◆Love even◆
霧雨が音もなく地面に落ちていく。ゆったりと生まれていく水たまり。 人の群に、足に踏み付けられて変形していく草やゴミ屑が、灰色の水の中で余計見窄らしく映った。 大げさな感情も抱かず、傘を閉じて店内へと足を踏み入れた。 最近出たばかりの歌と人の、他の店よりはまだ静かなざわめきは書店特有のもので、立ち読みや本探しに夢中になった人々はあまり口を開かない。 入り口付近が、雨に濡れた靴裏の製で汚く濡れている。 滑らないよう微かに気を付けながら、手塚は目当ての本を探そうと店の角の棚に向かった。 最近、ずっと探している本があるがどうしても見付からない。 人気があると言うより、取り扱っている店が少ないのだ。 基本的に高い位置の棚に似通ったジャンルの本があるから、手塚でも首をしばらく上げた体勢で本の背を流し見ていく。 一番上の棚を端まで見たところで、一段下に移しかけた視線の中に見知った他人の姿があった気がして、左に戻しかけた顔を右に向ける。 手塚が探しているジャンルの棚の更に右の棚。 同じく高い位置の棚を流し見て、ついでに見過ごさないよう指をさりげに動かしている、休日の日、同じく私服を着た男。 手塚が声を掛けるより早く、向こうが気付いて分厚い眼鏡の奥の視線を棚から外す。 「なんだ手塚。居たんだ」 自分に対して“居たんだ”なんて事を平然と抜かすのは彼と他数人くらいしかいない。 「お前こそ捜し物か? 乾」 問い掛けに彼は纏めた傘を持ち直して口の端だけを上げる。 「まあね」 「手塚こそ、何か捜し物?」 「がなければ来ない」 「だろうね」 含んで笑う声。店内の時計が十一時半を指す。 「釣り?」 「…ああ」 「やっぱりね」 それくらいしかないと思ったよ。 随分な台詞を吐いて、一定の速度で棚を這っていた乾の視線がぴたりと止まる。 あったなんて小さな声で呟いて、背伸びする必要もなくお目当ての本を棚から抜き出す。 ビニールで包まれてはいないから、ぱらぱらと軽く中身を見ている乾の手元をさして気にするでもなく覗く。細かい文字ばかりで何の本だか全く判らない。時折奇妙な挿し絵が入るがすぐに頁が飛ばされて何だか察するのは難しい。 まぁそんなに気になるわけではないし、早く自分の本があるか探そうと、手塚も棚に視線を戻す。何故かそのタイミングで二人の間に人一人分の気配が割り込んで声を上げた。 「や、なんで君達一緒にいるの?」 男にしては高い声で、からかうような口調でもって。 「…不二」 此処に彼が来るとは思わなかったので、言い方が自然語尾を上がらせる。 不二の自宅からこの本屋は電車を梯子しなければ来れない場所にあるのに。 「や、欲しい本あったの?」 一方乾は彼が居ることを知っていたのか、目当ての本を片手に身体の向きを変えた。 「全然。外れ。乾は…その様子だとあったんだ?」 「うん」 “何買ったの”と取れる不二の表情に、乾が“これ”と手にした本の表紙を上に向けた。 自然手塚の視界にも入り込んでくる。 二人分の沈黙。 『世界の拷問全集 前編』 やたら分厚い、赤茶の表紙に刻まれた文字が大きくはっきりと本のタイトルを告げる。 驚きの後に、失礼ではあったが“らしい”という感情が割り込んだのも二人分だろう。 「………相変わらずマニアックな本買うよね」 「いいじゃないか。世間一般に欲しがられている本読んで何が楽しい」 「その癖データとか言って立ち読みはするのに……それいくら?」 「ん、二千五百円税込み」 「敬服するよ」 思い切り棒読み口調で乾に言った不二が、ひょいと手塚の方を見上げて“奇遇だね”と取れる笑顔を浮かべた。 「手塚も捜し物?」 「ああ…。お前達、此処で会ったんじゃないのか?」 つい口にしてから、余計だったかと表情に出さず思ったが、手塚の心情など何処吹く風で“うん”と不二が答える。乾も軽く頷いた程度だ。 「お互いちょっと欲しい本があってね」 「こんな場所まで?」 「…自宅近くの本屋にはなかったんだよ。