キミにあげよう










 暑い中で、待っていた。

 そんなことすらわからなかったのだと、教える人がいなかったのだと。

 わかった途端、愛しさが溢れた。








「千歳!」
 定時に終わった仕事に、千歳がやれやれとコンビニの駐車場を出た途端、背後からかかった声。自信満々な響きのテノール。
 千歳はそれだけで疲れ果てた。嫌にもなった。
 しかたなく振り返ると、傍の高校の制服を着た高校生。
 白金の髪と翡翠の瞳の美人な男だ。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 振り返っただけで、また顔を背けて歩き出した―――――――――無視した千歳に、彼はあからさまにムッとして大股に近寄った。
 ぐいと千歳の腕を掴む。
「千歳」
 再度呼ばれる。しかたなく千歳が向けた視線に、彼は満足そうに微笑む。
「なんばい」
「泊めて」
「家、あっとやろ」
「電車がない」
「迎え呼べばよか」
 とりつく島もない千歳の返答に彼はむくれる。
 だが事実、呼べばどうとでもなる。
 彼が通う学校は名門であり、財閥の子息ばかり。つまり、そういう家柄の人間。
 迎えに来る使用人なんか、沢山いるはずだ。
「ほら、さっさと帰れ。お坊っちゃま?」
 手を乱暴に振り払って千歳は歩き出した。無視に限る。
「この俺が言うてんやで!?」
「そこがむかつく」
「……逆らったら、一生日の目見れんからな!」

 叫ぶだけ叫んで、踵を返したらしい彼の気配が消えて、千歳は息を吐いた。






 あれは、一ヶ月前。
 千歳は所謂売れない画家で、生活のためにコンビニでアルバイトをしている。
 年も三十を越えたし、周りは画家などやめて真っ当な職につけと怒る。
 だが、やめたくない。好きなのだ。

「いらっしゃいませ」

 そんな日々のある日、夜の時間帯にコンビニに来店したのは、近所の名門学校の学生らしい男。
 こんなコンビニに来るなんて珍しいと思った。近くに学校はいくつかあるが、コンビニに来るのは普通の公立の生徒。あそこの生徒はまず来ない。
 聞いた話、学校内にフランス料理の食堂があるという。羨ましい話だ。

 その見目のやたらいい学生は、しばらく店内をうろついたが、なにを買うわけでもない。
 冷やかしかと思ったが、どうやらそうではないようだ。
 弁当の置いてある棚を見遣って、しきりに首をひねっている。
 もしかして、食べたことがないものばかりで、どんな食べ物かわからなくて悩んでいるんだろうか。
 確かに、弁当コーナーでも飲み物でも、見て自分が大体こんな味とわからないものには、普通手を出せない。
 他の客はいないし、千歳はレジを出ると、学生のそばに立った。
 学生が気付いたが、彼は千歳の並はずれた巨躯にも怯えない。
「どげんもんが食べたかと?」
「……え、あ、おなかすいたから…おいしかったらなんでも」
 学生は若干気圧されながら素直に答えた。
「和風と洋風どっちがよか?」
「……和風」
 それならと、一番ポピュラーな唐揚げ弁当を棚から取って渡した。
「ここのはおいしかよ」
「……」
 学生はぽかんと、していたが渡された弁当を受け取ると、微笑んだ。
 綺麗に。

 不覚にも見とれる。






 だが、印象がよかったのは、はっきり言って最初だけ。

 彼はあれから、終始自分につきまとう。
 自分の傍に仕えろだとか、家に来いとか行かせろとか、しまいに画家生命を摘まれたいのかとか。
 嫌がらせだ。
 とにかく我が儘で嫌な人間。
 追い払いたいが、彼の家柄が邪魔をする。
 彼の家はあの学校の中でも有数の財閥で、それも日本の絵画に深く力を注いでいる。
 彼が本気になったら、本当に画家生命は終わるだろう。
 が、社交辞令でも優しく出来なかった。

 笑顔に、思い出すことが、あって。






「千歳」
 家のアトリエで絵を描いている時が一番安らぐ。
 が、最近ここも浸食された。
 我がモノ顔で来ている彼―――――白石は、招待したわけではない。教えてもいない。
 勝手に来て入ってきた。
 無視して描きたいが、気配だけでうるさい。
「千歳。なあ」
「……」
 千歳はため息を吐くと、椅子ごと背後にいる白石を振り返った。
「うるさい」
「……」
 白石はあからさまにむすっとする。
「うるさい、うざい、邪魔。失せろ」
「……………」
 珍しく彼は言い返さない。傷付いた顔をして、けれど決まり文句を言わなかった。
 画家生命潰すとは言わなかった。
「………それ、……もうちょい緑混ぜたら、ええんとちゃうんかって……だけ」
 ぼそぼそと、か細い声で言うだけ言うと、白石は座っていた椅子から立ち上がってさっさと出ていってしまった。扉の乾いた閉まる音。
 千歳はぽかんとした。固まった。

 今のは、アドバイスか?

