『お前、そんな空言だけ並べて、楽しいか?』
中学二年の夏だった。
もらった薬を売ったところを見つけて、彼はそう言っただけだった。
『…どういう意味スか?』
『そんな上辺の言葉並べて笑って楽しいんかって聞いてる』
『…おかしなこと言うんスね謙也さん。人間、普通上辺の言葉作らなきゃやってけないでしょ?』
『そら多少はな。俺かて、言うてへんて言ったら嘘や』
謙也は教室の扉にもたれかかって淡々と紡ぐ。
部活の先輩で最近はダブルスの相棒。
でも、うるさく干渉してこない“イイ人”だと思っていたのに。
興味が一気に失せた気がした。
『けど、お前の場合、全部上辺やろ?』
『…は?』
『友だちとも、先輩とも、…俺とも。なんでも、テニスでも。
お前、空言ばっかやんな。ホンマの本音言うてへんやろ。
…予言したろか。お前、ソレ、…捕まってもやめへんわ。
誰かが止めるまでとまらん、お前質悪い暴走族と一緒や』
『…結局、ご忠告ってことですか。テニス部が困るから』
『どうとってもええ。
…けどな』
そこで扉から身体を離した謙也が、財前の手をおもむろに掴んだ。
『俺が困る』
『…あんたが? ああ、ダブルス―――――――』
『テニスやない。ただの俺が困る』
『………』
初めて、なにを言っているかわからなくなった。
『お前、…嘘のつきすぎや。
お前自身、…ホンマが自分でわかっとらん。
…誰もホンマのこと言うなて禁止してへんのに…お前が可哀相や』
『………謙也さん?』
『ホンマ、…痛い』
目を細める仕草が、彼が本当に痛んでいるとわかって、初めて戸惑った。
何故?
何故、そんな顔をする?
誰のため?
―――――――――――――俺のため?
『…きっかけなんか教えてくれんでええ。
…ただ、ホンマのこと、思ったことなんでも、ちゃんと言葉にしてくれ。
俺にわかるように、…言葉にしてくれ。お前がわかるように言葉にしてくれや。
……みんなが相手が辛いなら、…俺が聞く。
…なんでも、お前のホンマなら聞くから』
『………なんで?』
『……え?』
『……なんで…ただの、後輩に、そこまで……。
……あんたんために、俺なんもしとらんのに』
『……なんもしとらんことはない。
…知っとるか。お前、そこおるだけで、誰かの助けにちゃんとなってんやで?
…少なくとも、俺の支えにはなってる。
俺はお前みたく頭ようない。天才やない。
やから、…こうでしか返せへん。…ごめんな』
そう言った彼の服を、気付けば掴んでいた。
そこまで言うのなら、行かないでくれと。謝ってすぐ踵を返しそうな彼を引き留めた。
『別に行かへんて』
『…嘘や。俺がホンマ言うたら…おらんくなる』
『…なんで?』
『……少なくとも、…じいさんはそやった…』
俺はただ傍にいて欲しかっただけやったのに
そう小さく呟いた身体をそっと抱かれた。
そっか、と耳に触れる声。
見上げた顔が、嬉しそうに笑ってくれた。
『お前のホンマ、…一個、やっと聞けた』
そう言って嬉しそうに笑うから。
笑ってくれたから。
呪いが解けるように俺は許された。
あの日から、一つずつ増やしていった口にする本当のこと。
今はすっかり本音ばかりを口にするようになった。
思えば、今の俺を作った人に、恋をしないほうがおかしかったのかもしれない。
気付けば失う、という防衛心が気付かないように蓋をしていたのかもしれない。
千歳先輩にとって、運命の人が白石さんなら。
俺にとって、それはあんただった。
傘を差して、あと数メートルで駅前の橋だというところで、千歳とぶつかった身体がよろけた後こっちを見て、あ、という顔をした。
「謙也!?」
「あ、千歳…! に…白石」
「謙也さん、今、俺ら光に電話もろて…」
「電話? 光から!? どこおる言うた?」
「…え?」
話が食い違ってる気がして、白石は気付く。
謙也の全身が濡れている。傘など当然持っていない。
「…謙也さん、まさかずっと、光探してたん?」
「…え」
「……ああ。…あいつ、…俺の返事も聞かずに逃げおった」
「…なんや、光が告白したから、謙也さんが逃げたんかと思った」
「誰が逃げるか」
「…そうたいね。謙也は、光からは絶対逃げんね。
…でもよかね?」
「なにが?」
「…光が怖いんじゃなか?」
「確かに怖い言うた。けど、俺は“財前光”自身を怖い思うたことは一度もない。
今も昔もこれからも」
「……謙也さん、」
白石が傘を謙也に差し出す。
「光、この先の橋におるから。迎え行ってやってください」
「…ん、ありがとな」
「……ホンマを言うただけなんになぁ…」
雨が落ちる夜空を見上げた。
「……恋人になってくれなんて…言うてへんのに」
幼い頃、具合を悪くした祖父を引き留めたことがあった。
俺は幼く、具合の重さを理解出来なかった。
家には俺と祖父しかおらず、単純に独りになることを怖がった。
そんな俺の傍に祖父はいてくれた。
―――――――そして、具合が悪化して、亡くなった。
誰も責めなかった。
けれど、恐ろしくなったのだろう。
本音を口にする全てが。
いつしか、空言しか言えない程に。
それはただの子供の自己防衛。
…でも、
(でも、謙也くんは理解ってくれた)
思考に埋もれそうになった財前を引き戻したのは、足下に投げられた傘だった。
「…え?」
何故傘が?
