『―――――――――白石が、越前に犯された』
たったそれだけの電話で千歳に呼び出されて、撮影を抜けてきた謙也と財前が部屋に来た時、白石は瞼を赤く腫らして千歳の腕の中で眠っていた。
衣服も整えられていて、にわかに信じがたかった。
それでも泣きはらしたとわかる白石と、千歳の顔。
白石の腕に残る拘束の痕に、信じるしかなかった。
「……千歳」
謝罪も、なにも必要とされていない。わかった。
彼が求めているのは、同じグループのメンバーとしての協力だ。
白石を守るための。
「…俺らは、なにすればええ」
白石を抱きしめたまま無言で謙也たちを見る千歳にそう言った。
…従うつもりだ。なんであっても。
仲間を守るためなら。
「―――――――――降りよう。この仕事」
千歳の口から零れた、はっきりとした意志を今更保身でどうこう言うつもりはない。
降板は芸能生命に関わることくらい、謙也も財前も知っている。
それでも。
――――――――仲間より優先出来る大事なものなんてなかった。
「…わかった」
「はい。じゃ、俺が言って来ますよ」
「………」
間髪入れずに返された了解の言葉に、千歳は驚いたように二人を見上げる。
それを笑って、馬鹿言うなと口にした。
「この四人で活動できんようなるなら、俺はそっちの方が痛い。
もし今、首が危なくなっても、俺と、光と、お前と…白石が無事に生きてるなら、また始められる。何度でも最初から」
「俺も同意見です。危害を受けたのが千歳先輩でも、誰でも同じ。
グループの首と仲間なら、俺も謙也さんも、仲間選びます。
…千歳先輩だけが、白石さんが大事なわけないんですよ」
「……、」
自分を責めて流れた涙はもう止まったと思ったのに。
千歳の頬を伝うのは、間違いなく涙だった。
白石を抱きしめて、にじみながら言葉にする。
「有り難う……」
世間の反響は大きく、多くが酷いものだった。
『柊』の独断の降板――――――――マスコミの多くがそれを過剰なバッシングで描いた。
それでも根強いファンのおかげあって、柊は活動を止めずに存続することが決まった。
マスコミの騒ぎも落ち着いてきたのは、あの一件から、一ヶ月が経った十一月だった。
「じゃ、誰か来ても出たらいかんよ?」
「わかってます」
あれ以降、白石はほとんど千歳との家から出ないで過ごしている。
活動が再開すればそうもいかないが、許されるうちは部屋から出さずにいたかった。
守りたかった。それ以上に、誰も傷付けないよう、触れないように閉じこめたかった。
千歳自身あまり外出はしないよう心がけていたが、どうしても買い物などで出なければならない。
いつものように念を押す千歳に、大丈夫だと手を振った。
「ちゃんとチェーンかけとくと」
「はい」
何度も頷くと、やっと安心したのか、千歳は額にキスを一つすると出かけていった。
優しくされるのはくすぐったいから、気持ちいい。
それでも見送って、振っていた手が降りるのは、罪悪からか、寂しいからか。
千歳は過剰な程愛を告げてくれたし、抱きしめてもくれた。
それでも、白石が己を責める以上に、千歳が自分自身を責めることが辛かった。
謙也と財前にも、申し訳なかった。
実際はなんとか落ち着いてきたが、自分がきっかけでグループが受けたものは小さくない。会った時、二人はいい、と笑ってくれたけれど。
――――――呵責は、あるはずだった。
千歳を裏切った、千歳以外に抱かれた恐怖と嫌悪と、罪悪。
なのに、それでも千歳が彼自身を責めるから。
責めて、傷ついて、泣きそうに笑うから。
『…守れんで……ごめんな…―――――――――――』
そう言って壊れそうに泣くから。
泣きながら笑うから。
不思議なほど、今は罪悪がなかった。
千歳が苦しむ方が辛く、それに比べれば自分がされたことなど、気にしている場合ではなかった。
嫌悪も恐怖も、時間と一緒に薄れた。
それに、救いだったのは薬を使われたことだった。
あの所為で記憶はひどく曖昧で、なにをどんな風にされたかすら、よく思い出せない。
だから、白石は笑うようになっていた。
思考を引き戻したのは、郵便受けに入れられた郵便物の音だった。
「…なんやろ」
