キミとキミが戻らない話をしていても。





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誰より聡く、得てしてキミは気付かない
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 白石が偏頭痛持ちだと、千歳が知ったのは遅くも全国の二回戦の後。
 額を押さえて“あ、あかんわ”と謙也に零した白石に、千歳は意味がわからなかった。
「ああ、雨降るんか?」
「うん、多分。めったら痛いし」
「部長のその気圧感知は痛みが伴うのが一番欠陥ですよね」
 財前までそう知った顔で呟いた。
「光。どういうことばい?」
「…ああ、千歳さん知らないんでしたっけ?」
「なんが?」
「白石部長、偏頭痛あるんスわ。気圧下がると痛むそうで。
 雨降る前とかよく痛い言うてますし」
「こいつはほんまいらん特技を背負い込むのが得意やなぁ…」
 謙也がのんびりとぼやいた。
「好きで背負い込んだんちゃうんやけどな」
「けどあれはびびった。お前よう打撲で済んだもんや」
「母親ってたまに恐ろしいっスよね。どこにそんな予知を備えてるんだか」
「打撲で済まんかったから偏頭痛持つようなったんやろーが」
 彼らの間だけで広がる話に、千歳はついていけない。
「……打撲?」
「ああ、俺中二の時にトラックにはねられたことがあってな」
 白石の矢張り暢気な声に、千歳はなにも言えなかった。





「……千歳。いつまで拗ねてんねん」
 他校の偵察に会場を連れ歩きながら、白石はあきれ顔だ。
「拗ねてなか。だけんびっくりした」
「そらな。俺無事故っぽいやろ」
 事故の全容はなんてことはない。全身打撲が二週間。それだけの事故。
 当然過失は赤信号を無視したトラック(トラックもトラックではなくケートラックだった)側にあり、白石は公認で学校を一日だけ休んだ。
 本当は五日は休んでいいと言われたが、部活で部長を務める白石はそれ以上休むことを拒んだそうだ。しかし、ケーとはいえトラックにはねられて打撲のみ。
 頭は? と聞いた千歳に、財前がだから母親って恐ろしいんですわ。
 白石はその日の朝、久しぶりに自転車で行くと母親に言ったらヘルメットを被っていけと無理矢理ヘルメットを被らされたらしい。
 そして大体のところまで来て、もうはずしても大丈夫だろう学校までなんて冗談じゃない(しかしその道中財前に目撃され、なんスかそれ…と言われたそうだ)と脱ごうとした矢先にはねられたそうだ。不幸中の幸い。ヘルメットのおかげで頭に異常はなく、季節が冬だったためコートまで着込んで手袋もしていたおかげで骨折はおろか擦過傷もなし。
 一番心配された首に痛みは来なかったらしい。親曰く、“蔵ノ介、お前は不死身なんか?”。打撲が癒えるまでトラックの運転手を足に使って通ったというから、本当にただでは起きない。しかし打撲後一週間をおとなしく過ごさなかったために、偏頭痛という後遺症のようなものが残されてしまった。―――――――――というのが全容。
 ちなみに。

