伸ばす手はどこへ 永遠のサヨナラ-SPINOUT 寺の境内に走り込んできた子供が、躓いて転びかけた。 さっと手を伸ばした僧侶が、身体を抱きかかえて支えたので、転ばずに済んだ。 「ありがとう!」 「気ぃつけてな」 「はい!」 子供の親が、有り難うございますと頭を下げる。親子に挨拶をした僧侶は、そのまま本堂に戻った。 戻ってきた僧侶を、寺の主が出迎える。 頭を剃った、大きな巨躯の僧侶。 迎えられた若い僧侶は、笑って「暑いから、元気な子供が多い」と言う。 「ああ。暑いとな」 「うん」 庭で、虫の鳴き声がする。もう夏だ。 あれから、 「一年、…経ったんやな」 僧侶の声に、主はああ、と目を瞑る。 「お前が来てから、な」 「師範」 「ん?」 師範と呼ばれた寺の主は、僧侶の言葉に顔を上げる。 「……俺の国が、昨日落ちたらしい」 「……ああ」 「…うん」 静かな寺の、明かりのない闇の中。 声が、震えたように残る。 「…昔、散々帰りたがって、師範困らせたわな」 「…お前は、弟思いやからな。会うたことないが」 優しい、声が労るようにかけられる。僧侶は笑った。大丈夫だ、もう、なにがあっても迷ったりしない、と。 あれは、一年前。暑い、夏の夜。 旅に出ていた寺の僧正である石田は、その日急いで本堂に戻っていた。 最近、ここらでは賊も出るという。寺に残した若い衆が心配だった。 「……?」 暗い道の中、一つ、光るように目を惹きつけるものがあった。 なんだろうと、そちらに足を向ける。 川縁だ。川の中に、半分ほど身体を浸からせて倒れている男の身体には、傷があり、血が流れていた。川はおそらく赤く染まっている。夜でわからない。 「おい!」 駆け寄って、身体を揺するが、意識はない。 石田は彼を背負って、道に戻ろうとしてから、不意に足下に注視した。 そこにあったのは、一本の刀。光っていたのは、これだ。 まるで、主を守ろうとしたように、存在を輝かせて。 その刀も拾い、道を急いで走り出した。立派な身体の男は重かったが、石田の身体は屈強だった。力もあった。連れて帰れる。 一人くらい、寺の住人が増えても問題はない。皆、行き場のない人間の集まりだ。 水音がした。 意識を引っ張られて、無理矢理のように意識が戻る。 ぼやけた視界には、見慣れない天井。 「……、……ここ……」 青年がそう呟いた時、傍で物音がした。ハッとして、起きあがったが、すぐ肩の傷が痛んで膝を突いた。 「まだ寝とれ」 「あんた…っ」 警戒心をむき出しにして、青年は側に置いてあった刀を手に取る。 そこで、青年は自分が敵ではないと理解したらしい。 「……」 敵なら、自分の傍に刀を置きっぱなしにするはずがない、と。 「…あんたは?」 先ほどと打って変わって静かな声で、青年は問いかける。姿勢を楽なものに変えて。 彼は、馬鹿ではないようだ、と石田は思った。 「石田銀。この寺の僧正や」 「…寺」 「道で倒れとるんを見つけたんよ。しばらくゆっくりしていくとええ」 「………、何日?」 「お前を見つけてからなら、六日や」 「……そうか、有り難う」 石田はいや、と答えた。彼は軽く笑って、世話になると優しく言う。 一瞬見せた敵意は殺気すら籠もっていたのに、一瞬で判断して、切り替える態度。 相当聡く、頭のいい人間だ。 今更に彼が誰か気になった。 「お前は?」 「…敵襲が来ないとも限らない。はっきり言うとくから、嫌なら追い出してくれ」 「ああ」 敵襲。誰かに斬られたような形跡。ただの武士ではない。 「俺は白諏訪の国の亡き殿の第一子。あれは国を狙う敵に追われていた。 …いると知れたら、あんたが殺される。どうする」 西国の殿の忘れ形見。本当なら、確かに匿うのは危険だ。 だが、はっきり目を見て言う、真っ直ぐな気質が見える。彼を、死なせるのももったいない。 「ああ、構わん。