 いや、ただの学生の彼になにがわかる。
 でも、彼の家は絵画に対して詳しい。
 跡継ぎだろう彼が、なにも学んでいないとも思えない。
 実際、千歳は海の部分の色合いが出せなくて悩んでいた。
 半信半疑で彼のアドバイスに従ってみる。







 ―――――――――――――画家なんて、もうからん。

 そう言ったのは、親族だ。
 家族はもう諦めている。
 言われ馴れて、疲れて、一人で暮らすようになった。

 あれは、まだ実家にいたころ、大学生の時、大学のコンクールで小さな賞をとった。
 たいした賞じゃなくて、身内以外褒めなかった絵。
 オープンキャンパスの時期で、大学に見に来ていた一般人も多い。
 みんなが見るのは、いつも一番いい賞の絵で、自分の絵じゃない。
 なのに、気付くと自分の絵の前でじっと動かない幼い子供がいた。
 親とはぐれて、ただそこにいるだけか?

 不意にその子供が言った声が聞こえた。

『キレー…』

 たったその一言。
 けれど、その子は間違いなく自分の絵を見て言った。
 優しい声だった。


 それだけでなんて、大袈裟だけど、支えになっていた。ずっと。






 日が暮れると、部屋は暗くなる。
 日中は電気代がかかるから、小さな明かりしかつけていない。
 彼が帰ってもう、四時間。
 絵は、彼が言った通りの色合いで完成した。彼の言うとおりにしたら、うまくいった。
 あれは、嫌味でも我が儘でもなかった。

 普段から、ああなら、自分だって。

 今更ながらにひどいことを言った。
 後悔したが、家に行って謝れるはずがない。
 空気を吸いにいこうと、部屋を出て、千歳は驚いた。
 家の扉の前、しゃがみ込んで、そこでぼーっとした彼の姿。
「……しらいし?」
 千歳が呼ぶと、白石は顔を上げて、千歳を見上げて笑った。最初みたいに。
「帰る。終わったみたいやし」
「え」
 そう言うなり立ち上がって、歩き出した白石の手を咄嗟に掴んだ。
 そんな、わざわざ心配して居てくれた様子なのに、気にしていた様子なのに。
 そんな風に帰るって。
 掴んだ途端、彼の身体がよろけた。千歳の腕の中に倒れ込む。
「……って、ちょ、こっち来なっせ!」

 今更に気付く。今は夏だ。
 暑いところに、水分補給もせずにいたら、倒れる。


 暑い中で、待っていた。

 そんなことをしたら、倒れるんだと。

 そんなことすらわからなかったのだと、教える人がいなかったのだと。

 わかった途端、愛しさが溢れた。


 寝台に寝かせて、冷蔵庫から水を取り出すと、彼の傍に立って、背中を抱いて起きあがらせた。
「飲めっと?」
「……ん」
 おとなしく頷いて、白石は水を飲み込む。
 少し飲んで、口を離すと白石は俯いた。か細く、謝った。
「別に…」
「……『千歳』やてわかって、…近づきたかった」
「…え?」
「…俺が子供の時、見た絵が綺麗で」
 白石は思いだしたのか、優しい顔をした。
「その人やてわかったから……ごめん。もう、顔見せへん」



 あの時、『キレー』と言ってくれた子供の髪は、同じ白金だった。
 同じ、翡翠の瞳だったと、今頃気付く。



 あの子は今頃、高校生くらいだ。





 千歳は白石を抱きしめると、何度も髪を撫でる。白石が戸惑って、腕の中から名前を呼んだ。声は、ひどくか細い。
「お前がおらんなら、俺、絵を描く理由がなかよ」
「……え」
「…ここにおったらよか」
 今までの我が儘も、気を引くためなら、わかる。
 微笑むと、白石は初めて見る自分の笑顔に真っ赤になった。







「千歳! 一緒に住んでええ?」
 ある日、彼は唐突に訪れて唐突に言った。
 またなんの我が儘だと思って、千歳は笑うと白石を抱きしめる。
「別によかけん、家は?」
「家出」
「……?」
「見合いしろて言われたから」
 わかるよな?と見上げてくる視線に、わからない馬鹿ではない。
「俺と一緒やといろいろ苦労すったい。そいでよかなら、もらっちゃる」
「…うん」
 彼は自分の最初のファンだと言う。
 好きだと笑う。
 嫌いだった我が儘が今は愛しい。



 手を繋いで、こっちおいでと囁いた。
 自分の傍で、絵を見て微笑む彼と、ずっと一緒にいたいと思った。






 その手が掴むものを、全部あげよう。

 俺が与えられるなら。









 2009/07/16