雪晶草−ネージュ・フルール−
-blind summer fishY-

後編−【さよなら、貴方の腕の中】







「で、一体なんのよう? あんたから、デートのお誘いなんて、…期待していいんだ?」
 自分の顔が利くというある小さなスタジオを兼ねたような部屋に連れて来られて、すぐ上着を脱いだ越前の背がやけに細く見えた。
「…もう一度、犯していいんだ?」
 振り返って笑った越前の視界に、すぐ目の前にいた白石に越前が一瞬驚いた瞬間、掴まれた腕、払われた足にバランスを崩した身体が床に押しつけられる。
「…やっぱりな…。捉えてまえば…、力も体格も…、俺の方がええ」
「……あんた」
「この前のお返しや。…耐久ゲーム、…わかんな?」
「…!? …ッ…ま」
 勢いよく、相当な力で白石に背後でひねり上げられた左手に、越前が思わず声を上げた。
「キミ、本職はテニス選手。やっけな。…で、左利き。
 ……キミの一番、もらうで」
「…ッ待っ…!!!!」
 軋むような、音が室内に響いた。
「ッ…あ……ぅあ…ッ」
 唾液を唇から零して呻いた越前に構わず白石は、背後にひねったままの折れた左手をまとめた右手と一緒にひねって、無理な形で手元にあったテープで拘束した。
「…あ…ッ」
「耐久ゲーム、言うたやろ?
 キミが俺に提示したのと、同じ三時間。
 俺に助け求めず、堪えられたら、解放して病院連れてったる。
 …堪えられんなら、…俺にこう言い?」
 ことさら優しく言った白石の指が、冷たい汗をかいた越前の顎を押し上げる。
「…『申し訳在りませんでした。もう二度と、あなたに危害を加えません』…てな」
 ああ、俺になにしたかも一緒にな。と笑う白石が、あの白石と同じ人間か、本気で疑った。
 白石はとん、と扉に背中を預けて立つ。あの日の自分のように。
「…さて、始めよな? 三時間耐久ゲーム」
 あの日の自分のような声は、まるで、悪魔のように。
 …彼にとって、そうだったように。

「けど、キミ、テニス選手やんな?
 …利き手持ち替えるんがどれくらいのハンデかしらんけど、その手、折って、更に負荷がかかるようにひねって縛ったから…そのまんま三時間も放置したら…完全に、ラケット握れん腕になるなぁ?」
「……ッ」
 始めたゲームが十分もしないうち、言った白石に越前は唇をかみしめる。
「俺は痛くもないで?
 キミが言える筈ないやんな?
 完全獲物やった俺に、手も足も出ずにやられました…なんて。
 ……男やのに?」
「……………ッ……ぁ」
「……まだ、二十分やで?」

 声だけが、支配する世界。
 白石が「一時間」と言った頃には、既に限界だった。
 涙が伝う頬に、白石の指先が触れる。
「…泣いてんの? ……味、すんな」
 すくった涙を舐めた白石が笑う。その指で顎を捉えて、見下ろす顔は、悪魔のように微笑んだ。
「…『申し訳ありませんでした』…て、言えば楽になれんで?
 …プライドと、これからのテニス、…どっちが大事?」
「…………っ……」
「…」
 笑んだ唇が、そのままひねられたままの腕を軽く押す刺激に、悲鳴が喉の奥で漏れた。
 わかっている。
「……わけ…ませ」
 悔しげに唇を噛みながら、涙を零して紡いだ越前の頬を優しく撫でて、白石が耳に声を流し込む。
「…聞こえんよ? もっとちゃんと、大きな声で、…言わなアカンで?」
 その耳に近づいた舌がぴちゃと耳朶を舐める感触すら、痛みだ。

