優しく教えて 「千里、気ぃつけてな」 玄関先、笑顔で自分を見送る妻を抱きしめて、千歳は額にキスをすると、頷いた。 促されていることはわかっているのか、蔵ノ介は千歳の肩に手を置くと、唇にキスをした。 「いってらっしゃい」 「行ってきます」 夫がいなくなって、すぐ、蔵ノ介はリビングのテーブルに座って、ため息を吐いた。 友人が買ってきてくれたそれを捨てると、はあと重い息をまた吐く。 不意に家のチャイムが鳴って、のろのろと立ち上がり、玄関に向かうと向こうから扉が開いた。 「不用心やなー。戸締まりしろや」 「け」 「…白石? 大丈夫か?」 未だに旧姓で自分を呼ぶ友人に、白石は涙目で抱きついた。 「健二郎〜…!」 「……うん、結果、あれか? もしかして」 自分にぎゅーっとしがみついてくる蔵ノ介は可愛いので、抱きしめながら小石川は問いかける。こいつの夫に見つかったら殺されるが、殺されてやる気もない。 「うん。…どないしよ」 「…病院には?」 「まだ…」 うるうる潤んだ瞳に見上げられ、小石川はため息を吐いた。蔵ノ介のが、伝染ったみたいに。 会社でため息を吐いた千歳は、別に妻やその友人のが伝染ったわけではない。 傍の同じ部署の仲間に首を傾げられた。 「千歳。どないした?」 「いや…」 「いやって説得力ないで」 謙也は千歳の腕を引っ張ると、会社前の広場まで連れてきた。気付くと、もう昼らしい。 それほどぼーっとしていた。 「どないしたん? 昨日も一昨日も」 「…はぁ」 「おい、聞けや」 どうもこうもない。 千歳は謙也の肩をがしっと掴むと、怒りの籠もった涙目で見つめた。 「蔵が、蔵が冷たかっ…!」 「白石が?」 「ちょ…! お前といい小石川といい、なんでずっと旧姓で呼ぶと!?」 「やって、お前等結婚してまだ半年やがな」 そんな短期間で馴れるか、と謙也。謙也は弁当を開くと、箸を片手に持って千歳を指した。 「お前、俺や健二郎に呼んで欲しいんか? 『蔵ノ介』て」 「断固拒否!」 「ほら見ろ」 「……とにかく、今の名前で呼べばよかろ」 「今の?」 「『千歳』」 「千歳は未来永劫お前一人や」 はっ、と謙也に鼻で笑われた。そのリアクションは主に、あの白石の友人がするもので、千歳はムッとする。 「…で、なんなん?」 「…蔵が冷たい」 「あいつが? 嘘やろ」 「嘘やなか。行ってきますのキスも、お帰りのキスもおやすみのキスも」 「してくれんの?」 「してくれっとよ。綺麗な笑顔つきで」 「…」 謙也はついていた肘をがくっと落とした。なんだそれ。 「やけん、夜、いつもなら蔵から『千里、シたい』って誘いばあったのにここ半月それがなか」 「………え? 待て、ヤってへんの? 半月」 謙也は段々どうでもよくなって無視したくなったが、そこに引っかかりを覚えて聞いた。千歳は涙目でこくんと頷く。 それは、確かに『冷たい』と受け取れるかもしれない。 「無理矢理シようとすっとワケ話さんと泣くばい…」 「泣かすなや、おいこら」 弁当箱の蓋で千歳の後頭部を殴ると、振り返って涙に潤んだ目で睨まれた。 「絶対、小石川あたりのせいばい!」 「なんで健二郎ピンポイント」 「あいつくらいやもん。蔵の顔見に来るん」 「へえ…まめやなぁあいつも」 「で済ますんじゃなか」 謙也はマメで済ますことじゃないのか。と思う。 夫と違って家からあまり出ない蔵ノ介は、悩んでいても話せる人がいない。 それが千歳の役目かもしれないが、千歳じゃ逆に駄目なときもある。 そして、小石川は白石の保護者を前から名乗っていたし。 (しかし、夫に話せへんことってなんやろ。結婚して何年もならまだしも…半年で) 「謙也、聞いとっと!?」 「聞いとるわ!」 怒鳴り返しながらも、謙也は頭に引っかかったそれを、ずっと追っていた。 とにかく、診てもらわなあかんやろ、と小石川に促され、彼の運転でそこを訪れた。 「……妊娠二ヶ月か。千歳が聞いたら泣いて喜ぶな」 産婦人科の結果を聞いて、小石川は淡々と言った。自分も嬉しいが、未だ青い顔をした蔵ノ介の手前、喜べない。 「…千里、喜ぶ?」 泣きそうな顔で蔵ノ介は聞いた。