「びっくりしましたわ。目の前で部長はねられたんですもん」

 とはねられた瞬間を見てしまった財前はそれ以降白石を自転車に乗せない(乗って来ようものなら鍵を奪われるそうだ)。

「俺もびびった。うわー事故やーってのぞいたら光がいてな。その先見たら倒れてんのが白石やねん」

 事故現場を通りかかった謙也はそれ以降白石を家まで迎えに来る始末。
 言うまでもなく救急車の同乗者になった二人は、その後白石が学校に来るまで気が気ではないという。立海の幸村級のトラウマだ。
「白石は無敵っぽかよ? 怪我しなそうやけん」
「やろ? 事実打撲だけやったし」
「ばってん事実だけでも怖か」
 ここにいると確かめたいというように抱きつきかけた千歳の腕は空を切った。
「あ、千葉発見」
 白石がそう言って急に方向を変えたからだ。
「……千葉?」
 あからさまに残念にしょぼくれた千歳はその方向を見遣る。
 赤いジャージの群が見えた。
「千葉の六角。去年会うたしな。けど六角は一回戦負けやった気が…」
「うん、一回戦負け」
 六角。どっかで聞いた。と考える千歳の横から。白石の言葉を遮って亜麻色の髪の優男がやってきた。
「ここにいるのは青学の応援だよ」
「あ、佐伯。……くん。よな?」
「うん。キミは四天宝寺の白石だよね」
「そう。こっち千歳」
「知ってる。や、キミたちは偵察?」
 佐伯は女子が見れば一発で惚れるような美丈夫っぷりで微笑んだ。
「まあそんなとこ。青学の応援か。仲ええん?」
「仲いいよ。俺はあっちの不二と幼なじみ」
「へえ」
「………」
 和気藹々と話す二人を見て、千歳は口を挟むに挟めない。
 なんだろう。笑顔なのに、妙になにかを感じる。
「あ、ええと、俺は千葉六角の副部長の佐伯虎次郎」
 キミは? と振られて、急な気がして千歳は一瞬自分に向けられたのだとわからなかった。
「………俺?」
「他に誰か浮遊霊でもいるのかな? 他に誰がいるんだい。俺、そういうの見えない人だよ」
 真顔で冗談を言うタイプだろうか。千歳は一瞬そう考えた。
「あ、千歳たい」
「ちとせ……、が名字でよかったんだ」
「なんば思っとったと?」
「ちとせって名前じゃないかって。橘がそう呼んでたし、名前っぽくない?
 だからいきなり名前で呼ぶと失礼じゃないか」
「あー…スマンね。千歳千里言うたい」
「ふうん。千歳はイニシャルが同じなんだね。面白いよねそういう名前の人。
 それにキミは忘れてるっぽいし」
「忘れてる? 千歳、お前なんかやったんか?」
「……………」
「ほら、千歳。関東の三位決定戦。俺不動峰の相手。橘の相手」
 そこまで言われてようやく思い出した。
 自分は確かそれを指して苦言を吐いた気がする。目に見えて怒ったのは不動峰の選手だけだったが。
 流石に二度も言うのは憚られて、千歳は“あん学校の…”とだけ言おうとした。
 それにあのときは橘を奮い立たせる意味合いで言っただけで、本気で相手を侮辱したつもりはなかったし。
「“しょぼい”って言ったよね。まあ俺は橘みたく全国区じゃないから、しょうがないけど」
 しかし佐伯に逆に爽やかに言われて、千歳は思わず苦く笑ってしまった。
 彼は嫌味を嫌味と受け取らないのだろうか。
「シングルスじゃ不二に負けっぱなしだしね。この間裕太くんにも負けちゃったし」
「ゆうた?」
「不二の弟くん。裕太くんの学校は全国来てないけど」
「ああ。聖…なんとかってとこ? イカロス…は全国来とるし」
「ルドルフ」
「ああそれ。すまん。細かく覚えとらん。部長やのにすまんな」
「いいって。俺だって関西大会止まりの学校言われたってわかんない」
「佐伯くん副部長やんなぁ。割といい加減?」
「そこそこいい加減。俺が全部やるとね、剣太郎が来年なにも出来なくなっちゃうから。手を抜くとこで抜いてる」
「えっと、葵剣太郎くんやったっけ。部長」
「そう。四天宝寺にもすごいのいるよね」
「金太郎な。あれは部長にでけん。しっちゃかめっちゃかんなる」
「二年後はわかんないよ」
「サエ! 俺たちそろそろ行く…誰?」
 黒髪のロングに帽子を被った少年が呼びかけ、白石たちを凝視した。
「ああ、大阪代表四天宝寺の部長さんたち。俺もう少し話してから行くから亮は先行っていいよ」
「そう? 早く来いよ。バネがどうしようってなる」
「なんで俺がいないとバネさんがどうしようなの?」
「だってあいついつもサエ頼みだもん。ダビデへのつっこみ以外わかんないやつなんだよ」
「後輩受けはいいんだけどなぁ。ダビデと一緒で俺より」
「後輩はアレ。お前がうさんくさいの」
「ひどいよ亮。それ」
「とにかく早く来いよ。樹っちゃんが寂しがる」
 亮という少年が言って、佐伯は一瞬彼の方が寂しいような顔を閃かせた。
 しかし一瞬で、すぐに笑顔に加工されてしまう。
「樹っちゃんはサエのこと甘やかすから、きつく言わないけど、心配してんだ。