「越前」

 瞬間、響いた声は扉の向こうからだ。
 びくりと身を震わせたのは越前で、白石は顔色すら変えない。
「…誰や?」
「…その男の身内だ。…邪魔はしない。越前に非がある。
 …越前、ギブアップしろ。…もう、お前の得られるゲームは終わった。
 …手に入らない花のために、約束した夢を捨てるのか?」
「……っ」
 知っている。そう掠れて呟いた越前が、ぽつぽつと白石に行ったことを紡ぐ。
「…申し訳ありません…でした…。もう二度と…」
 あなたに危害を加えません。そう途切れながら確かに紡いだ越前の口元からボイスレコーダーのスイッチをいれた携帯を離して、白石はスイッチを切ると、ポケットにしまって越前の手を縛るテープを外す。
 既に自身で動く力のない越前を、白石が鍵をあけて開いた扉から入ってきた長身が抱き起こした。
「…てづか…せんぱ…」
「お前の負けだ」
「……ッ」
「あんたは?」
「手塚国光。越前の先輩にあたる。後輩が失礼をした」
「…もう、ええ」
 そのまま扉の方に連れて行かれる背中が、嗚咽に震えて言った。
「覚えてないの?」
「越前、止せ」
「覚えてないの……? なんで、なんで忘れちゃったんだよ…。
 なんで…………」
 痛みにか、あるいは別の何かに泣き叫ぶ身体を引き寄せて、手塚はその場を後にした。



(要らない…要らない…ッ)

 まだ幼かった頃、あの国には父への羨望ばかりではなく、妬みも異懼もあった。

“あの子だよ。サムライ南次郎の…”

“じゃあのガキもそうなるのかよ。冗談じゃない。日本人に何度も一位をとられて堪るか”

“お前、サムライってヤツの子供なんだろ。あっち行けよ!”

「……っ……いつつ……まだあるっ…」
 十一歳の冬。十一歳の誕生日。
 俺は住んでいた町の子供たちに追われて、知らない、倉庫の並んだ港の傍でしゃがみ込んでいた。
 帰り道もわからない。どうやって来たかも、覚えていない。
 追ってきた子供達は向こうで俺にやられて倒れている。
 見つかったって、どうせ俺の所為になる。わかってる。
 それでも身体中に出来た傷、零れる血に死ぬほど泣きたくなった。
 手に出来た、奴らを殴った時に出来た傷を爪で抉った時、上から伸びた真っ白な手がそっと止めた。
「っ…!」
 まだいた、と顔を上げて殴りかかろうとした俺を止めたのは、見上げた顔が全く知らない、日本人だったから。
「アカン」
「……、」
 なんて言われたのか、わからなかった。
 固まった俺に、彼はポケットから取り出したハンカチでそっと俺の手を包んでくれた。
「アカンよ。自分で自分を怪我させたら、アカン」
「………」
「…あ、日本語わからんかな? えーと」
「…わ、わかるっ…。あんた、日本人?」
「うん。キミもやんな?
 親御さんと一緒にこっちに住んでんかな?」
「…うん」
「俺は親と旅行で来ただけやねんけど」
「……アンタ、男?」
「失礼やな。男や男。キミ幾つ?」
「…十一歳…になった、今日」
「そっか。俺十三歳。二歳違いやんな。
 えっと」
「越前リョーマ」
「かっこええ名前やん。坂本龍馬かな?
 お父さんが日本人やろ」
「…両方日本人」
「あ、そか。ごめん。
 俺は母親がイギリスの人やねん」
 言って彼は隣に座った。
 改めて見上げる。綺麗な白金の髪、翡翠の瞳、白い肌、綺麗な顔。
 俺より長い手足。長い指先。
「白石蔵ノ介って言うんや。日本の歴史に出てくる忠臣蔵の大石内蔵助からとったんやて」
「シライシクラノスケ?」
「そう」
「…変な名前」
「よく言われる」
「…俺と同じくらい」
 言って小さく笑うと、クラノスケも笑った。
「あっちの子達、やったんキミ?」
「……うん。けど、…俺」
「…うん」
 クラノスケは待ってくれた。決めつけて俺を責めなかった。俺の言い分を待ってくれた。
「…俺、…親父がサムライって呼ばれてるテニス選手で…みんな日本人がって気に入らないから。でも親父にはなにも出来ないから。
 だから、…追いかけられて、逃げ切れないから、戦った、だけ…。
 帰り道わかんない…」
「そっか。…ほな俺と一緒に帰ろか」
 ぽん、と頭を撫でられる。
 手がそっと握られた。
「こんなんなるまで頑張って、…痛かったな。
 泣かずに偉いわ。リョーマくん」
「………、ほんとに?」
「ほんまに」
「…クラノスケはそう思うの?」
「…思うよ?」
「…俺が悪いって言わない?」
「言わない」
 このとき、俺はとても必死な顔をしていて、今すぐ泣き出しそうな顔をしていただろう。
 クラノスケはふわりと笑ったまま、約束した。
「…っ…うぇ…っ」
 堪えきれず泣き出した俺を、ぎゅっと抱きしめて、ずっと背中を撫でてくれた。
 かさついた傷の瘡蓋が、しみこむ水に癒されていくような、暖かい涙を流せたのは、きっとあれが初めてだった。