幾つか梯子したんだけど」 “妙に突っ込むな”なんて思っているのだろうか。奇妙に歯切れも悪く喋って、不二は横目で乾を見遣る。 「で、乾も見付かりにくい本探してるって訊いて」 「うちの近く妙に本屋固まってるからな。来る用があったし地図で教えるより早いと思って一緒に本屋巡りする事になったんだよ」 それで今現在に至る、とか『拷問全集』を妙に大事そうに抱えながら乾が不二の台詞を引き継いだ。 ちなみに今四件目なんだけどね。とも。 「…取り寄せればいいだろう」 「あ、まあそうなんだけ…」 「俺はそれでもいいけど不二の方は期日厳守だから」 普段通り無機質な調子の声で、けれど何処か楽しげな感情を含んで、台詞を遮った乾を不二が一瞬だけ強く見上げる。 手塚が明確な表情の意味を読みとるより早くそれは笑顔に取って代わったが。 「…まあ。ね。だから取り寄せたりするとどうしても一ヶ月くらい掛かっちゃうじゃない」 だから。そう言って笑う顔は部活で見る、普段通りの彼。 「…っと、もう昼か。不二、次回るか?」 「あ、うん――――――――――――――――っとその前にちょっと来て」 「ん?」 「欲しい本、探してるのとは別にあったから」 乾を軽く促して、不二は反対側の棚の方へと視線を寄こす。 「じゃあね手塚」 「じゃ」 「ああ」 何でもないように答えながら、しばらくその二人の背を見送って、らしくもない息を吐く。 「じゃあ買ってくればいいのに」 「届かないんだよ」 「ああ、それで」 とっくに、手塚の存在など忘れたような調子で話を続ける姿が、部活の時と比べて奇妙に遠く感じて嫌になる。 「不二先輩、なんか探してるって本当っスか?」 すっかり暗くなった空が部室の窓から覗くのを見上げながら、ふとそんな事を越前が話題に上らせた。 「うん。知ってたの?」 「この前の休日なんか書店梯子してんの見かけたんで」 数名しか残っていない部室で、着替えの衣擦れの音が時折響く。 「見付かったんスか?」 「残念ながら」 「そうっスか」 「それがなに?」 机の上に部誌を広げている手塚の位置から、越前に向ける表情が片側だけ見える。 書店で見かけて、“だから”と自分に向けたのと同じ。 「いえ、うちの近くにマニアックな本ばっかある本屋があるんスけど。探してみます?」 「…僕の探してるのはそんなマニアックじゃないと思うんだけど」 マニアックなのは乾でしょ、と笑う声を聴いてか、背後から着替え終わった乾の手が伸びて不二の頭を軽く小突いた。 「否定はしないがね」 「だったら叩くことないじゃない」 背中の乾を無理に見上げながらそんな事を言っている不二に、“どうします?”と越前の声が向けられる。うーんと思案するように、ロッカーに掛けたままの手が止められている。 「行けば? 選り好みしてる場合でもないし」 「他人事だと思って…」 君はいいよね目当てが見付かったから。 「そうでもないよ」 「え?」 「で、モノは相談なんだけど。その本屋行くなら頼まれてくれない?」 なんだか眼鏡の奥が光った気さえする。思わず“なんスか”と口に出してしまい、越前は少し後悔する。 「うん、お金は渡すから。買ってきて欲しい本があるんだ」 「…タイトル、紙に書いといて下さい」 「書いた方がいい? 覚えやすいとは思うけど」 すぐに帰るつもりらしく、鞄を背に乾がメモはないかと視線を巡らす。 「『世界の拷問全集 後編』っていう分厚い奴なんだけど」 ついで続けられた声に思わず。 「…それは印象に残るっていうんだよ…」 と不二が突っ込んだ。 ついでに、部室の温度も二、三度低下した気がしたとかしないとか。 ―――――――――――――苛々する。 というのとは、多分違うのだ。 普段からそんな感情に付きまとわれているわけではないと言い切りはしないが、永続的に続くような感覚が何時も側にあって。 何か切欠を得て解決されるストレスとは違う。 理由を知っていて、見なかったことにしようとしている。 それが。 