永遠のサヨナラ









 その時代。弱さは罪だった。
 勝つしか生き延びる術はなく。
 だからこそ、なんでもしてきた。



 南から攻め上がって来た大国、『黒滝』。
 日に日に領土を拡大する黒滝の支配下の傍、まだ彼らの支配下に入っていない国が一つある。
 西の国、『白諏訪』。
 黒滝に比べれば、あまりに弱い国。だが、何故か彼らは度重なる侵略を逃れ、支配下に落ちない。
 神の加護かと疑う黒滝の噂。民は白諏訪の『若君』を神と噂した。






「ええか。若様から絶対に目を離すな。今晩か明日、黒滝からの攻撃があるのは確実。
 我が国の正統な血族は、若様のみ。若様を失っては、我が国は生き延びようともただの蛮国となりはてる。
 必ず若様を守り抜け。…あの方のように、死なせてはならぬ」

 国の重鎮の家老の言葉に頷いた。
 あの人は、たった一人の国の希望。
 一年前に、唯一の兄君を失い、かつての明るさもあまり見ることはなくなった。


「若様!」
 失礼します、と声をかけ、部屋の戸を開ける。寝所に眠るでなく起きている姿。
 白金の髪と、翡翠の宝石の色の瞳。神と噂される所以の一つのその姿。
「侑士」
 彼が自分を見て、名を呼んだ。
「何事もお変わりないようで安心いたしました。
 今晩か明日には敵襲があるとのことです。若様は先に我らと…」
「…」
 白諏訪の唯一の若は、そこで溜息を吐いた。蔵ノ介という名の、十八の男子。
「……黒滝は、うちらを落とすまで、止まらん。逃げてもな」
「ですが」
「それに奴らは、俺を狙とる。…兄様だけや気がすまんのや」
 そこで彼の語調に籠もった憎しみに、侑士はかける言葉がない。
 一年前、命を落とし、亡骸すら見つからなかった蔵ノ介の兄。
 彼を殺したのは、黒滝だと誰もが言った。

 仲の良い兄弟だった。
 彼は兄のいうことをよく聞く、賢い人だった。
 兄を失って一年。
 彼はよく自分たちにわがままを言う。
 最たるものが『兄を連れて来い』。
 理由はわかりきっている。
 だから諫めることもできなかった。
 兄がいなくなり、寂しいのだ。


「若様。今は、どうかお逃げください。我らがお守りいたします」
「……」
 蔵ノ介はまた溜息を吐いたが、今度は了承の意味だった。
 しかたない、という風に。
 それに侑士がホッとした瞬間だ。蔵ノ介が急に立ち上がった。
「若様?」
「…、…侑士。他の皆に報せろ!
 黒滝が来た」
「…え」
「はよう!」
 蔵ノ介の鬼気迫る声に、侑士の背後に控えていた従者が頷いて廊下を駆けていく。
 侑士は部屋に入り、蔵ノ介の手を取った。
「若様は私と」
「ああ」

 程なく、黒滝の軍勢が屋敷に攻め寄せた。だが、その時には、屋敷に人はいない。

 白諏訪の若は、不思議な力を持つ。
 それは、実際はなんということはない予見だ。ただの人の身の予見に過ぎないが、あまりに聡いその予見は、神と噂される。
 彼の兄にそんな力はなかった。彼の力は、おそらく兄を失ったが故。
 兄を奪った黒滝にのみ感じる、憎しみの予見だった。