「そういえば、“アカン”ってどういう意味?」
 クラノスケの親のところまで連れていってもらって、俺の親に連絡がついて、迎えが来るまでの間に聞いた。ずっと、握った手を俺は離さなかった。
「ああ、“ダメ”って意味や。俺、日本の大阪ってとこに住んどるから、そこの方言」
「…ふうん」
「リョーマくんはテニス選手になりたいん?」
「なりたい」
「…俺もリョーマくんも大変やな」
「アンタも?」
「俺、  の忘れ形見なんやて」
“   ”―――――――――聞いたことある。確か奇跡の歌声とか言われてた、亡くなった日本人歌手。こっちでもかなり有名だ。
「で、歌手になりたい」
「…ああ」
「絶対なんとかジュニアとか呼ばれるし、七光り扱いは覚悟せんとな」
「俺も、サムライジュニアって言われそう」
「けど、諦めるつもりはない。リョーマくんもな」
「…うん」
 そこで親父が来た。
 呼ばれて走り出そうとして、振り返る。手を握った。
「ねえ、俺もう少し大きくなったら日本に行く!
 そしたら、そしたら…」
「うん。ほな、日本で一番の歌手になって、待っとるよ」
「ホント? じゃあ、俺が大きくなったら、アンタより大きくなったら、…俺のモノになってくれる?」
「…うん。待っとる。…約束や。絶対、会いに来てな」
 その細い指と指切りをした。
「絶対だからね。クラノスケ、俺を待っててくれるって、約束だから…!」
「うん」

「絶対また“リョーマ”って呼んでよ、忘れないで! クラノスケ…!」

 約束や―――――――――――――と聞こえた声を、今でも鮮明に覚えている。



 日本のどこを探しても、白石蔵ノ介、なんて名前はアンタ以外にいなかった。
 なのに、どうして覚えてないの。
 どうして、俺以外の手を取ったの。

“誕生日おめでとう、リョーマくん”

 あの日、泣きやんだ俺に、そう言ってくれたのに。


 外に出ると、空を雪が覆っていた。
(いつの間に…雪…、…あそこに…何時間もおったから…気付かなかった)
 薄着のまま出てきて、なにも羽織るものがない。
 街は風で吹雪いていて、コンクリートの道を雪の白が覆う。
「…寒」
 こんな気候だ。街を歩いている人はほとんどが傘で俯いていて、自分に気付く余裕もない。有り難いと思った。
 身体がどんどん冷えて、住んでいるマンションのある住宅街に入る頃には怠ささえ感じて、流石にまずいと思った。
 頭痛もしてきて、歩くたび、その振動すら響く。
(…ダメや。止まったら)
 帰らなきゃ。
 帰るために、あの腕に抱かれるために、傍にいるために行って来たんだ。

(千歳さんが、きっと探してる…)

