冬の星











 誰にも言わないで。



 覗くなら、お前なんか要らない。








 かしかし、と手元でいじる携帯が音を立てる。
 たんたん、と廊下の向こうから駆け寄ってくる足音に、廊下にもたれて携帯をいじっていた白石の口元が緩く笑む。
「部長!」
 廊下の角から姿を見せた財前に、白石は鞄を肩に背負って、傍に歩み寄った。
「こら、今はお前」
 こつん、と頭をこづいてやると、財前は少し、顔を赤くする。
「はい」
「ほな、帰ろう」
「はい」
 白石と並んで歩き出した財前の手が、そろりと白石の手を握る。
「人がおらんとこまで。あかんですか?」
「ううん、かまへん」
「よかった」

 そう微笑んで返してから、財前は一瞬だけ、窓の外を見遣った。
 廊下の窓は、向こうの連絡通路の窓の向こうが見える。
 連絡通路に立っている学校一の長身の視線が、突き刺さる。
 自分にじゃない。白石に。

「…白石先輩」
「ん?」
「好きです」
「しっとるよ」
「……先輩は?」
 問いかけた声は、泣きそうになった。
 白石はびっくりした顔で振り返ったあと、財前に歩み寄って、その首に両腕を回す。
 そして唇に軽いキスをする。
「光が、好きやで?」
「……はい」
 愛を告げられて、微笑まれて、名前を呼ぶ。

 なのに、こんなにも、あなたを失いそうで怖い。

 あなたは、ホントウに俺のもの?








 ぎし、と寝台が軋む。肌を辿る手は、大きく、浅黒い。
 財前が残した痕を一つ一つ唇が辿って、新たな鬱血でそれを消す。
 自己満足でしかない行為に、白石の唇が嗤う。
「白石?」
 顔を上げた千歳が、白石の足の間に足をいれて覆い被さったまま、不機嫌そうな声を出した。
「なに?」
「注意力が余所いっとった」
「そうか?」
 とぼけて言うと、千歳の手が後ろ頭に差し込まれて起きあがらされ、深くキスをしてきた。
 舌が口内を何度も貪る。答えて自分も舌を絡めた。
「…白石」
 千歳が口を離すと、銀色の液体が間で糸になる。
「…俺んこつ、見て」
「見とるやん」
「……白石は、俺のもんやろ?」
「千歳? 言うてる意味、わからんのやけど」
 笑って更にとぼけると、肩を掴まれて強く寝台に叩き付けられた。
 痛みに白石の顔が歪む。
「いっ……おい、丁寧にせえや」
「……、…しとうよ」
 なにかを言いたげにしながら、千歳は言わない。代わりに、精一杯大事にしていると言った。今にも、泣きそうな悲痛な顔で。
「……お前、なに言いたいん?」
 下着もズボンも、シャツもまとっていない全裸。それで、千歳の家で、寝台で身体を委ねている。今以上に、欲しいものがある?と笑んで問う。
「……欲しい」
「なにを」
「白石が、」
「あげとるやん?」
「身体じゃなか!」
 血を吐くような声は、こんな声なのだろう。掠れてなお、必死な声。
 千歳にそんな顔をさせているのは、自分。
「…千歳」
 溜息を吐きながら、それに一瞬怯んだ千歳の胸板を押し返し、起きあがって千歳の首に片手を回す。片手で千歳の唇をなぞった。
「俺、言うた?」
「…白石」
「俺は、お前のもの?」
 すぐ、千歳はひどく傷付いた顔をした。涙が瞳に滲む。
「俺はお前に、なにひとつあげへんもん。…お前のやないから」
 微笑んで言うと、千歳の頬を涙が零れて落ちる。
 それを指で拭って、頬を舐めると口の中に味が広がる。
「なあ、なにが欲しい?」
「……」
「俺以外、でな?」
 楽しそうに、微笑んで言う白石を千歳は無言で抱きしめた。
 震える巨躯の背中に手を回して、白石は瞳を閉じる。







「白石先輩……?」
 瞳を開けると、寝台の上は寝台の上でも、財前の部屋の寝台だった。
「…あれ、寝てもうた?」
「はい」
「悪い」
 怠い身体を起こして、シャツしかまとっていないそれにかかっていたシーツを退かす。
 足下に畳まれていた自分の服を拾い、下着を身につけてからズボンを足に通す。
「先輩」
「ん?」
 身体がかなり怠くて、頭がよく働かない。
 毎日のように、二人の相手をするのは、体力が持たない。
 財前が傍に立って、白石の髪を撫でた。その手で、白石を引き寄せる。
 唇が重なる。
 すぐ離れた。
「…俺のこと、好き?」
「なんで聞くん? 今更」
「……それ、千歳先輩ですよね」
 財前の手が、開いたままのシャツの隙間から、裸の胸をなぞる。赤い痕が散っている。
「うん」
「……俺を、好きですか」
 見上げると、財前は悲しげな顔をしていた。既視感を覚える。ああ、昨日の千歳に似ている。そう考えると、自分の最低さに吐き気がした。
「…好き」
「千歳先輩より?」
「千歳は、仲間。光は、…特別。以上で、好き」
 とびきり優しく微笑んで答えると、財前はあからさまに安堵して、泣きそうに微笑んで白石に抱きついた。
 耳元で掠れた財前の声がよかったと綴る。
「馬鹿やなぁ。そんなん光は心配せんでええねん」
「やって、俺……いつ、部長が千歳先輩んとこ行くんやないかて……」
「…大丈夫や」
 財前の背中を抱きしめて、優しく耳元に囁いた。
「間違っても、世界が終わっても、…千歳のとこには行かへんよ」
「…ほんま?」
「ああ。…約束したる。破ったら、俺の命あげる」
「…先輩…」
 よかったと、何度も繰り返す後輩の背中を、優しく何度も撫でた。
 幼く、一途な可愛い後輩。
 人の言葉は、ちゃんと聞いてと、心の中で、暗い声が言う。