 侑士と二人で道を馬で疾走する。他の仲間とは離れた道。一緒に逃げては危険だ。そう家老は言う。
 その進行方向に、火矢が刺さった。
「!」
 蔵ノ介を馬上で抱えた侑士が馬の足を止める。
 暗い闇の中。月明かりだけが道しるべだった。
 その明かりの中に立つ、馬を傍に待たせた巨躯の男。
 黒い癖のある髪、黒い瞳、屈強だと見てわかる身体だ。
「白諏訪が逃げるなら、こっちかね…と思ったけん」
「黒滝か」
「ああ、黒滝の城主…千歳って言うと。あんたが、白諏訪の若?」
「……」
 蔵ノ介は千歳を見て、目を細めると、小さく息を吐いた。
 持っていた刀を、鞘に収まったままで唐突に振るった。傍の侑士に向けて。
「…わ…か…?」
 どさりと音を立て、その場に倒れた侑士は意識を失っただけだ。
 馬を下りて、千歳の前に立つ蔵ノ介の手には、鞘に入ったままの刀が相変わらずある。
「なんの真似と?」
「どうせ、向こうにようさん兵仕込んどんのやろ。お前の狙いは俺やろ。
 …好きにせえ。ただし、この兵士は生かせ」
「……」
 千歳は目を丸くしたあと、快活に笑った。面白いと。
「自分を犠牲にしても部下を守る…か。おもしろか人ばい。
 …よかよ。そん子は助けちゃる」
 千歳が手を蔵ノ介に伸ばした。来い、と。
 蔵ノ介は刀をその場に投げ捨てると、その巨躯の傍に立った。
「流石、白諏訪の神の若。あんた、…死なすにはもったいなかね」
「…もったいなくなかったからか」
「…?」
 千歳が疑問符を浮かべた瞬間、足下に仕込んでいた小刀を抜いた蔵ノ介がその首に斬りかかる。背後から放たれた矢がその肩に突き刺さった。
 千歳の眼が見開かれて、すぐ冷酷に細められた。
 倒れた蔵ノ介の身体を抱き留める。青白い顔は意識がない。
「殿! ご無事で…」
「誰が、射ってもいいと許可出したと?」
「…は? で、ですがあのままでは殿が…っ!」
 冷酷に、今すぐ首をはねるような威圧で自分を睨む千歳に、草むらから出てきた彼の国の兵は青ざめる。
「こっち、来なっせ?」
「……」
「命令ばい」
 彼の傍に向かったら、多分殺される。わかっていたが、兵士は彼の傍に近寄った。瞬間、その首が千歳の持つ刀で切り落とされる。
 地面に倒れた身体を踏みつけると、千歳は蔵ノ介の身体を抱きかかえて、馬に飛び乗った。
「全軍戻れ。その兵士に手ば出したら、即、首をはねる」
 無言の応えが闇の中から返った。千歳はすぐ馬の手綱を引いて馬を走らせる。

 言葉の続きを、聞きたくなった。




 ―――――――――――――『もったいなくなかったからか』



 なにが?



 続きを、聞かせて。









「……殿。では我々は控えております故。…ご用心ください。いくら」
「黙っとれ」
「…は」
 話し声がする。
 意識が戻ってすぐ、部屋に男が入ってきた。白い着物。寝所の装い。
 蔵ノ介は起きあがろうとして、肩に走った痛みに倒れ込んだ。その下は柔らかい布団。
「ここは俺の寝所ばい。牢屋じゃなかよ」
 千歳は傍にしゃがむと、笑って言った。
「…なんで」
 完全に自由ではない。手首が身体の前で縛られている。だがそれ以外は、手当もされているし、豪華な造りの部屋は間違いなく、彼の寝所なのだろう。
 自分の装いに絶句する。白い着物。同じ。
「…妾にでもする気か」
「そぎゃんつもりはなかばってん…」
 千歳は子供のような顔をして、蔵ノ介の肩を抱いて腕の中に閉じこめた。
「はなっ…」
「話、聞かせてくれん?」
「……?」
 千歳の手が、抱き込んだ蔵ノ介の肩、傷のある場所を優しく撫でる。
「もったいなくなかった、て、なに?」
「……、知っとる癖に」
 千歳は不思議そうな顔をする。嘘だ。
 お前達が殺したあの人を。返せ。
「…ああ、あん兵士は生かしたばい」
「…え」
「生かせって言うたんあんた」
「……し、」
「信じられん?」
「……当たり前や!」
 毛を逆立てた獣のように食ってかかり、腕の中から抜け出そうとする蔵ノ介の髪を、千歳は優しく撫でた。傷が開くから、よせと。
「……」
 何故、もっと乱暴にしない。
 何故、夜伽にでも使わない。
 最低らしく振る舞うなら、こんなヤツがあの人を殺したのだと、遠慮なく恨んだのに。
 千歳の手が、蔵ノ介の髪を何度も撫でる。優しくぎゅっと、抱き締めた。