 雪は白く、視界さえぼやける。
 道路に生まれて、すぐ消えていく自分の足跡。

 お願い、消さないで。

 あの人に、会いたい。

 ―――――――――――――帰りたい。

 さく、と雪を踏む音が響いたのは、自分の足下か、前から歩いてきた同じように薄着の姿の足下か。
 見開いた瞳が、冷えた頬の上に暖かい涙を流した。
「…とせ…さ…」
「…白石…!?」
「千歳さん…ッ!」
 飛び込むように駆けだした身体を、駆け寄った大きな身体が掴んで抱きしめた。
「千歳さん!」
「白石! …なんでこげなこと…っ」
 冷えた頬を両手で包んで、見下ろした顔が泣きそうに歪んで言った。
「もう一度お前を失うと思った…!!!」
 その声が、今にも泣き出しそうな程涙に滲んでいる。
 暖かい。
 彼の身体も冷えていた。
 ずっと探してくれていた。こんな雪の中。
 それほどに愛されていると―――――――ただ幸福に酔う。
 もう、自分は疑うことはない。
 彼が誰と会っていても、どんな噂がたっても、もう疑わない。
 …疑えない。疑えるはずがない。
 こんなに強く愛されていて。
 もうきっと、恐れるものなんてない。
 彼になにがあっても、自分になにがあっても。
 同じことが起こったって。
 もう、自分は壊れることなく、彼を愛していける。
 きっと死が訪れるまで、この人だけを想っていける。
 信じて、案じて、願って愛していける。
「…もう、なんも怖くあらへん」
「…白石?」
「…俺も千歳さんも…なんも、怖いことあらへん…。
 絶対、俺はあんたから離れない。どっか行くなんて心配せんでええ。
 忘れても思い出して、傷ついてもこの腕があれば笑えるんや。
 …もう痛くない。
 …やって、こんなに好きやから」
「…白石」
 驚いた顔が、すぐ大好きな笑顔に変わって、痛い程抱きしめられて、口付けが落とされる。

(愛してる。愛してる。愛してる)



「好き」



 ずっと、あなただけを。


 だって、あの日に俺はあなたに全てを捧げてしまった。



『あ、謙也くんたち?』
『知っとる人たちですか?』
『ほら、今回二位だった』

 初めて出会ったあの日に、きっと。

 きっと運命を告げられていた。






「…諦めろ、越前。あれは、お前が触れられる宝石じゃない」
「…知ってる。あの人は  の忘れ形見だ。ただの石ころじゃない」
 知ってるよ。
 ギプスのはまった腕を見下ろして、空港の掲示板を見る先輩を見上げた。
「…次の便で帰るぞ」
「…わかったっス」



 知っていた。
 もう、結ばれることはない恋。

 この恋は、実ることはない。

「だけど…」


 頬を涙が伝っていく。あの日のように、抱いてくれる腕はない。



「だけど、俺はアンタに恋をしたんだ………」





 あの後、目覚めて一緒に自分を捜していた謙也たちが、一生懸命叱る前で、白石は高熱を出して倒れた。
 数日後見舞いに来た謙也たちと、千歳にずっと見せていなかったあの携帯に録音した音を聞かせた。
「……頑張った…つもり…なんです、よ…」
 思い出しただけで死にそうな白石を、千歳は抱きしめて、謙也は撫でてくれた。
 財前は、ほんとあんた、土壇場に強すぎ、と笑った。



 あの後、白石も無事メンバーに戻った『柊』が出した新曲の、次の順位に並んだ歌は、あの越前リョーマが唯一出した歌だった。
 白石の元にも、そのCDが送られて来た。
 誰も、なにも余計なものが入っていないと確認した上で渡されたその歌は、散った恋の歌だった。

「……、」
 初めて、思う。
 自分はもしかしたら、彼とのなにかを、忘れているのだろうか。

 この歌の『キミ』が、もし自分なら。

「白石!」
「あ、はい!」
 謙也に呼ばれて、駆け寄った千歳の傍で見上げて笑いながら、その歌はあの狂気より、自分の心に深く残った。




『さよなら 君の手を放して

 約束守りたかったけど

 わたしと君だけで追いかけてた

 空の色した羽根がふる


 さよなら 君の目をそらして

 うつむく視線をかかげたら

 歪んだ手のひらをすりぬけてく

 ふいにこぼれたひとしずく


 さよ な ら


 さびしさに呼ばれて

 立ち止まる街角

 ためいきに紛れて

 歩き出す 静かに


 君のことを想う

 そんな資格もないけど

 今でもこの胸には

 君の笑顔が残って


『さよなら』 聴こえないふりして

 待つのは君だけじゃないのに

 ふたりが描いてた空の色は

 強い光りに褪せてゆく


『さよなら』 何度でも叫んで

 きれいな思い出消せないで

 ふたりが追いかけた空の色は

 今も滲んでつかめない


 さよなら青い鳥... 』




 あの日のふたりはもうどこにもいない。

 さよなら、とつぶやいた。

 きみがいない異国のそらで。

 それでも、

 それでもおれはあなたに恋をした。

 この恋は実ることはない。

 それでも、俺はあんたに恋をした。




 それは夢も空も知らない、雪だけが知る、真実。



 さよなら、と誰かが言った。






 THE END