 お前があのとき、一人で残ったから」
「………だってしょうがない。…なんて言わせたいの? 亮は」
 しょうがない筈ない。あれはあのとき、俺しか出来なかった。と佐伯は言った。
「お前の気持ちはわかるけど。オジイの容態聞いて安心した後、俺たちみんな無言だったよ。お前一人で、大丈夫か。不安がってないか。一人で置いてきてしまってどうしようって。樹っちゃん、本当青くなってた」
 自分だけでも残るべきだったって。
 亮に言われて、佐伯は軽く俯いて、すぐ顔をあげて笑う。
「うん。あとでうんと樹っちゃんに謝るよ。でも、亮も俺だったら試合投げ出した?」
「…投げ出さないだろうから、お前のこときつく言えないんだ」
 最後にそう言って、亮という少年は踵を返した。その目立った赤はすぐ同じジャージの色に紛れて見えなくなった。
「変わった呼び方しとんな」
 彼にとって、追求されたくない事柄だろう。察しのよい白石はそれだけを言った。
「うん?」
「サエとかバネとか。ちゅーかなんでダビデ像」
「似てるんだ。本名は天根ヒカル。バネってのは黒羽。俺は佐伯だからサエね」
「パっと聞いたら女の子やん」
「白石が六角いたらなんてあだ名だったろうなぁ…。蔵ノ介だから“クラ”?」
「いややなそのハイジみたいなの」
「クララが立った?」
「お前実際性格悪いやろ。俺も人のこと言えんけど」
 白石は呆れたように言って、一拍おいた。
「……なんや、一人で試合するようなことあったんか?」
 聞くつもりはなかった。という口調だった。
 佐伯が残ったのは、言いたがっているように見えたからだ。
 佐伯は困ったように眉根をあげて、それでも笑った。
 千歳は意味もわからず、それに不安になった。そんな要素はないのに。
 どこかで見たような顔。顔じゃない。雰囲気。
「…一回戦でね。顧問がボールぶつけられて、お年寄りだから。みんな一緒にコート出たんだ。俺一人だけ残った」
 佐伯の声は白石ではなく千歳に向けられていた。
 既視感がはっきりした。
 たまに一人で抱え込む。笑ってすら誤魔化さない。ただ黙って耐える。彼に似ている。
 傍にいる、この金の髪の決して崩れ落ちない男に。
 その背はいつだって震えている。コートに向かう時。完璧を、勝利を目指すあまり、自分の痛みに疎い男は、震えている自分を理解っているのだろうか。いや理解っていない。
 きっと誰より寂しい潔さで、その震えすら切り捨てている。
 それが最初信じられず、二度目には惹かれた。三度目には、コートから帰ってきた彼を抱き締めずにいられなくなった。
 気付かない彼は、いつだってそれを鬱陶しく見るけど。
 コートから帰って来たときには既に震えていない身体を抱き締めるのは、自己満足だとわかっている。けれど、そうせずにいられない彼の潔さがいつだって痛いんだ。
 目の前の赤いジャージの男の笑顔は、その震えに似ていた。
「試合が途中だったなんて言い訳だよね。俺は一矢報いたくて。でも出来なかった。
 だから申し訳ない。それが辛かった仲間に申し訳ない。俺は勝たなきゃいけなかった。
 ……届かなかった二ゲームを見て、千歳はやっぱり“しょぼい”って言うのかな」
 指した言葉に、なにかを言わねばならない衝動にかられた。言う前に、彼は笑って樹という仲間を語った。
「樹…樹っちゃんって呼ぶんだけど。樹っちゃんは一番心配したって。
 当たり前だよね。俺すごい実際自分勝手だったりする。いい加減なんだ本当。
 樹っちゃんは他の仲間が蹴り入れるとこでも俺を甘やかすから、…逆にわからないんだよね。俺が甘やかしたい時」
 佐伯は今樹を甘やかしたいのだろうか。心配させたから。違う気がした。
 もっと違う。もっと刹那いなにか。
「困るよね。わかってるんだ。ただ俺だけ心の整理ついてないんだ。
 まだあの試合の途中な気がして。……つかみ損ねた勝利だけ残ってる。
 つまり勝手な感傷」
 にこりと笑って佐伯は締めた。
「そか。俺から言えることはなんもなくて悪いな」
「いいよ、期待してない」
 じゃあ、行かなきゃと言う佐伯に、白石は確かにはっきりと声にした。
「佐伯くんは、樹くんが好きやから、そう思うんやないかな」
 その言葉に、佐伯は初めて気付いたように目を見開いて、やがて“そっか…”と呟いた。
 その顔だけは、笑顔に加工出来なかった。ひどく、柔らかい顔だった。
「うん、一個わかってよかった。有り難う白石」
 手を振って佐伯は踵を返す。
「あ」
 最後に千歳を振り返って、彼はお仕着せではない笑顔で初めて今日笑ったような顔。
「ごめん千歳。半分嫌がらせ。でも、会えてよかった」
 今度こそ振り返らず去る背中に、言えれば良かった。しょぼくなどないと。
 少なくとも、顧問のために一人戦ったのならそれはそんなものじゃない。
 言いたくて、言えなかった。
 最後の隠すためじゃない笑顔は、酷く素で笑う白石に似ていた。