「千歳は喜ぶのか? ほんとうに?」と。 「喜ぶやろ? あいつ、泣いて喜ぶに決まってんやん」 「やけど、しばらくヤれへんで?」 「…………………いや、あの、……場合によってそれは出来るっちゅうか……やなくて、そん程度でお前を捨てる男なら俺が既に殺しとる」 既に不安定になっているのか、泣きそうな顔で問いかける蔵ノ介に、軽く脱力しながら小石川はそう言った。 「ほんま?」 「うん。あいつは、喜ぶ。言うとったもん。『蔵を早く孕ませて子を産ませたい』とかなんとか………」 千歳の過去の台詞を言ってて、気持ち悪くなったのか小石川は途中から嫌そうな顔になった。蔵ノ介はそれを聞いたあと、真剣な顔で。 「それ、俺が自分のものとして独占出来る証として喜ぶんやないんか? 子供自体は?」 「……お前、な。たまに、俺が言うよりひどい言い方するやんな? 千歳に対して。 俺が思うよりひどい見方するよな。千歳を」 「やって千歳やもん」 きっぱり、とまだ不安そうな顔で、蔵ノ介は言い切った。小石川は返す言葉がない。 あいつ、とことん信用ない。中学の頃に信用を切って捨ててたからや。 「で、俺が大概その尻拭い…」 「健二郎?」 「いや、なんでも。 でも、それはほんまの意味やて。お前が好きやから、お前との子は欲しいって意味や。 …千歳は、お前に産むなて言う夫か?」 蔵ノ介の目を見て言うと、彼もそこは疑っていないらしく首を左右に振った。 千歳が家に帰宅すると、玄関には靴があった。男物。 「蔵!?」 靴を急いで脱いで走り出した千歳に、後ろから謙也が「お邪魔します」と口にした。一応。 多分、俺の予感、外れてへんと思う、と謙也は思う。 あれから、考えて、蔵ノ介が小石川を先に頼るようなことは、浮かばなかった。 ただ一個を除いて。 「蔵!」 部屋の戸を開けると、ソファに座った蔵ノ介とその前に、小石川の姿。 「小石川…」 「ほな、しっかりな」 小石川は蔵ノ介の肩を叩くと、千歳の脇をすり抜けて部屋を出ていく。 捕まえようと手を伸ばした千歳から避けて、ドス黒い声で。 「白石、泣かせたら毛穴から引っこ抜く」 と、言い残して。あまりに黒い声だったので、千歳はそのまま見送ってしまった。 向こうから、謙也と小石川の話声が聞こえる。 「千里」 立ち上がって傍に立った蔵ノ介が、千歳の服を握る。その手が頼りなく震えていると気付いて、千歳は我に返ると抱きしめた。 「どぎゃんしたと? あいつは…」 「一緒に、行ってくれて」 「一緒に?」 「…」 蔵ノ介は、俯いて口ごもった。その儚い姿に、千歳は小石川などどうでもよくなって、きつく抱くと、額にキスをする。 「なに? 俺、怒らんよ?」 「…ほんま?」 「うん」 「……」 蔵ノ介はなおも迷ったそぶりで俯いたが、千歳の首に手を回してしがみついてきた。 「しばらく、ヤれへんの。でもええ?」 「え?」 それはやっぱり、と不安になった千歳だが、腕の中の身体は震えている。 大事にしたいのは、彼だけだ。思い出して、背中を撫でると、「よかよ」と囁いた。 「ほんま?」 「うん」 「……」 優しく言うと、蔵ノ介はやっと安心したのか、あんな、と千歳の服を掴んだまま口にした。 「出来たん」 「?」 「千里の子供……二ヶ月やて」 「…………………」 「嫌?」 「そ」 あまりに予想していなかったことに、リアクションがとれなかった。蔵ノ介の不安そうな声に我に返る。 「そげなこつなか! 嬉しか…。ほんに、俺の子が…、よかった…」 満面の笑みで自分を抱きしめる夫に、蔵ノ介はどうしようもなくホッとした。 涙が溢れてくる。見て、慌てた千歳が何度も背中を撫でる。 「もう一回、言って」 彼の腕の中で強請ったら、柔らかい声がまた耳をくすぐった。うれしい、と。 「謙也もやっぱり予想ついとったんや」 「まあな。他にないやろ。夫に相談出来ひん話は」 「あと、実際にはもう一個あるが」 小石川と謙也はしばらく黙ると、指さし合って言った。ハモった。 「「浮気!」」 やっと部屋から出てきた千歳が「縁起でもないこと言うなら帰れ!」と怒鳴った。 2009/07/21 |