何気なく、深く考えず手にとって裏返して、床に落としてしまった。
どくん、と鳴った心臓は、どんどん早くなった。
宛名は『白石蔵ノ介』。送り主は…『越前リョーマ』。
「…、」
落ち着け。と言い聞かせた。
あれは、ただの郵便だ。
あの男じゃない。
震える手を叱咤して、茶封筒を取ると、ガムテープでされた封を剥がした。
中から出てきたのは、
「ビデオテープ……」
もっともの凄いものが出てくると思っていたので、拍子抜けした。
しかし、ビデオ。
他にはなにも入っていない。
なんやろう、と深く考える前に、デッキに入れてしまったのが、後から考えれば過ちだったのだ。
入れてすぐ再生が始まった。
ツメが折られていたのだろう。
『……―――――――――――――』
大きなテレビに映された映像を、一瞬理解出来なかった。
理解が降った瞬間、手はリモコンを落としていた。
たかがビデオなんて、油断はあの男の前ではしてはいけなかったのだと。
その後悔が、自分を責め続ける種が芽吹いた瞬間だったのだ。
思い知る。
自分は間違いなく、千歳以外に犯された。
自分は間違いなく、…千歳を裏切った。
彼に犯された姿を映す映像が、それを思い知らせた。
足下でしたのは、持っていた買い物袋を玄関を閉めた瞬間に落としたからだ。
拾う気はなかった。
「…しらいし?」
掠れた声でも、彼を連れ戻せるならよかった。
砂嵐のままのテレビ。落ちたままのリモコン。
その前に座ったままの身体。その指が引っ掻いている首筋が、真っ赤に染まっている。
「白石!!」
叫んで部屋に飛び込むと、その手を掴んで引き離した。
皮膚をかきむしった爪が指の根本まで血で染まっている。
首を這うように残った傷を傍のタオルで押さえて、なんでと叫ぶように言うと、彼は笑った。
その場には、とても異常なほど柔らかく。
「やってここ…あの時、あいつがキスした…」
「…え」
「……千歳さんが、千歳さん責める必要あらへん」
「…白石?」
「…裏切ったんは、…俺やもん」
「………」
「……俺、悦んであいつに犯されとった」
意味が、理解できない。
したくない。
そもそも何故テレビは点いている?
脳裏に浮かんだ想像に、咄嗟にデッキを操作する。入っていたのは、見覚えのないラベルもないビデオテープ。
傍に落ちているのは、あの男の名前のある封筒。
全部わかってしまった。
ビデオの内容も。見なくとも。
白石の今の状態を引き起こした全てを。
「…千歳さんも…それ見たらそう思うやんな…?」
とても、
とても綺麗に微笑んでキミが言うから。
黙って抱きしめることしか出来なかった。
何故、こんなにも無力なのか、俺が俺に聞きたい。
何故、生まれて初めて出会った愛しい人を守れないのか、俺が俺自身に聞きたい。
「……白石」
もう、『ごめん』なんて言えない―――――――――――――。
すまなすぎて、言えるわけがなかった…。
三日ぶりに千歳の家に来た謙也たちが、説明を聞いて青ざめるのは当然だった。
奥の目張りされた扉の向こうに、白石がいると聞いた。
千歳はそれだけ言うと、出かけてくると一言。
「どこに…っ」
「あいつんとこばい」
「…謙也くん、白石さん頼む」
「光」
「千歳先輩、俺も行きます!」
脱ぎかけたジャケットを中途半端に腕に引っかけて、財前が千歳を追った。
残された謙也は、玄関に鍵がかかっているのを確認した後、扉をそっと開けた。
「…謙也さん?」
相変わらず柔らかい声だ。扉の中を見なかったら、自分は白石の状態には気付けっこなかっただろう。
「………謙也さん?」
狭い室内中に描かれた血文字は、同じ言葉しかない。
『ごめんなさい』と、それだけ。
彼の指は包帯をきつく巻かれて、それでも血が滲んでいる。
その両腕を、鎖が拘束していた。
ただ、酷く痛かった。
「…謙也さん?」
「…………、」
責めるな。
俺自身を今、俺が責めたら、白石はまた自分を責める。
だから、
「お前の好きな肉まん買うてきたから、食べようや」
だから、笑え、俺。
「…うん」
以前と同じ優しい声が狭い室内に、罰のように響いた。
それでも、
それでも、笑え。俺。
ほんの少しでも、痛いなんて、言っちゃダメだよ。