「手塚」 傍らで鳴った微妙に高音な声に、棚から引きだし掛けていた本が手から放れて床に落ちる。 振り返った先に案の定あった顔の驚きめいた笑みに、あからさまだと胸中で考えて。 「ごめん。驚かせた?」 「…いや。力の加減が違っただけだ」 というか謝るなら足音を消して近づくな。 「だからごめんって。だって手塚難しい顔して本睨んでるんだもの」 声掛けて良いか迷うじゃない。そうは言うが不二は普段からそんなことはお構い無しに声を掛け、笑って話を置き去りにしていく。そういう意味なら乾といいレベルで。 「……ちょっと、人の顔見てため息吐かないでよ」 「いや、違う別にお前に対してじゃない」 「説得力ないよ…」 そうだ、苛々の原因なんか分かりきって。 あの日書店で乾の姿を見付けなければ良かったのか。 今なら判る。 不二が乾に一瞬向けた表情の意味。“手塚に話すな”なんて、読み取るのはひどく簡単なことで。 本一冊で、線を引かれるとは思っていなかった。 何だかんだ言って、落胆しているのに。 「……悪い」 「…なんで、謝るの?」 「いや」 何でもない。そういうのが限度。 賢いから、納得しはしないだろうけど。 異常な心情。気付かれたくはないのに、誰かの側に居て欲しくない。 混み合う時間帯。サラリーマンや高校生が混じって、飽きもせず立ち読みで本を手に群がって。 そんな所に興味はないから良いけど。探すモノは一つだけど。 初めて来る書店だったから、何処になんのジャンルがあるのか判らず、手当たりで店の中を歩く。 店左よりの棚に、それらしいジャンルを見付けたと思うより。 早く。 必死に棚の最上に手を伸ばす、姿を認識した。 「……………………っ……駄目か」 やっぱり届かないよね。なんて小さく自分に呟いて、伸ばし掛けていた手を不二が降ろす。その瞬間に背後から伸びた手が、たんと本の背に着いた。 「………手塚」 「また、捜し物か?」 自分が此処にいるとは思わなかったのか。彼にしては珍しいほど驚いた様子で見上げてくる。 「うん…手塚も?」 「ああ」 そう広くない店内で、至近距離で合わせていた視線を軽く離す。 すぐに立ち直ったように、不二が小さく笑った。 「手塚も結構本屋梯子してるんじゃない?」 こっちの本屋で見るとは思わなかったよ。 「いい加減、取り寄せた方がいいとは思うんだがな…。 お前こそ、期日に間に合いそうか?」 「うん。何とかね」 何でもないように。笑う。 また、その中に紛れるぎこちなさに苛々する。 自分だけに、隠されているようなフィルター。 「…越前と、行った本屋にはなかったんだな」 「あ、うん。乾の探してたのはあったんだけどねー」 越前が中見て変な顔してたんだよ。 当たり前だ、なんて返せば不自然じゃないとは思う。 上手くいかない。 「今日は一人か?」 「あ、うん…」 「そうか…」 本棚に視線を返して、小さく息を吐く。ばれないほど小さく。 あからさまに、なっているのは自分。賢い不二なら気付いて、気付いてもきっと現したりはしないだろう。 訊いて、どうするつもりだった。誰かと一緒なら。 「…………」 気に掛かるように、向けられる視線と絡まないよう、棚の上へと目を向ける。 早く探して、この場から去って、落ち着かせて。 気付くなと願う、馬鹿なほど子供じみた自分。 「…………………あ」 そんな時でも何故、探しているモノは他を避けて視界に入ってくるのだろうと不思議になった。 棚の最上段、探していた本に間違いない、背の文字。 咄嗟に手を伸ばして引き抜く。表紙の写真で、確かに探していたものだと確かめた。 「見付かったんだ」 斜め横から覗き込んで、目を細めるようにして笑った不二が“よかったね”と告げる。 「ああ…」 有り難うと、言おうとして何故かそれがはばかられた。 言葉に嘘がないと思える、笑みを浮かべていながら、違うと思えるような錯覚。 「…有り難う」 「…変なの? 僕は手伝ってないよ?」 