深い山荘。老いた夫婦はある日、月からの姫を授かった。
 それはとても美しい、輝く月のような姫君と、都でも噂になった。





奇譚


 



「ですから、会わせられません!」
「いや、そこで拒まれっと困ります」
 その山荘。老夫婦の前に座る青年は千歳千里という名で、帝の使いだった。
「それに、なにも今すぐ連れていこうとは言っとりません。
 ただ、帝からの文を直に渡して返事を受け取って来いと使わされました。
 姫のお姿を拝見しないことには、私が帝に顔向け出来ません」
「帝の使者だから会わせられんのです」
「…他の貴族の使者や貴族には会わせとったってこつですか?
 それなら、余計顔を見ないわけには行きません」
「千里殿!」
 立ち上がり、ずかずかと奥に踏みいった千歳に、老夫婦が慌てて後を追う。
 だが足の長さは長身の千歳の方が圧倒的に早く、追いつけないまま後ろから必死に制止をかける。
 渡殿を横切った時、傍の部屋から香を焚きしめる匂いがして、ここかと足を止め、千歳は声を張り上げた。
「姫。帝よりの使者で参りました。失礼いたします」

 戸を開けた先、狭い部屋の中で端近に座り、空を眺めている背中が目に入った。
 長い、綺麗な銀糸の髪。振り返った顔は青い瞳で、美しいという言葉に相違のない容貌に千歳は心を掴まれた気がした。
 が、立ち上がり千歳に向き直った姫の姿は茶の着物一枚で、小桂とまで行かなくとも女らしい柄の着物はないのかと思って、千歳は気付く。
 その胸元は、どう見ても真っ平らだ。
「……ですから、お止めしたのです!」
 やっと追いついてきた老夫婦が、疲れた様子で茫然となる千歳に肩を落とした。
「蔵ノ介は姫ではなく、男子(おのこ)です!
 髪の長さと顔立ちから村のものが姫と勘違いし、それが都に伝わっただけ。貴族の方々も男と知り、みな帰られました。
 ただ、帝の使者ともなれば関心を抱かれ、よからぬ扱いを受けるやもしれず…」
 姫ならば喜んで嫁がせた、と言う老夫婦と、一人意味のわからない顔で千歳を見たままの姫、もとい月の若君。
 千歳は、どうしよう、と思った。





「事情は理解いたしました。帝には私から、月の姫は既に月に帰られたとご報告いたします」
「そうしていただければ助かります」
「ただ、帝はあきらめの悪い方。私が都に帰ったあともこの屋敷に姫がいると知れば、また使者を寄越します。姫が男子と知れても、帝は姫を欲するでしょう。
 また、そうなれば公ではない側室にされ、飼い殺しとなるのは必至。
 …帝が諦めるまで、帝の疑いの向かぬ私の屋敷に保護した方がいいと思うのですが」
 千歳の言葉に、老夫婦も顔を見合わせ、頷く。
「確かに、そうなればこの爺と婆しかおらぬここでは蔵ノ介を守れません。
 頼みます。千里殿」
「はい。大事な姫…いえ、子息をお預かりいたします」




 そして千歳の屋敷に招いた蔵ノ介はまた、綺麗な美貌に声、髪に都の姫全てが嫉妬するような歌や琴、香の才能を持っていて、これは男の武芸を学ばせても全部上手くやれてしまうだろう、と千歳は確信した。
「蔵ノ介」
 蔵ノ介に与えた部屋は千歳の部屋の隣で、広く、端近に寄れば庭の桜が見える。
 蔵ノ介も気に入った様子だった。
「千里。帝はなんて?」
「今のとこは信じとうかね? ばってん、こっからが勝負かもしれん。
 俺の屋敷からも疑いの要素が出んようせんと」
「……そんなに?」
 何故自分がそんなに執着されるかわからない、という顔。
 その長い髪を軽く手で持って、自分の顔に近づけた。
「お前が、あんまりにも綺麗やけんね」
「……ふうん…千里は?」
 急に悪戯めいた顔で聞かれ、千歳は戸惑う。
 すぐ距離を詰めた蔵ノ介は、千歳の胸元に手を置いて顔を間近に寄せて微笑んだ。
「千里は、俺をどない思う?」
 いい、匂いがする。
 なにか、心を惹かれるような。それに、ひどく、
「…せ」
 瞬間、肩を掴まれ唇を塞がれてしまい、すぐ離されたものの蔵ノ介はぽかんとした顔で千歳を見上げた。
「あ、すまん…」
「……流石に、すぐ口付けされるとは思ってなかったわ」
「…すまんばい。俺もそぎゃんつもりじゃ…」
「ほな、どんなつもり?」
 また、からかうような笑みを浮かべ、千歳の胸に顔を寄せた蔵ノ介にわかっているのかと叫びたくなる。この自分の顔が、どれだけ綺麗で、どれだけ男を惑わせるのか、わかっていないのか。わかっていて遊んでいるのか。
「蔵ノ介…あんまりそぎゃん遊んどうなら、加減ばせんよ?」
 額を押さえて言ってみるが、顔がきっと真っ赤だ。迫力もない。
 だが、蔵ノ介は微笑み、「ええよ」と口にした。
「帝は会ったことないから気にいらん。千里は気に入った。
 千里なら、別にええかも」
「……〜〜〜〜〜〜〜っ」
 かも、ってなんだ。かもって。
「…後悔してもしらんよ…?」
 まるで「構わへんで」と言いそうな笑みが返る。それ以上は堪えず、抱きしめて口付けた。