「ごめんな…」

 何故、謝る。







 がしゃん、と音を立てて転がった皿に、食事を用意した側女はぎょっとした。
 食事を足で蹴った蔵ノ介を、親の仇のように見る。
 蔵ノ介はふん、と鼻で笑って背を向けた。
「南のもんの料理なんか食えん。鼻が腐る」
 気色ばんだ女を、千歳が軽く見遣って下がらせる。
「飢えて死なれたら困ったいよ」
「…は?」
「やけん、食べんと死ぬったい。それが困る」
「…………」
 蔵ノ介は、言葉を失って、座っている千歳を見下ろした。



 早く、興を削いで殺されてやろうと思うのに、千歳はにこにこ笑って、自分を案じることばかり言う。
 着物を用意されて、気に入らないといえば部屋中を覆う沢山の柄を用意された。

「お前、側室かなんかおらんの?」
「え?」
「…側室か、正室! 男にばっか構ってて…」
 何故か気まずくなって顔を逸らす。千歳は笑って答えた。
「昔おったけん、今は」
「…? なんか」
「敵の国の間者でな。殺した」
「………」
 言葉を失った自分に気付いているのかいないのか、千歳は笑う。優しく。
「あんたんとこの女やったよ」
「……、…復讐か」
「まさか、愛しちょらんかったしな。そもそも、いらん。女は」
 騙すための嘘かと思うのに、千歳の瞳も、声も表情も真剣だった。
「…妬いた?」
「アホか。お前、俺を誰や思うて」
「…復讐言うたら、納得すっとや?」
「…」
 千歳が急に真剣な声音で言った。なんのことだと迷う暇なく、脳裏に思い出したのは、優しい兄の姿。
 勢いよく立ち上がって自由にならない手で千歳の首を絞める。拒むことなく、千歳は白石の身体を抱きしめた。首に手がかかったまま。
「…ごめん、試した」
「うそや。本気で。お前が、殺したんやろ」
「殺しちょらん」
「嘘や! お前が殺したんや!」
「殺してなか」
「嘘や!!!」
 心の底から、信じたくなくて叫んだのに、千歳は自分を見上げて微笑む。
 怯んだ隙に、手を引かれ座らされてまた抱きしめられる。
 優しい微笑み。
 兄も、よく笑う人だった。
「……嘘や」
「…ごめん。ほんなこつ、って言ってやれたらよかのに。ごめん」
「……、じゃ、誰。誰。殺した。…返してって、俺は誰に言ったらいい?」
「……ごめん」
 優しく背中を撫でる、大きな手。顔が埋まった大きな胸板。
 信じたくないのに、暖かくて、優しくて。
「…もったいなくない、てこつなかよ。あんたの兄なら」
 そんな、ひどく残酷な労りを吐く。
「……返して」
「…」
 涙が溢れる。嗚咽になって千歳の胸にしがみついて、繰り返す。
 千歳は何度も髪を撫でて、優しく言った。
 謝った。ごめん、と。


「…俺が仇なら、…討たせちゃるのにな」


 蔵ノ介が眠りに落ちる直前、聞こえた声。
 あまりに優しくて、涙がまた溢れた。






『蔵ノ介。好いている子はいるか?』
 兄が昔聞いた。
『おらんよ』
『俺もおらん』
『姉様は?』
 兄には妻がいる。子はいなかったが。
『…恋とはちゃうな』

 兄はやはり笑った。

『本当に好きな人がおったら、俺はどないするんやろう。
 …お前の兄のままで、おれるんやろうか』


 今を捨てなければ共に生きられない人を愛したら、捨ててしまうかもしれない。

 間違っているわけじゃない。

 お前も、その時は正直になれと言った。






「……」
 眠りに落ちた蔵ノ介の身体を布団に横たえ、千歳は外に出た。
 庭には、夜の星と、草と川の匂い。

 大事にしたかった。



 微笑む顔が見たかった。




 考え事に沈んだ頭では、反応は遅れてしまった。
 背後で鳴った物音。千歳はハッとして、部屋に戻ろうとしたが、足下を矢が射抜いて千歳を邪魔した。
「誰か」
 屋敷の塀を飛び越え、側に降りたのはあの日、蔵ノ介が自分の代わりに生かせと願った部下。
「…お前は」
「白諏訪の家老、忍足侑士。主を返してもらいに来た」
「……返せんばい」
「返せ」
 彼の視線に、千歳は目をふさぎたくなる。同じ視線だ。
 同じように彼を、恋う瞳。
「……叶わんくても、…俺は生きてて欲しか。
 …通してくれ!」
「……な、んやて?」
 目を見開いて問い返した侑士の隙をついて、足下の砂を蹴る。
 それに目を潰された侑士の側を、千歳は通り過ぎ、部屋に向かった。

