ただ我が儘に想いを強請るでなく伝えるでなく望むべくもなくただただ内に抱え込んで何時しかそんなに想い願った事も誓ったことも焦がれたことも憎しみさえあったことも忘れただ他愛ない言葉を交わすだけの絆に収まるくらいなら いっそ
「さくら」 卒業が、近づいた頃の日だった。 三月の、陽も暮れた時刻に。 早咲きの桜が舞っていた。通い慣れた、学校の門。閉じられたまま、上によじ登ったような靴裏の泥。 照らすものは月明かりだけの地上に、桜の花弁が落ちていた。無惨に。 「帰らないの?」 問い掛ける声は、相変わらず感情の欠片くらいしか見えない。 空は、闇の中で。星屑さえ埋めていた。月の淵だけ、藍の濃さは緩んで。 「帰ったよ」 振り返らずに答えた。 「また、来ただけ」 一呼吸置いて、振り向く。 長身の背が見える。薄目のコートを羽織った、彼の分厚い眼鏡の向こうなんて。見えない。 鮮やかな桜の木々を背に、唯一人に向けて、不二は微笑ってみせた。 「もう少し、厚着して来なさいよ」 風邪、引くよ。 歩くたび、鳴る地面。千切れて粉になる桜の花弁、足下に。 とんと、幹に背を押しつけて、頬を擦り寄せるようにくすくすと笑う。 「…いいなぁ、それ」 無邪気な子供のような、邪気のないソレ。 がりと、爪で寄りかかった木の幹の皮を剥いで、抉るように、触れる。 祈るように眼を伏せる、その様が。 「……不二」 なに? といつものように顔も上げない彼の手を、大股で近寄って取って、幹で傷つけた左手の人差し指から流れて一筋伝う、赤い。 「止めなさいよ」 そうやって。 「乾、変わらないね。本当」 「俺が純粋に人のためだけにデータ取ってたらおかしいでしょ?」 「それもそうか」 指先、掴んだまま唇を寄せる。不二が一瞬身を竦めた。 構わず第一関節まで口に含んで吸う。鉄錆びに似た味がする。 「……吸血鬼?」 「馬鹿言ってないの」 「馬鹿じゃない」 至近で紡いだ不二が、ふと乾の頬に一瞬だけ唇を寄せて、鮮やかに微笑う。 桜吹雪とか、夜桜ってこんなものかと。 思わせる情景。 黒い輪郭に切り取られた静寂な校舎、校庭、時計の針。雲さえない月光。 冷えた風が渡るたび、飛ばされて踊る花弁。月明かりの元で、頼りなく反射して輝く。 風花のように、一瞬空を飛ぶ。 不二なら、言うと思ってた。 誰もいないテニスコート。フェンス越しに覗けば、桜に埋められた地面。 どうしようもなく、寂しさを促す。屋上のような、息苦しい感触。 「…何を?」 前方を歩きながら、振り返って訊いていく。 時折わざと花弁を潰すように足を蹴って、わざと少女じみた仕草で髪を掻き上げて笑う。 月は明るいのに、転びそうな物は何一つ無いのに。 その危うさに、何度も手を伸ばし掛けた。 「桜の下には、死体があるって」 「言って欲しかったの?」 「違うよ」 言うと思った。 「僕はそこまで、ロマンチストじゃない」 強く風が吹く。 お互いの髪さえ流されていく。 天空へ、闇に呑まれそうな空へ桜を運んでいく。 ぽっかりと、口を開けた深淵。 「怖い?」 立ち止まる、不二の足。 闇の元で、これ程頼りなく映る姿。 「何が?」 誰かに伸ばした腕の細さ。 月明かりに浮かぶ輪郭。曖昧に、不明瞭に。 なくすみたいに。 傷付いた指が、また血を流す。 手首だけを掴んだら、らしくないと不二が笑った。 「怖いなんて、違うよ」 「じゃあ、寂しい?」 「その方がいい」 気配だけの微笑み。俯いた不二の、首筋まで視界に露わになる。 乾がそのまま、首筋に軽く、舌を這わせるとびくりと震える身体が、笑いまで零した。 「どうせやるなら、痕くらい残しなよ」 「いいの?」 「いーよもう。言わないって決めた。手塚は――――――――――――――――…」 行ってしまうから。 違う場所へ。 「留学する日、見送り行く?」 「行ってやらない…。やること、あるから」 見慣れた、何処か達観した表情で薄く笑って、不二は視線を乾と絡めた。 「やること?」 「僕、外部の高校受けたんだ」 「――――――――――――――――……手続き?」 「その他色々…。 驚かないね」 「……俺も人のこと言えないから」 「乾も、外部?」 「うん。まだ親と先生にしか言ってない」 「…共犯?」 「かもね」 背中、触れるフェンスの軋み。 何時も、背中凭れさせて、コートの中を眼で追っていた。 指で引っかけて、眼鏡を外して空いた乾の左手が背後のフェンスに絡む。 眼鏡を不二の手の平に押しつけて、右手が額に掛かった髪を梳いた。 額に降りる、唇の冷たい感触を身動ぎもせずに受けた。 眼を伏せて。 乾と、自分の呼吸音が酷く側で混ざり合って聞こえた。 |