「いや、お前がいたから見付けやすかったわけだし」 「何ソレ」 どのみち見付けてたでしょ? なんて笑う様はもう錯覚を与えない。 普段通りの、優しげな笑顔。 「ほら、見付かったなら買ってきなよ。遅くなっちゃうよ?」 「ああ……。お前の欲しい本はいいのか? さっき…」 「ああ、いいの。ちょっと見てみたかった本があったから」 「そうか…」 せめて何かあるなら取ってやりたかった。 いいというのを、無理に聞き出すことは出来ないから。 それでも手にした本の厚みは現実的で。 手に入った喜びとない交ぜになって、それはいっそ天気雨のような矛盾さで手塚の胸に残った。 「……いいのか?」 靴音を殺さなかった相手の声が、背中にやんわりと当てられる。 振り返らずに、笑みだけ口にして、不二は“いいの”と言った。 「手塚、欲しい物買えたんだもの。別にいいんだよ」 「でもね」 片手にまた分厚い本を持って、棚に背を凭れる体勢で見下ろしながら、口調だけは疑わしそうに言う乾が今だけ妙に煩わしい。 「ずっと探してたのは不二もじゃない。期日厳守とかでさ。 手塚の誕生日、渡すんだって――――――――――――――――…」 「いいの」 何故か気になるのか、乱れた本の棚を意味もなく直す乾を、片目だけで見遣って怒鳴りもせずただ断言する。 「有り難うって言われたから。それでいいんだよ」 「そういうものかな…」 「上書きしときなよ」 「はいはい…」 本気でそう思っちゃいない癖に、わざとお手上げのポーズを小さくやって、乾はぽんと手にした本を自身の胸に当てる。 「ってか、上書きって俺をパソコンだと認識してるの?」 「Macよりむしろ窓かな」 「いくらなんでもそこまで高性能じゃないから」 人類の域越えるでしょいくらなんでも。 「そう? 乾なら有ってもいいと思ったんだけど…」 「不二…」 それは酷いよ。と付け加えて、持っていた本の背で軽く不二の額を叩く。 「そこまで機械化されたらね。“好き”もなんもかんもなくなってツマンナイよ」 一瞬、きょんとした顔で静止して、それからくすぐったそうに笑う不二を、僅かに口の端だけを上げた笑みで見下ろす。 「そうだね」 そう耳に響く声が心地よくて、ついでに一緒に帰ろうかなんて紡ごうとする。 偶然、不二を見付けたのは偶然だけど。このまま居たら手塚にどんな反応されるかなんて乾には予測済みで。 手首に、妙に痛い手の力が掛かって、分厚い本を掴んだまま上に持ち上げられる。 「………、」 あからさまに、ぎょっとした反応。 いつの間にレジを終えたのか。 一声もなく二人の間に割り込んだ手塚が不二の頭に乗せていた乾の手首を掴んで外した。 それだけの行為が妙に、まとまりなく視界に入った気がする。 妙な沈黙と、間の中で。 袋に包まれた本を片手に。いつもより難しい声で手塚が告げる。 「帰るのか?」 「……あ、うん」 「じゃあ途中まで同じ道だろう」 それだけ言って、さっさと踵を返す背に、茫然とした不二の背を乾が押して。 「“一緒に帰ろう”ってさ」 と出口を指さす。 明らかに楽しんだ表情と声のトーンに呆れながら、手を振って不二は後を追った。 後ろで、一人残された乾が、棚の影で小さく吹き出していて。 高いところにあるものを、いつでも背伸びで欲しがった。 何故か、探しているモノに限って高い場所にしかなくて、届かせるには自分の高さは足りなくて。誰か身近な人に頼って。 視線の先にある一冊の本。 ほとんどの店になかった、釣りの本。 頼めばいいのに。自分で取りたがった。 ようやく見付けたから。間に合うと思ったから。 君にあげたかった。 一年に一度の。せめてその程度。気付かせることは出来ないから。 それが例え仇になっても。君が気付いて喜んでくれるならいいよ。 気付かれないことが前提の想い。いつでも君だけ見てる。君の一挙一動に一喜一憂してるよ。 いつか君と一緒に本屋に来れるなら、背が届かないことを口実に“取って”と頼んでみるから、ねぇ手塚。 せめてそれくらい、君の時間を貸してね。 |