「待て!」


 男の声がする。


 部屋の戸を開けた。気のせいじゃない。感じたんだ。彼に向かう、殺意。
 部屋の中、まさに眠る彼に振り下ろされようとする刀が光る。
「蔵ノ介!」
 千歳の声に、男が主が戻ってきたと気付いたときには遅かった。振り下ろされた刀は、蔵ノ介を抱きしめた千歳の背中を切り裂く。
「殿!?」
「……」
 血を吐いて、それでも千歳は腕の中の彼の無事を確かめた。安堵に、血に濡れた唇が笑う。
「と」
 男の声は背後で途切れる。追ってきた侑士が彼を切り捨てた。
 だが、彼も千歳を化け物のように見た。信じられないと。
「……なんでや、あんた」
「……、気付くん、遅か。俺」
「え」
 蔵ノ介の瞳が、開いた。千歳の腕の中。千歳の血が、頬に当たる感触で。
「…蔵」
 千歳の手が、蔵ノ介の頬を撫でる。瞳を見開いた彼の唇に重ねられた唇。
 血が、間から流れ込む。
「…愛しとった…ずっと」
「……ち、」
 蔵ノ介の口の端についた血を指で拭ってやって、千歳は微笑んだ。いつもの、あの笑顔。
「…ま……嫌や」
 姿勢を起こし、自由にならない腕で蔵ノ介は千歳を抱きしめる。
「待って…まだ逝かないで…! 俺…」
「…」
 千歳が霞む視界の中で、ぼんやりと不思議に思った。
 さっき、彼の顔に落ちたのは自分の血。なら、今、自分の頬に落ちるのは、
「……お願い。………ここにいて……」
 彼の、涙?


「…千歳…っ」


 彼の泣き顔が見える。笑って欲しい。
 そう言うと、彼は涙を流したままで、微笑んだ。
 綺麗だと、思った。
「…千歳」
 白い手が、自分の頬を包む。声が呼ぶ。


















 暑い日の、山林の茶屋。
 立ち寄った娘が、側に座っていた男の顔を見て、顔を赤くする。
「どうか?」
「いえ…」
 まるで、噂の亡き若君のようだと娘は言う。
 本人やしな、と蔵ノ介は笑う。言葉に出さず。



「よかったん?」
 千歳に聞くと、そもそも殿って柄じゃなかよ、俺がと言う。
 蔵ノ介の頭をぐい、と撫でて笑う。
「お前と一緒の方が、たのしか」
「……」



『今を捨てなければ共に生きられない人を愛したら、捨ててしまうかもしれない』



 兄の声がする。

「……まあええか」
「なにがね?」
「別に」
 まだ、あなたの言うことわからないけど。
 この人を死なせるのも、別れるのもなにかもったいない。

 蔵ノ介が見上げて微笑むと、千歳は少し顔を赤くした。

 向こうから道を聞きに行っていた侑士が戻ってくる。


 サヨナラをしよう。

 昔に。


 そうしないと側にいられないなら、きっとそうする。

 俺も。



「そういえば、言って欲しいんやけど」
「え?」
 千歳が拗ねた顔で、蔵ノ介の手を引っ張る。
「俺んこつ」
 自分を指さし、笑って。
 蔵ノ介は頬を赤くしてそっぽを向くが、侑士は聞きたくないと耳を塞いだ。


「すき」


 千歳の笑顔が見える。侑士は聞こえてしまったのか、死にそうな顔だ。




 手が離れないならいい。

 そのために、お前も自分も、今を捨てた。




 残るのは、あなたの体温だけでいい。









 2009/07/04