[イージーブラフ]

□イージーブラフ□



 棚がネックだ。
「…………」
 欲しい本は、何か嫌がらせと思えるほどに高い一番上の棚。
 跳ねれば届きそうなものだが、足下には新刊が並べられた棚。
 迂闊にジャンプすれば膝を当てそうだ。

「………こーいう時侑士がいればなぁ」
 届くだろうに。そもそも棚さえなければ話は早いのに。
 踏み台くらい置いておくべきだろう全く。
 ため息を一つ。
 しょうがない、恥ずかしいが人に頼むしかない。
 そう結論を下した直後、向日の背後で声が鳴る。
「どれ?」
「あ、一番上の数式の…」
 反射的に答えてから、ぎょっとして振り返る。
 いつの間に背後に立たれたんだろう。気配も靴音も何もなかった。
 背の、やたらに高い姿が見上げられる。
 目当ての本を軽々と取って、向日にはいと手渡した。
 分厚い眼鏡と、高い身長。ラフな私服の。

「……………………………………………………………………………………………………」
 知らない人。

「これじゃないの?」
 聞き返してくる相手に、向日は我に返って礼を言う。
「や、これこれ。サンキュ」
 早くレジ行って買ってこようと踵を返しながら“背、高ぇ嫌味だ”と胸中で突っ込む。
 レジで本を精算しようとして、ふと気付く。
(…あれ、財布)
 ちゃんと持ってきたはずなのだがと焦りが芽生えた矢先に、後頭部をぺしりと叩かれた。
「忘れ物」
 顔の前に吊らされたのは間違いない自分の鞄。背後には先程の長身。
「…度々どうも」
 店員の小さな笑いに恥ずかしくなって、慌てて金を払う。
 鞄ごと置き忘れるなんて失態を同じ学校の生徒に見られていなくてよかったと思いながらも、この書店は割と氷帝の生徒が立ち寄るのでちょっと怖い。知り合いなんて誰か居そうだ。
 とっとと立ち去ろうとした向日の背に。
「向日君」
 名指しの声。知り合いかとびびった彼に、再び後頭部の重み。
「また忘れ物」
 今度は買った本を忘れた。
 咄嗟にひっつかんで外に出てから、ふと彼を振り返る。
「……………知り合い?」
 分厚い眼鏡の奥で、瞳の色は判らない。
 けれど、乾は小さくだけ笑って見せた。




「……じゃ、高等部の先輩?」
「違う。ハズレ」
「…大学部。テニスクラブ。あ、教育実習生!」
「全然違う」
 休日の昼間の、騒がしい街中。
 次々に切り替わるビルのディスプレイと混ざる音楽、車の騒音。立ち止まれない人の群。
「…ギブ。駄目だわかんない」
「別に意地になって俺が誰か当てようとしなくたっていいのに」
「気持ち悪いんだよ…。完璧に知らないっていうのでもなさげだし」

 数度額を小突いて、無理にでも記憶を探る向日を横目に、乾は胸中でしぶといなぁと思う。
 レギュラー落ちしていた自分を向こうが知らなくても別段おかしくはないのだが。不二や手塚じゃあるまいし。
 しかもどうやら、敵陣の人間だとは考えないでいるらしい。

「もう諦めなよ。完全なピント違い。無理だって」
「第三者に言われたなら腹立つんだけど本人に言われると無性に屈辱だ」
「どっちが上なのそれ」

 くすくすと笑いを零して、ふと反対側の歩道に、見覚えある姿を乾は見付ける。
 背の高い仏頂面と笑ってばかりいる色素の薄い髪の。
 にぃと口の端を上げる。向日は気付いていない。
 ここで声を掛ければ流石に、青学側の人間だと判るだろうが――――――――――…

 取りだした携帯で素早く不二の携帯にメールを打ち込む。
 数分もせずに向こうの不二が、鞄から携帯を取りだして、手塚の方を見遣った。
 表情には“?”
 それから手塚と一緒にこちらに眼を走らせてすぐ、乾に気付いたらしい。
 手塚は難しい顔を全面に、不二はくすくすと笑って口元を押さえた。
 未だ気付かない向日を指さして、にやりと笑ってみせる。

