足下に幾筋にもなって落ちた窓からの日差し。人の影が何度も横切って途切れない。
「そういえば、手塚もなんか言ってたな」
「…手塚も? そりゃ重傷だぁ」
「酷い言い方だよねそれ」
「だってあいつこーゆーの疎いじゃん」
「まぁ。っていうか視線については手塚気付いてないよ?」

「そう。あいつが言ってるのは接触の多さだよな」

 別に、効果音は何でも良いが。
 ヌッだかニュッだか、急に乾が現れて不二の台詞を引き継いだものだから、菊丸は場も考えずに声を上げて驚いた。
 とりあえず、傍らの不二が全然驚いていないことに気付かない程度には。
「お…ッ! お前なァッ急に現れんのよせって言ってるだろぉ!?」
 寿命が縮むだろうが等と吠える菊丸に辺りの生徒はくすくすと笑いを漏らすが、当人達には知ったことではない。元凶たる乾にしれっと。
「急に、とは言うけど気配は絶ってないよ?」
 とか宣われて、危うく弁当箱を落としそうになる。
「俺は忍者じゃないっつーの」
「猫は敏感だと思ったんだけど」
「お前、俺を人間だと認識してる?」
「してなければ口は利かない。――――――――――――第一、俺も同じ組なんだからお前等の行動を把握して尾行する事くらい予想して然るべきだと思うが。
 で、今日は何処行くんだ?」
「………一緒に飯食う気かい」

 いつもは誘うまで一人で食べたり余所行ったりしてる癖に、何かイベント絡みになると積極的に接触してくる男だとは一年少しの付き合いで判っていても、どうにも納得行かないものがある。
 もう突っ込みも入れていない辺り、不二は達観してしまっているのだろうが。

「校舎裏か屋上がパターンだけど。乾、他に人気のない場所はない?」
「訊くなお前も」
「そうだね。やっぱり今の時期は屋上が空いてると思うよ」
「お前も答えるなよ…」
「というか菊丸」
「英二、乾と一緒に食べるの嫌?」

 同時にくるりとかこっち向かれて、問われて『Yes』とか男気のある返答を返せる奴は、この学校内で誰もいないんじゃないでしょうか。
 とか言う言葉が頭に浮かんで、菊丸は無言で横に首を振った。





 ―――――――――――で、現在に至る。



「通りで、最近よく人と眼が合うと思った」
 主な情報源である乾に向けて、ぴこぴこと箸を振りながら不二もようやく納得いったという風に足を伸ばす。
 屋上の石のタイルの継ぎ目から生えた草が、息苦しそうに手に触れる。
「流石乙女といわんばかりのジンクスだよなぁ…。男にゃ真似できません」
「菊丸、箸噛むな」
「なんだよ手塚みたいな事…」
「俺の食事マナーは手塚仕込みなんで」
 真顔で返されて、何だよソレと呟きながら菊丸はくわえていた箸を放す。
 一年時結構箸の扱いが酷かった乾を矯正したのが手塚だという事実を知らないから言えるのだが、知っていて尚軽く吹き出している不二を横目で見て、乾は大げさに音を立てて弁当箱の蓋を閉める。
「あれ、もう食い終わったん?」
「半分くらい食べといてお前が言うか」
「人の中身減らす前に自分の弁当の中身減らそうよね英二」
 にこりと笑って言う不二に、思わず身体を軽く退きながら苦く笑う。

(…不二の弁当にはあんまり手ぇ付けてないはずなんだけど)

 目を逸らす目的で見渡した屋上は、自分達以外に誰もいなくてがらりとしている。
 空が目一杯に見えて、取っ払いたくなる程にフェンスが邪魔だった。本当に雲が白くて、自身の上に雲の影が落ちる事にも気付いていなかった。

「…あーあ、」
「……なに、英二それ」
「いや、夏だなぁと思いまして」
「で、なんで忌々しげなんだ」
「いやだって、こん中で乾だけ十四歳じゃん。
 身長だってさ、前はやたらチビだった癖に今じゃ手塚と良い勝負だしさぁ」
 不公平だと言えば大仰に呆れられる。
「俺が関節痛に苦しんでた時は腹抱えて笑ってた癖に」
「だって間抜けだったんだもん」
「それを本人の前で言うか」
「ッだ――――――――――――! 痛い! 痛い痛いマジギブギブ悪かったもう言いません―――――――――!」
 つむじの上に拳の回転を食らって悲鳴を上げる菊丸を見ては苦笑しながら、不二は先程の彼の言葉を意味もなく反芻する。