「いらっしゃい」
送り主の住所通りの家に、彼はいた。
千歳と財前をあっさり招き入れて、適当に座ってと言う。
「…、」
「まあ、探してもいいけど?」
「…は?」
なにを、という顔をした財前を、越前は小馬鹿にしたように笑った。
「ビデオとか、写真とか。あの人を写したものがないか、家中。
でもないよ。送ったあれっきり。あれがマスターテープだもん」
「そんなん信じ…!」
「どっちでもいいけど、延々あの人を脅すつもりなんて俺はないし」
越前は部屋の中央の椅子に座ると、足を組んだ。
「あと、俺も明日には本業でアメリカ帰るんだ。
だから、もうあの人には手出し出来ないし、会わないよ。ホント」
「……お前」
掠れた声が千歳から漏れた。
「…なにが、…したかった…?」
「あんたたちが見た全てがそうだよ」
「…それ、…だけのためと…? それだけのために…あいつを…っ」
抑制出来ない衝動に手を押さえた千歳を、越前は見遣ってまあ、と肯定した。
「…でも、俺がいなくなっても、もう幸せではいられないよね」
「……え」
財前が、どういう意味だと言う目で見た。
「人の記憶って厄介で、嫌なことは忘れりゃいいのに、それがリセット出来ない。
パソコンじゃないからね。
白石さんは、俺がいなくなっても、俺が死んでも、俺を忘れない。
自分の中に蒔かれた種が芽吹いた以上、どう足掻いても。
きっとあの人は、千歳さん、あんたに抱かれることも、愛されることも自分に許せないよ。あんたと幸せになることを、あの人の綺麗な心は許せない。
…俺は、それがしたかっただけ」
「……………」
「一度刻まれた烙印は、消えないんだよ。…知ってた?」
声が出ない。
殴れるならよかった。
けれど、それすら痛みと捉えないだろう彼になにが出来た。
初めから白石を“壊す”ことを狙っていた彼に。
どこからが計画の始まりなのか、わからない。
日本に来たところから? 俳優をやり始めたところから?
あの仕事を受けたところから? 見かけたところから?
それとも、もっと前―――――――――――?
あの人に伝えてよ、と彼は嗤う。
「『この恋は実ることはない』。
だけど、俺はあんたに恋をした」
越前リョーマは、本当に翌日の便でアメリカに帰った。
帰国予定は、全くないと報道も告げた。
大会シーズンも近く、帰れないことも、自分たちでもわかった。
「……どないする」
部屋でぽつりと呟いた謙也に、財前は首を振った。
「どうしようも…。どうにか、したいけど…っ」
「…泣くな」
頭を撫でて、そう言った。
「……記憶があるから、あかんよな」
「やからって、…人の記憶を消す方法なんか…」
言いかけて、財前は言葉を切った。
「光?」
閉ざされた扉の向こう、白石の姿は見えない。
そちらを一度見遣って、財前は口を開く。
「あの人…」
「え?」
「ほら、梶本さん…。催眠術使うて、千歳先輩の記憶を白石さんから奪った…」
「…やけん、あいつが言うとった。
完全に一人だけの記憶を消すんは、…今現在は不可能って」
「……あ」
「千歳の記憶を消したんと同じヤツやと、すぐ思い出してまうよな…」
「それに、術に使う懐中時計は、あいつがあの時壊してたと」
また沈黙が降る。
その時、電話が声をあげた。
「………」
スタジオでぱら、と本をめくっていた手が、不意に止まった。
「……意味がない」
ぱたんと本を閉じる。
そのまま傍のゴミ箱に捨てた。
海外で得た催眠治療の本だった。
偶然、見ていた梶本が見つけたのは、あの時は知らなかった、一個人だけの記憶を対象から完全に消去する方法だった。
けれど、今更千歳から彼を奪うつもりはもうない。
それに、術に使う懐中時計はあの時壊した。
もう、道具がない。
まとめて意味がないと片付けた時、外に出ていたグループのメンバーがどうしたと言ってきた。
「別に」
「そか? あ、忍足は?」
「彼は色々。柊が今大変でしょう? 彼はそこに幼馴染みと従兄弟がいます」
「ああ…」
梶本も詳しいことなど知らない。
ただ、侑士がなにかしているなら、自分が出来ることはない。
それは力になりたいけれど。
「そういや、梶本。お前、前こういうの持ってたよな?