「千歳。お前あとでオサムちゃんにこけし一個もらってけ」
「…なんでとね」
「あれ褒美ってか罰やろ。狙いはわかるがしょぼいはない」
 関東のことを指したのだとわかって、千歳はしょんなかねと小さく笑った。
 その前を歩く振り返らない背中。似ているのは、コートに向かってしまった背中に手は届かないからだろうか。あの隠すための笑顔になんの言葉も届かないように。
「……千歳?」
 背後から白石を抱きすくめた千歳を、白石は今度は拒まなかった。
「………………千歳。お前が、落ち込むことやない。あれは佐伯くんの痛みや」
 聡い癖に。そう思った。今日に限って的外れだ。
 自分は決して佐伯の痛みなど思っていない。思ったのは白石の気付かない震えという弱さの。
 気付かないことを、白石は自覚しないだろう。
 自分がいつだって怯えて向かうコートには、掴むための栄光しかないと信じている。
 いつか彼の身体が震えないで向かえる日がくればいい。
 事故のことだって、自分の痛みは度外視な彼が恐ろしい。
 彼は自分が他に与える影響をわからない人間ではないのに、自分の痛みを知らない。
 どうしてそんな風に育ってしまったのだろう。一年から傍にいたら、直してやれたろうか。
 一年から傍にいると仮定することは、橘との二年間を失うことだ。
 橘との二年間を喪えはしない。けれど、仮定だけなら白石の方が大事だった。
 もし過去を変えられるなら、実行しないだろう。けれど、思うだけなら好きだった。
 けれど自分は痛みを隠さない彼と出会っていたら彼に惹かれたろうか。
 その事実は、きっと否だ。
 それでも願う。
 彼が、自分の痛みを知る人間になるようにと。
 佐伯のように、笑顔で隠したっていいから、せめて。
 せめて理解る人間になればいい。なってくれと。
 そう願った。抱き締める腕に力を込める。
 白石は痛いとだけ言って、腕をほどかなかった。きっとそこが建物のおかげで周囲から見えない場所だったから。わかっているけれど、キスは出来ない。
 佐伯を思っていると勘違いした彼にキスは出来なかった。
 抱き締めたいのも、そうしたいのも白石だけなのに。
 彼が誤解するような、痛むような種は一個だって作りたくない。


“樹っちゃんは俺を甘やかすけど”


 佐伯の声が蘇る。

「…白石」
 俺は白石を甘やかしているだろうか。甘やかせているだろうか。甘やかしたいのだろうか。
 痛みを気付かせてやれないなら、気付かない痛みごと包みたいという気持ちはそれに似るのか、ただ腕に力を込めて考えた。
 白石は黙ったまま、千歳の腕を抱くように握った。
 その手だけが、自分たちをつなぐ唯一に見えて、千歳は時間が止まればいいと思った。












後書き
あまりちとくらではないかもしれない。千歳一人が悩んでる話に。
申し訳ない…。さりげなく佐伯の嫌味に聞こえない嫌味っぽい口調が爽やかっていうか、書いてて楽しかった。(おい)
佐伯→樹?かな。白石の事故のことはまんま私の経験。弟も自転車ではねられて打撲で済んだっていうから、案外運がよければそんなもんです。
















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