とびっくりして顔を上げる。そこに仁王立ちする先輩が、誰にも怒っているとわかる顔で、投げた姿勢でいた。
「謙也く…」
口にして、すぐ足が勝手に逃げようとしたが、その前に素早く近寄った謙也の両腕に挟まれて動けなくされる。
「ふん、浪速のスピードスターに足で勝てる思うなや?
足だけならお前に負けへんわ」
「…謙也く……って、ちょ…謙也くん、この姿勢ものすごく不本意…」
「こうでもせーへんとまた逃げるやろ」
「や、やって…」
「やってなんや? 言い逃げすんな。口開くんなら最後まで俺と会話してけ!」
「やって…、…思ったこと口にしろて、謙也くんが言うたのに」
「それが?」
「…言うたら、…言うたやんか…。“怖い”て
俺が、怖い…て」
「ああ、言った。」
「なら」
「けどな、俺は一回も“財前光”が怖いなんて言うてへん!
言う気は一生ない。一生お前を怖いと思って、逃げたりしてやらへん!
そこんとこ覚えとけ!」
「……え、…じゃ」
「…」
謙也は沈黙すると、片手を離して自分の濡れた顔を撫でた。
「…俺が怖かったんは…、……お前が………千歳が白石見る目で俺見とったからや。
怖かったんは…お前やのうて…「男」の顔やねん」
「………」
よくわからないような、ものすごくわかるような答えに、財前は口を間抜けにぱかっと開けたまま言葉がない。
「…誤解すんなや? お前に、そういう風に見られることも、怖くないんや。
ただ、…お前が…“俺が好き”って気付いたことに……」
喜んだ俺が怖かった。
「…え」
「俺のお前への気持ちは、お前が思うような綺麗なもんやないんや。
大事な後輩は事実や。ホンマや。
けど、先輩として以上に、俺はお前を独占したがってた。
お前を誰にもやりたない。俺以外を先輩やなんて言うな。俺以外に頼るな。…て。
…思ってた。思ってる。
自分でも、気付いとった。これは、もう“先輩”としての独占欲やないて。
こんなん、こんな嫉妬深いんは…ただの欲深い愛情やて。
でも、気付かんかった。千歳と白石がああなるまで、俺自身気付かんかった。
…お前が俺は好きなんやて、気付かんかったんや…!」
「……謙也くん…」
「…やから、怖かった。俺、いつかお前を騙しそうで。
お前の好意をねじ曲げて都合いいように押しつけて、お前の好きまで歪めるんやないかて。
…やから、…今日、お前が俺を好きなんかもって言うた時ものっそう怖かったんは…、そんなお前をすぐ丸め込んで、逃げられんよう思い通りに肯定して、お前を自分のものに、一瞬でもしようとした…俺が怖かった。俺自身が、俺は怖かった」
「……謙也くん…」
「…やから、ごめん。傷付ける言い方いっぱいした。
空言いっぱい吐いた。…お前を誤解させた。
…ごめん」
俯いて、自分を責めるように顔を歪める謙也は、それでも今でも財前が自分から逃げることに怯えて、手を離さなかった。
(理解ってくれてた)
胸に浮かぶのは、一筋の真っ直ぐな悦び。
(謙也くんはやっぱり俺を理解ってくれてた)
こんな感情、他の誰も与えてくれない。いや、与えようとしたって、無理だ。
(それでええ。それだけでええ)
どんなに真摯にされたって、自分が心から喜べる言葉を、思いをくれるのは、彼だけだ。
(…世界中で、謙也くんだけ理解ってくれれば、俺はなんでもええ)
彼じゃなきゃ、ダメなんだ。
「…ひか…。って、なんで泣いてん!?」
「…謙也くん」
「お、俺の所為か!? やっぱりいろんな無理なこと言い過ぎたんか?