「なして髪ば伸ばしとうや?」
 蔵ノ介は琴が上手い。
 寝る前、寝所で弾いてくれと頼むと笑顔で応えてくれた。
「え?」
「髪。短かなら、誰も誤解ばせんよ?」
 床に寝そべって問いかけると、蔵ノ介は微笑む。
「さあなぁ。面倒くさいからってのもあるけど、なんか切れへんかってん」
「……?」
「…呼ばれとる気がして」
「………」
 不安になった。急に。
 月からの姫。
 なら、いつか月に帰る?
「…千里」
 その心を読んだように、蔵ノ介は琴を弾く手を止めた。
「俺、近いうち月に帰るな」
「……え」
「いつか帰るんや。ただ、ずっと千里に迷惑かけてもしゃあない。
 やから…」
 最後まで聞きたくなかった。起きあがって、手を掴み、その場に押し倒す。
「千里?」
「……」
 なんて言ったら、いい。言葉なんか、浮かばない。
「…帰るな」
「…え」
 反論を許さず、口付け、着物を剥いだ。
 そのまま抱いた身体は、ひどく綺麗で、やはり月の物かと思う。
 それでも、離したくない。帰したくない。



「千里様!」
 衝動のままに抱いてしまい、疲れて眠る蔵ノ介の顔を眺めていた時だ。
 従者が戸の外であわただしく説明した。帝が姫がここにいると気付いた。今すぐ引き渡せと屋敷を囲んでいると。
「蔵ノ介!」
「……せ」
 怠そうに起きあがった彼に着物をまとわせ、従者に頼んだ。
「逃げるったい。俺の昔の知り合いの場所にそいつに連れていくよう言っておいた」
「…千里は?」
「俺まで逃げたら、蔵ノ介が危なか」
 自分を見上げ、呼ぼうとしたその唇を塞ぎ、耳元で囁いた。
「落ち着いたら、月に帰れ。…幸せに」
 茫然とした彼の顔を見れず、背中を向ける。
 足音が遠ざかる。これでいい。
 ああ、でも、


 本当は、手放したくなんか、ない。月に、帰したくなんか。





「姫! こちらです!」
 従者の先導でうまく屋敷の包囲から逃げられたが、胸に引っかかっているのは、なんだろう。
 月に帰る。それでいいのに。
 微笑む顔。抱く手が、呼ぶ声が、最後の、声が。


『愛しとう』


 ―――――――――――――忘れられない。

 ふと、惹かれて空を見上げる。そこには満月。
 帰れたはずなのに、なのに。
「ああ……そうか」
「姫…?」
「そういう、ことやな…」





 部屋に、倒れているのは使者と、ご丁寧に顔を見たがって来た、帝当人。
 蔵ノ介に教わっていた、月の香があってよかった。これは人の記憶を奪うらしい。
 なら、全員蔵ノ介を忘れている。最初から、そうすればよかった。

「…蔵…!」

 帰すんじゃ、なかった!
 帰さないで、ずっと。

「怪我なくてよかったわ。急いだ意味がないけどな」
 庭から端近に手を伸ばして、よじ登った身体がそう言った。びっくりして振り返ると、月に帰った筈の人。
「え! 蔵…?」
「全く…お前の所為で月に永遠に帰れんようなったわ」
「…え?」
「地上のもんと交わったら、帰れんらしい」
 言われて、頬が赤くなる。あれか。あの時、抱いたから。
「せやから、責任は果たせや。
 一生、傍で面倒見ろ」
 手を差し出して、偉そうに言う月の姫。
 けれど、顔の表情は安堵と優しさに緩んでいて、その中に自分への愛しさを見つけた気がした。堪らなくなってきつく抱きしめる。
「うん。一生、傍におるばい。一生…離さなか」
「返事、させぇや」
 伸び上がった蔵ノ介が、耳元で囁いた。
 お返しだと。




 俺も、愛してる。






 すっかり落ち着いた、ある日の昼。
 草原に横たわった隣、眠る、蔵ノ介の顔。
「……」
 本当に、綺麗だ。
 月に帰らなくてよかった。そう思い、眠るその手を取る。

 願わくば、どうかずっとこのままキミと。




 手を伸ばした時、触れられる場所に、ずっと。










 2009/04/19 THE END