『なんか、好きな人に一日三回接触できたら両思いになれるとかいうジンクスが流行ってるらしいよ』


 確かに乙女だ。
 男じゃ思いつかない。上に馬鹿笑いでもしそうな話だ。
 御陰で納得は出来たけど、流石に―――――――――鬱陶しい気もするのではないかこれは。手塚が気にするくらいだからな。
 イベント好きの部長ならノリそうな気もするが。
「……英二、早く食べないと終わるよ? 昼休み」
「え? おわッやべぇ!」
「自業自得って一番相応しいの菊丸だよな」
「喧しい乾!」

(ま、僕達には無縁の話だな)

 ジンクスはジンクス。それで叶うなら苦労はしない。
 本当は誰でも、判ってることだとは、思うんだ。






 一度は意識下に置いた事。
 忘れることが出来たのは、君の姿を見なかったから。

「…あれ」
 彼の姿がない。

 教室から見える風景は、日に照らされた砂色の校庭と雲の影のコントラスト。
 夏の気配を徐々に高めて、空気を薙ぐ風が窓から校舎に流れ込む。
 BGMのように、鼓膜を騒がす教師の声とチョークの音色。校庭から聞こえる生徒の笑い声。
 二年一組のはずだ。合同体育の時間のはずだから、手塚がいて当然のハズなのだが。
 姿がない。目立つから、見落とすとは思えない。
 校庭の端から端まで視線を巡らせていると、前の席の生徒が指されて一旦中断させられる。とりあえずという風に前に視線を戻した不二を隣の席から見遣って、『手塚?』と乾が囁く。
「……、読むなよ」
 軽く睨む。効果など無くて、薄い眼鏡の奥で目を細める所作が、如何にもわざとらしい。
「読んでないよ。ただ水曜の三限目は一組が体育だったなと思い出しただけ」
「わざとらしい奴…」
「不二が顕著すぎるんだ」
 普段はそうじゃないのにな?、―――――――――――口角を吊り上げる様に露骨に腹は立たないけれど仕返しの一つもしたくなる。
 菊丸が隣の席ならまだよかった。
けれど担任が『不二が隣だと菊丸が甘えるからな』とか言うから、彼は不二の真後ろの席にいる。

「…で? 随分長く視線を彷徨わせていたじゃない。見付からなかったのか?」
 やはりわざとらしい。乾という男は日常茶飯事に何か企んでいるような態度と表情と声音をしているから質悪い。一年の時、部長は彼を『生意気』だと評したが乾の場合その上に『確信犯』がつく。
 ほんの僅か理性を欠いて『いなかった』と答えると、一瞬だけ怪訝な顔を見せた。
「手塚が? いない? 本当に?」
「いないよ。見た範囲では」
「見落としたんだろ。あの手塚がサボリは有り得ないし、二限前に会った時は不調でもなかった」
「会ったの…?」
「会ったよ。六組の所で」
 また校庭に視線を落として手塚探しを再開した不二を、数度横目で見遣っては小さく笑う。乾の片手で、教科書が線を引かれて痕を残した。時々ノートにも書き込んでいる。黒板と校庭と不二、どれにも意識を傾けて、そのどれかを疎かにするつもりも乾にはないらしい。

「『不二に用がある』って言ってたから代わりに承っておいた」

「――――――――――――――――、…ッ」

 余程驚いたのか、息を半端に吸い込んだ音まで聞こえた。振り向いた勢いで色素の薄い髪がさらりと揺れる。だから顕著なんだよと胸中で呟く。
「放課後のクラス委員の集まりで誰が行くんだと言うので八組は俺が行くと答えておいた。一組は手塚だそうだよ」
「…乾…どーして君そーゆー事すんの?」
 一組二人ずついるクラス委員の片方が出席する事になっていた集まりだ。
 一組の委員長は手塚で、八組の委員は不二と乾だった。
「不二が言ったんじゃないか。『部活潰れるし面倒だから嫌』って」
「手塚が行くなんて知らなかったよ…。いつももう一人の人が行ってたじゃない」
「だからでしょ。たまにはサボリたくなったんでないの? 片割れも」
「………意地悪」
「ま、委員長は俺だし」
「い――じ――わ――る――」
「…………頼むから俺の前で内緒話すんなよ気になるなぁ…」
「あ、委員長。あとでノート見して」
 仲間はずれにされたような心持ちの菊丸と、一番後ろの席であるから黒板の字が書き取れなかったらしい隣の生徒が話を割る。
「はい、丁度さっきのでノート終わったから写してていいよ」
「さんきゅ」
「乾、俺も見せて」
「応相談」
「ケチ」
 横と後ろで交わされる会話から耳を背けながら、不二はもう一度校庭を見渡す。
 今度はいた。持久走の練習をしている。さっきはきっと別の場所にいたんだ。見落とすはずがないあんな目立つ人。
 段々愚痴めいてきて、疲れてくるし眠くなる。
 そりゃ確かに面倒だと言ったけど、言ったけど。なんだか酷い。
 手塚もどうして納得するんだ。八つ当たりだそんなの。一方通行なのに偉そうじゃないか自分。
 会いたいんだよ。狡い。