ごめん! ホンマごめん! けど」
首を横に振ると、雨に濡れた頬を暖かい雫が伝う。
「……ううん謙也くん。…嬉しいから、…泣いてんや」
「…え」
微笑みながら泣く財前を見つめて、謙也は一瞬どういうことだろうという顔をした。
「…嬉し泣きやねん。…嬉し泣きなんか…生まれて初めてした」
「…それって」
「…俺の嬉しいも、悲しいも、与えてくれるんは…全部謙也くんやな。
昔から…。
…白石さんの全てが千歳先輩なように…俺にとっては謙也くんなんや。
なんもかんも、…あんたがくれる」
「…光」
「…怖い言われてすごい悲しかった。好き言われて、めっちゃ嬉しい。
…男同士とか、俺にはようわからん。
リスクもわかっとらんかもしれん。
でも、…俺はあんたといられるならなんでもええです」
紡がれる、男らしいのに、柔らかい声も。頬を伝う涙も、なにもかも、綺麗だと思った。
体中を巡る衝動を抑える術を謙也はしらないし、知らなくていいと思った。
ただそのままに抱きしめた財前の身体はやっぱり自分より少し小さくて、同じように冷えていて、それでも心地よい。その瞬間、耳に触れる言葉。
「もう一度言うてええですか? …ちゃんと」
「……うん」
「…俺は」
「謙也くんが、好きやから」
要らない足踏みも、先輩としての義務感も、もういらないと思った。
彼の言葉に応えるのに、いらないと思った。
邪魔だとすら思う。
「…なら、もし誰かいつか女の子が気になっても気付かんで。
気付かんで、俺に騙されてて、そのまま俺のになって、傍おって、光。
…お前がおればええ。…好きやで」
財前の腕が、自分の背中に回された。
空から降る雨が、今は月を隠すのを有り難いと思った。
こいつは月にだってやらない。返さない。
自分のものなんだから。
「「…っくしゅ!」」
二日後のスタジオで、謙也と財前が揃ってくしゃみをしたのを見て、白石は心配そうに買ってきたジュースを置いた。
「やっぱ、二人とも明日まで休んだ方がよかったんやない?」
「そうたい。二人揃って昼から夜まで傘ささずに雨ん中おったんばい。
むしろ熱出とらんのが俺ぁ驚きたい」
「うっさい千歳…」
「そうっスよ…」
「鼻声で怒られても怖くなかよー」
「…うっさい。俺は雨でよかったんや」
「…なんでですか? 謙也さん」
「…あー、…あれや、かぐや姫は月に帰るやん?」
「…はぁ」
意味がわからないという顔の白石に、謙也は鼻を噛みすぎで赤くしながら真顔で言う。
「月が出とったら、光、俺ん前からいなくなってもうたかもとな…」
「…謙也さん、それ…光がその…」
とても困った顔をした白石の背後で、千歳がちょっと待てという彼らしくない顔で見下ろしている。
「…謙也、…あんまり怖かこと言わんでくれ。乙女フィルターはときめき○モリアルやる時だけにしとうてな?」
「俺はゲームは格闘しかやらんわ!」
「…謙也くん、キショイ…」
「光までッ…」
多少怠い身体を起こして千歳になにか言っている謙也を横目に、白石が財前の傍にしゃがみこんだ。
「…せやけど、帰って欲しないって言われる気分は、…嬉しい?」
白石の言葉に、財前は悩むそぶりで首を傾げた後、不意に微笑んで。
「それは、まあ、とても」
つられるように微笑んだ白石の後ろで、まだ千歳と謙也が言い合っている。
まあ、くってかかる謙也を千歳があしらっているようなものだが。
それを見て笑っていた財前がふと、真面目な顔で呟いた。
「ただ一個ずっと気になっとんねん」
「ん?」
「俺、セックスするようになったら当然上がええんやけど…告白の流れから、…なんか俺が女役の予感がものっそうする…。絶対嫌や」
「………まあとりあえず、頑張って交渉したらどない?」
人んことお伽噺の姫だかなんだかキショイこと言うけど
俺にしたらあんたも充分、
星みたいなもんなんやけどな スピードスターやし
まあ、あんたはその足で俺から逃げたりせえへんてわかったから
あんたが星でも、なんでもええわ
夜空の月の傍には星。
太陽と月のように会えなくなることはない。
あの例えは冗談じゃなくても、そういう意味ならそれでいい。
「あ、そっか。光、光と謙也さんのことってこういうんかな?」
「ん?」
「“ときめいて春”」
「誰やあんたにそんな馬鹿単語教えた人。千歳先輩か。つか今秋や」
THE END
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