「あ」
 という声と一緒に手を打った向日が、思い出したとばかりに乾の方を見上げたときには、二人は既に人混みの中。
「思い出した?」
 何事もなかったように問えば、びしっと指を差して。
「劇団四季の受付の人」
「……違うよ」
 どうしてそっちに飛ぶんだと言いたげに寄せられた乾の表情にも構わず、“じゃあもうわかんねぇよ”と向日は唇を尖らせる。
「だから考えるの放棄しちゃいなさいよ」
「嫌だ。気になんだよ」
「いずれ判る事だろうに…」
 初戦で当たるんだから。
「なんだその意味深な言い方」
「いいえ?」
「うわ腹立つ。
 なぁヒントくらい寄こせ」
「ヒントねぇ?」
「一個でいいから」
 誠意のない調子で拝む向日を見下ろして、“確かにこのままじゃ判らないな”とも思える。自分としては大会で気付いてくれても一向に構わないのだが。
「…――――――――――――――――じゃ、一個だけね」
「おっしゃサンキュ!」
「ヒントその一、俺は中学生です」
「え、マジ!?」
「うん」
「うわ詐欺」
「どっかで似たこと言われたなぁ」
「う――――――――――――――――…ん中三だよな知り合いでいたっけかぁ?」
「も一個欲しい?」
「くれ」
「ヒントその二、テニス部だよ」
「ええぇ?」
 露骨な声と表情に、乾も思わず苦笑する。テニス向きには見えないのだろうが、中学生でこれだけ身長があるのだから―――――――――――――ああバスケ部に見れるのか。
「テニス部だ待てよ記憶にないぞ」
「ちなみにうちは一応名門校だから弱小って事はないよ」
「余計にこんがらがるってんだよ――――――――――――――――畜生変に気前よくしやがって」
「あれで最後だよ」
「もう一個」
「約束違うし」
 嫌だよもう。
「なんだよ中途半端な気前野郎」
 前髪を掻き上げて、コンクリートを睨み付ける。
 記憶を探っても浮かばないものは浮かばない。
 身長やたら高い、名門校の? テニス部の? で中三?
 分厚い眼鏡?
「って、お前普段はコンタクトとかいうオチはねえな?」
「ないよ」
「で表情の起伏がねえ、と…。駄目だわからねぇ」
「さりげ失礼だよね。向日君」
「だってそうじゃねぇか。表情がわかんねぇっつったら樺地とかもいるけどよ…。
 あ、そういや青学の不二とかって奴も笑ってばっかでわかんねえな」
(判ってる奴もいるけどね)
「あ、そういや青学の手塚は老け顔だと思わんか?」
「今更な感じだけど思うな」
 しかしちょっと痛い話題だ。ずっと思ってはいた事だし、乾はあまり人の噂でびくびくしながら話す質でもないから支障はないが。
(老け顔って全国共通の意識だったりして)
 街の時計が一時を指す。
 そういえば用はあったのだし、あまりのんびり出来ないなぁと思った矢先に乾の携帯が鳴った。短い。メールだ。
「ちょっと失礼」
 ひとまず断って見る。送信主が手塚で内心吃驚したが、もっと驚いたのは内容だ。

『老け顔で悪かったな』

 ばっと弾かれるように巡らせた視線。
 自分達より少し向こうの方にあるコンビニに、今入ろうとしている二人組の、視線はこちらに注がれている。一人は楽しそうに笑っている。
「っ? お、おいどうした?」
 急に、傍らのガラスケースに額を押しつけて笑いに肩を震わせた乾に、向日はぎょっとして声を掛ける。まぁ当たり前だが。
 乾にすれば“タイミングが”だ。
 しかも拗ねているのだか怒ってるのだか。
「噂をすると人は来るものかな」
「は? なにいきなり言ってんだ?」
「いや」
 しかし自分は同意しただけなのだが。
 引きずられるのは面白くない。面白い気もするが。

「ごめん。知り合い見付けたからそっち行かなきゃ」
「あ、ああメール…」
 畜生結局わかんなかったなと零す向日がやけに子供じみていて、小さく笑いを零した唇に。
 ひょいと前髪を掻き上げた乾に、何事かと顔を上げた向日の額に一度だけ、接触した唇。
 唖然とする彼の額を叩いて。
「ヒントその四、同じ部にアクロバティックで有名な奴いるよ」
 そう言い置いて、手塚達の入ったコンビニへと小走りで向かった。

 アクロバティックで、有名な奴?
「…………――――――――――――――――ぁあ?」
 菊丸英二。同じ部?

『あ、そういや青学の手塚は老け顔だと思わんか?』
『今更な感じだけど思うな』

 今更?
 名門校で。
 いずれ判ること?
「………青学じゃねえか!」
 通りで自分を知ってるはずだ。
 しかも意地悪い方法で。
「よくもからかいやがって――――――――――――――――……………。

 青学の………誰だ?」



「ていうか乾、メールの“右ルック”ってなに?」
「右見ろって事」
「てか変な取り合わせだったね? ねえ手塚」
「五月蠅い」
『ああ拗ねちゃった』
「ハモるな!」

 







血迷った!!!!!!!

ちなみに、以前友人のメールに「後ろルック」と送ったらえらい笑われました。
後ろにいたもんで。しかし彼女は素直に後ろを見てくれたらしい。(その時には居なかった自分)