おったらええ」 そう石田が言うと、彼は流石に目をまんまるに開けてきょとんとした。 しばらく石田を変な生き物のように凝視したあと、いきなり吹き出す。 「あんた…っアホや! アホや!」 「…ひどい言いようやな」 「やって嘘なら大馬鹿もの。ホンマなら危険なヤツをあっさり……。 …面白いヤツやな」 「…多分、儂は年上や」 「…っ、俺に年で口を利け言うたんは、あんたが初めてや。見てわかる」 彼はひとしきり笑ったあと、一度頭を下げた。 「出来るだけ迷惑はかけんようにする。済まないな」 「ああ。なにかあったら、気軽に言うてくれ。…名前は?」 「……健二郎」 一瞬、彼は躊躇ったが一瞬だった。すぐ、柔らかく笑って答えてくれた。 健二郎が寺に世話になってから、更に三日。 怪我しているから、と石田や他の僧侶が言ったが、彼は義理堅い性格なのだろう。なにかと仕事を見つけては手伝う。 「そんなんしてたら、いつまで経っても帰れんぞ」 「うん、俺も思う」 彼は屈託なく笑って、自分の失敗を認める。 今日は境内の傍の草刈りを手伝って腕を使って、傷が開いた。 石田が巻く布がきつくないか、と聞くと大丈夫だと笑う。 彼はよく笑うと思う。優しく、柔らかく、時に子供のように。 時々ハッとさせられるような気高さも見せた。人の上に立つ器量。 「銀?」 「…いや」 じっと見つめられていることに気付いたのだろう。健二郎は不思議そうに問いかける。答えられず自分は誤魔化した。 珍しく寒い夜。 眠れず庭に出ると、月夜の下に彼の姿が見えた。 「健二郎?」 「…あ、ごめん」 「いや別に」 怒ってはいない。 彼は起こしたのかと思った、と言う。彼も先ほど起きたばかりか。 「どないした?」 「……弟が、どないなっとるか、考えだしたら居ても立ってもいられんくて」 「…ああ」 国には、弟が一人いると彼は話した。自分がいないなら、彼が唯一の若君。危険なのだと。 「儂はこう、生まれてからすぐ寺におったしな。…そういう武士の暮らしはしらん」 「…ええもんとは言わんわ。命をいつ落とすかわからん。 あんたがおらんかったら、俺も」 「…」 彼は柔らかく笑う。気遣わせないように、優しく。 石田を見て、瞳を緩く細める。 「…月が綺麗やな、ここ」 「ああ」 彼の姿に見ほれたのを、気付かれないように頷いた。 「時間がゆっくりで…飽きひん」 「…なら」 彼が子供のような顔で自分を見る。 「ずっとおったらええ」 「……銀?」 不思議そうな声が、石田の耳を打つ。疑問を抱えた子供そのものの視線。表情が、突き刺さる。 「ずっと、帰らず、忘れて」 「……、出来へんわ」 瞬間聞こえた、彼のものとは思えないきつい、強い声にハッとした。 「ここには、おれへん。俺は、ここは居場所やないから」 「戻ったら死ぬやろう」 「必ずみたいな言い方しないでくれ」 「…死ぬ」 「…銀?」 胸の内に膨れあがる感情に、石田は気付いて、健二郎から顔を背けた。 離れたら、もう会えない。死ぬかもしれない立場の人。 死ななくても、いつか、妻を娶って。 「…お前、妻はおるんか」 「…え」 いるのか、と聞く。健二郎は急な話題に戸惑ったが、頷いた。いる、と。 答えた瞬間、振り返った石田の視線にびくりと顔が引きつった。一歩さがるがすぐ手を掴まれてしまう。 「銀…?」 呼んだが、石田は答えなかった。 腕を引かれ、近くの縁側に身体を引き倒される。 「……」 覆い被さる巨躯の重みが、何故か怖くなかった。 拒めなかったのは、何故だったのか。 手を、石田の背中に伸ばした。暖かいと思った。 恐ろしい己の独占欲に、愛に気付いた。 健二郎が好きだ。離したくない。死なせたくない。 いなくなるのが、嫌だった。 寺の僧正だからと律することも出来ないほどに、愛してしまっていた。 ある日のまた夜。 境内の方が騒がしい。 まさか健二郎がいると知った敵かと思ったが、若い僧侶が走ってきて叫んだ言葉は違っていた。 