『千歳のとこ“には”行かへんよ』









 寒い、空が落ちそうな真っ暗な日。
 雪が降りそうだ。
 映画を見に来た帰り、財前が土産を買っている間、白石は劇場の外で待っている。
 ショッピングモールの中の映画館。全面ガラスの窓の傍。
 人はほとんど、まだ劇場内にいて、人気がない。
 椅子と自販機。人の喧噪は、数百メートル離れたショッピングモール街の方。
 窓の向こうは、寒そうだ。
 携帯が振動する。
 フリップを開いて、白石は嬉しそうに微笑んだ。
 すぐ通話ボタンを押して、「もしもし」と答える自分の声は、我ながら弾んでいて。
 世界で一番、救われないと知っていた。

「え? 映画。お前は?」

 携帯の向こう、“奇遇やな。俺も映画”と笑う声。

「誰かと?」

 彼が楽しそうに、嬉しそうに彼女と、と答えた。胸が締め付けられたように、途端痛む。

「そう…楽しかった?」


 馬鹿な、ことをしている。
 俺の好きな、大好きな人は、もう誰かのもの。
 俺のものにはならない。
 だから、財前の手を取った。傷付けたりなくて、千歳の誘いに乗った。
 だけど、内緒。誰にも言わない。財前にも、千歳にも、彼にも。


『俺はお前に、なにひとつあげへんもん。…お前のやないから』


 永遠に、お前のものじゃない。そして、財前のものでもない。
 一生、心はあげない。
 叶わない夢を見る。いつか彼が自分を見る夢。
 そしたら、全部あげる。

 救われない。自分が一番。千歳より、財前より。




「白石」
 傍で、自分を呼んだ声は、千歳だった。財前じゃない。
 通話が終わったところだった。夢から醒めたように、敵意の視線を向けると、千歳は辛そうに目を揺らす。
「誰と来たと? 財前?」
 千歳は以前、財前を名前で呼んでいた。いつの間にか、名字になった。
「関係在る?」
 下から嘲るように言うと、千歳の手が自分の携帯を握る手首を掴んだ。
「ある」
「お前、頭悪いやんな?」
「…白石?」
「なんで、学習せえへんの? 愛されないて。お前は一生、愛されないて。
 なんでわからんの? 馬鹿?」
 口元に笑みを刻んで言うと、脇に手を差し込まれた。すぐ身体を持ち上げられて背中にガラスの壁がぶつかる。唇に乱暴なキスが落ちる。

 嫌い。

 思った瞬間、二人の間に影が割り込んだ。白石の身体を抱きかかえて、千歳から奪ったのは財前で、自分の背後に庇う。不意打ちだったらしく、千歳はあっさり奪われてしまったことに、驚いていた。
「人のもんに、なにしてんですか」
「…」
 千歳は、目を一瞬瞑った。すぐ、財前を睨み付ける。
「財前のもんじゃなかよ」
「あんたのもんやないです。俺の」
 強気に拒みながら、不安になったのか、財前が自分を振り返る。不安そうに。
「光? …怖がる必要ないて。お前は。…光は好き。光のもんやよ?」
 それに、ひどく安堵した後輩の顔。向こうに、泣きそうだとわかる、傷付いた千歳の顔が見えた。
「………白石は、お前のもんやなかよ。俺のもんでもなか」
「あんた、しつこいっすわ。フラれてんのに」
「…めでたかね。光。…白石、…自分を痛めつけて楽しか?」
 自嘲のように笑う千歳の声が、一瞬遠ざかった気がした。なにを言った。
「…傷付けたいんは、俺でも光でもなかろ? …欲しいんは、誰。
 …痛めつけとうなか。…守りたか。やけん、…いつでも、こっちおいで」

 嫌いや。お前。そうやって。

 白石の視線が、親の仇を見るように千歳を見上げた。気付いて、財前が千歳から庇ったまま、白石の手を掴んで、その場を離れる。千歳から。
「…お前だけは、一生、…心の中にいれてやらん!」
「…よかよ。それでも」
 最後に振り返った千歳の顔は、優しく微笑んでいた。
 いつも、傷付いた顔しかしない千歳の、違う顔。優しい笑顔。

 すがりそうになる。だから嫌い。

 本当を言ったら、許して、抱きしめて、いつまでだって待ってくれそうな。
 いつまでだって、好きだと言ってくれそうな、千歳の声が、腕が、言葉が、心が嫌い。




 嫌い。すがりそうになる、自分が。





「光」
 自分の手を引く、財前の腕にしがみついた。すぐ、財前が優しく名前を呼んでくれる。
「帰ったら、抱いて。ぎゅってして。優しゅう呼んで」
「…はい」
 自分に騙されて、ひたすら自分に優しい後輩。
 騙されて、自分の心を絶対に覗かないで、傍にいてくれるから、好き。

 ごめんと、無性に謝りたくなる。

「……光」
「はい?」
「……だいすき」
「…俺も、愛してます」
 彼の声に滲む、愛しさの一部すら返せない。一生、返せない予感がしている。

 それでも、すがりたかった。
 怖かった。

 千歳にすがるのが、怖い。本当に、溺れそうで。
 財前を、傷付けるのが、いつか拒むのが、怖い。傷付けたくない。

 自分が招いてしまった。だから、最後に傷付くのは自分。



 それすら、許して微笑むだろう千歳が嫌いだった。

 傷付いても、自分を好きだと言うだろう、財前が怖かった。





 誰にも、覗かれたくなかった。











 2009/07/08