 放課後の、夕焼けに照らされた校舎。
 騒ぎながら帰る生徒の群。はしゃぎ声。放送と、流していく風。一面の、赤い色。
 窓が、オレンジに染まる。
 廊下を歩く足音が、一つきりで、大した音も立てずに響く。
 横目で見る、教室の中には日差しを受けた机ばかり。人が過ごした後を残すように、乱れた机と、乱雑に閉じられたロッカー。
 誰もいない。

 手塚と乾は、今頃集まりで会議室だ。あんまり遅れると、部長にどやされるな。
 知りながら、一組の教室の側を通って、中を覗く。
 オレンジの色。
 手塚の机が何処だが、すぐに判る。
 きっと、大したズレもなく置かれていたのに、掃除の生徒がまたズラしてしまったんだろう。妙に斜めになって。
 苦笑する。廊下の硝子窓に手の平を押しつけて、彼の机に触れるようになぞる。
 馬鹿らしい。ジンクスより余程、少女趣味だ。らしくないし、しょうもない。
 今日は君に、朝練でしか会っていない。ろくに話してもいない。

 そんな事を、考えて、馬鹿みたいだ。

 君が好きで堪らないけれど。


 報いのない恋だと、知っていた。


「――――――――――――――――…早く行こう」
 これで走らされたら完全に馬鹿だ。
 踵を返した靴の裏が、床と擦れ合ってキュと鳴った。
 身体の動きに、空気が動いて後ろに引かれるように流れる髪。
 頬も首筋も、窓からの日差しに染まる。オレンジ色。硝子の眩しい反射。
 足音。響く。二つ。

「…不二?」

 背中に掛けられた低い声に、思わず止まった身体は何より正直で。
 ああ、本当に救いのない。
 笑顔を取り繕って振り返る。会えたことに喜んでいるだけなんじゃないだろうか。全く。
 無表情のまま、少し驚いた風に。
 二メートルほど先の廊下に、彼が居た。
 自分と同じ風に、日差しに染まっているのが可笑しい。綺麗。
「部活に行ったんじゃないのか? 委員会は…」
「うん。乾。僕は今から。
 手塚こそ」
 まだ終わってないよね? と紡ぐ自分の声が、平静で助かった。
「ああ…、資料を取りに来たんだが」
「忘れたの?」
「いや、宮野が持っていたんだが今日は休みだから」
「取りに来たわけか」
 成る程。悪いとかいうんじゃなく、委員の相方が休んだからか。と昼間の会話に今頃納得をする。義務は義務としてきちんとやる人だが、テニスが関わると結構疎かになる場合もあるから。

 軽く苦笑して、なら早く急いだ方がいいと、胸中とは裏腹なことを言う。
 会えて嬉しいのだが、どうも自分は根性がない。
 教室に入る、彼の背を視線だけで追いかけた。
 制服の黒い背。日差しさえ染められない。永遠に届かないものかな。もう一度硝子窓に触れた。廊下からでは、彼の姿は窓にさらした手の平よりも小さくて。
 掴むように、指を伸ばした。
 窓の外で、沈み欠けた夕焼けを彼の肩越しに見る。
 やがて振り返って、驚いたような顔で言うんだろう。
 行かなくていいのか、と。
 彼が鈍いワケじゃない(鋭いとも思わないが)。同性だからそれは当たり前だ。普通考えない。男が好きなわけではない。彼が女だったら惚れたかと言えばNOで、自分が女でも然りだ。
「……手塚!」
 名を、呼ぶ。彼の名前だと思うだけで、特別なようだ。
 振り返った顔に、微笑む。
「じゃ、僕行くね」
 軽くだけ、見えるように手を振った。
 逆の方向を向く踵。後ろ髪引かれるように、流れた髪。
「不二」
 不意に伸びた手が、不二の肩を掴んで歩みを止めさせた。
 一瞬で離れた熱が、飛び火したように、肩の上で残る。
「今日、かなり遅くなると思うから。部長に伝えて置いてくれないか」
 肩に触れたがる、自分の手を押さえて、何でもないように笑った。
 うん、とちゃんと、声は告げた。
 肩が熱い。掴まれた、ほんの少しの、布越しの皮膚。
 体温なんか、通って無さそうなのに。驚くほどに暖かい。
 背中を見送りながら、同じ所に被せた手の平に、冷たさしか、伝わらなかったけれども。





“好きな人に一日三回接触できたら両思いになれる”





 そんなジンクスは要らない。
 触れる気になれば、触れられたんだ。いくらでも。部活の中で。

 意味がないから。意味はないから。


“有り得ないことだから”








 彼が好きだ。その恋は、初めから報いのない形でしか、生まれなかった。
 こんな形でなければ、生まれなかった。

 救いのない、恋だった。