「お逃げください! 賊です!」 「賊…」 「…」 石田の傍にいた健二郎は、すぐ身を翻してその場を去った。 自分に与えられている部屋の方向。逃げる人間には思えない。 石田は僧侶たちを先導して、裏手に向かおうとしたが、裏口からも見知らぬ男が侵入してきた。 手に刀。血に濡れたそれに、恐れるより、汚いと思った。 彼の持つ刀はもっと。 「銀、伏せろ」 彼の声が背後でした。思わず従って伏せた自分の頭上を、健二郎が飛び越える。手には、抜き身の刀。 「え」 相手が瞬きする暇なく、健二郎の刀が顔を横に真っ二つに切り裂く。 血が噴き出した。傍の仲間がなにごとか叫んで健二郎に斬りかかった。 「健二郎!」 健二郎は、向かってくる三人に躊躇せず突っ込んだ。 一人の首をあっさりと斬り落とし、自分に振り下ろされた刃を自分の刀でいなして流すと、返す刃で心臓を突く。空いた足で残った一人を蹴り飛ばす。 勢いで吹っ飛んだ男の刀を空いた手に掴むと、背後から斬りかかった四人目の男の刃の切っ先を足で受け止めた。 「え…」 「アホ」 足の指の間で受け止められてしまった刀に、男が固まった隙に顔に刃の片方を埋めて貫いた。落ちた身体と刀。 片方の刀−敵から奪った方をあらぬ方向に投げつける。そこには先ほど蹴り飛ばした男。胸に刺さった刀は、あっさり男の命を奪った。 ただ一人なのに、敵の刀が遊戯にしか見えない。 彼は本当に、そういう「血筋」の人間なのだと、思い知る。 賊が全員死に絶えた寺の中。 静かだった。 黙り込んでしまった僧侶たちは、健二郎を怯えた目で見た。 「……怪我治ったんで、…お暇します」 こちらを気遣って、そう言って、彼は部屋を出ていく。 「僧正!?」 僧侶の一人の声。しかしもう、足止めにもならなかった。 走って、手を伸ばして、血に濡れた彼の身体を背後から抱きしめる。 腕の中の身体が緊張した。 「…行くな」 「……で、も、…いつか、ほんまに俺のせいで…」 「…行くな」 「…銀が死んでもうたら…」 石田の腕の中、緊張していた身体は、震えていた。 泣いている。 きつく抱いて、何度も言った。行くなと。 「……おったらあかんのに…どうして」 泣き声が、自分を詰る。切ない響きで。 「…お前が、好きやからや」 「…」 「お前がおらんくなったら、…儂は嫌や」 「………、……れは」 涙で一度声を切った健二郎は、ぐいと石田の身体を突き放した。 「殿の子やから。誰かのために、国を捨てられへん」 「…わかっとる。でも、居てくれ」 「…ひどい人やあんた。…なんでそんな…ひどい」 「…すまんな」 「……俺は、捨てられへん。国から離れる時は、」 健二郎は頬を零れる涙を、手の甲で拭って石田に微笑んだ。いつもの、柔らかい笑顔。 「…死ぬ時や」 「…健二郎?」 彼が握ったままの刀。それを彼は自分の肩に押し当てた。 「健二郎!?」 「有り難う。救ってくれた命やけど、…もう、持ちきれん」 「…け…」 最後に見たのは、彼らしい笑顔だった。 「健二郎!!」 ぼけっと空を見ていたら、石田に頭を殴られた。軽く。 「なに?」 「あの時を思い出したら腹が立った」 「…すまんて」 「…すまんわ」 気が、と付け足すと、健二郎は笑った。申し訳なさそうに。 その姿は、僧侶の佇まいだ。 あの後、一命を取り留めた彼は、驚くほどあっさりと「俺は死んだから」と寺に居座った。 「賭けやもん。死んだら、国に帰る。助かったら、あんたの傍にいる」 と、語る。いつものように笑って。 彼の覚悟は、彼以外にはわからない。だが、自分はわかりたい。 国が落ちたと言った彼は、普通の声をしていた。 悔いがあるのかどうかを、自分は知らなければならない。 わからなければ。わかりあうために、共に生きることを許された。 彼の手が伸ばす先に、居なければならない。 もう、手が離れないように。 2009/07/04 |