外国の知人が祖母からもらったんだと。いらんからやるって。
お前いる?」
差し出されたそれは、以前自分が持っていたのと全く同じ造りの懐中時計。
咄嗟に手にとって、造りをよく確かめる。
細部まで同じだとわかった。
けれど、
「すいませんが、俺にはこれはもう―――――――――」
言いかけた時、その侑士から電話がかかってきた。
内容を聞き終えて、すぐ立ち上がるとその時計を手に取った。
「すいません、やっぱりもらいます!」
「あ、ああいいけど」
「ちょっと、用事が出来たので」
ゴミ箱から捨てたばかりのあの本を取り出すと掴んで部屋を飛び出した。
「……忙しいなぁ」
残った一人が、平和にそう言った。
侑士からの電話は、今の白石の状態を教えるものだった。
その上で、お前、催眠術使えるか?と。
電車を乗り継いで、最寄りの駅で降りる。千歳の家は一度来たので覚えていた。
部屋の前に立って、インターホンを鳴らす。
『誰や?』
「僕です。梶本貴久」
『…梶本?』
謙也らしい声が、驚いたように聞こえた。
部屋にあげてもらって、すぐ大体聞きました、と本題を出した。
「けど…あんた」
「偶然、本当についさっき、一個人の記憶のみを、完全消去する術を知ったんです。
時計もある」
手の平に載せた懐中時計を見せた。
「じゃあ…」
「…出来るかもしれません。少なくとも、彼を正常に戻すことくらいは」
言い終えて、閉じられた部屋の前に立つ。
開かれた部屋の惨状に、言いたい言葉は今はなかった。
「白石くん」
「…梶本?」
振り返った彼の眼に、開いた時計の文字盤を見せる。
瞬間、言葉を失った彼の前で、覚えたばかりの術の手順をそのまま行う。
「いいですか? あなたは、“その人に会ったことがない”。
“その人を最初から知らない”―――――――一日、一週間、一ヶ月、そのまま遡って、彼を全て忘れましょう」
合図のようにかちんと、時計を閉じる。すぐ意識を失った身体が倒れ込んでくるのを、受け止めて千歳たちに合図した。
「……終わった?」
「ええ」
「……」
これで助かるんだろうか。いや目覚めるまでわからないと葛藤する千歳たちに白石を預けると、梶本は立ち上がる。
「ただ…」
「ただ?」
「…身体の恐怖は、催眠で消去出来ません。
彼の身体は抱かれる恐怖を刻まれている。越前リョーマの“烙印”という言い方は言い得て妙です。
だから…、白石くんはおそらくそれ以外は以前と全く同じように笑える。キミたちと話せる。触れることも。
けれど、…抱かれることだけは堪えられない筈だ。
千歳くんが相手でも」
「………」
「そして、それに直面した時、一番戸惑うのは白石くんです。
越前リョーマの記憶が全くないから、何故千歳くんが怖いか、彼に抱かれることに恐怖するかわからない。故に怖い。
気付かせたらダメなんです」
「…それは、…」
「一生、千歳先輩に、白石さんを抱くな…って?」
「…」
梶本は肯定も否定もしなかった。
その代わり、覚えていてくれと言った。
「無惨な記憶というものは、最初から覚えている時より、一度完全に忘れて思い出した時の方がショックは大きい。
…知らない酷い記憶が、自分のものだと、認識することが人は一番辛い。
……それでも、消したのは今のままでは彼が死ぬと思ったからです」
そのことは、誰も否定出来ない。わかっていた筈だ。
「…あとは、キミたちの、キミのやり方にかかっている。…千歳くん」
「……俺」
「…そう。最後はキミ頼みです。
…彼が誰より安らげる場所はキミの傍だ。…キミの腕の中だ。
…わかってるはずだ」
「………」
自分の、腕の中。
「……ああ」
目を閉じて答えた千歳に頷いて、梶本は家を後にした。
あの後、目を覚ました白石はなにも覚えていなかった。
越前のことも、彼の名前も、存在も、出会ったドラマの話も。
差し障りのないようドラマのことだけ教えて、素直に納得していた。
活動が再開した始めの曲は、あの騒ぎが嘘のように売れて、また一位を飾った。
それでも、日本に一月だけいた、あの幼い悪魔を忘れられないまま、季節は十二月になろうとしていた。
THE END?