「嘘やろ」









 白石は、完璧な部長だった。
 二年の春。先代の部長が続けられなくなった折り、顧問の渡邊は新二年生の白石を指名した。
 白石は、先輩がいると戸惑ったが、渡邊は譲らなかった。
 先輩である三年も特に異論はなく、それで決まってしまった。
 白石は完璧に嘘が吐かないほど、義務をこなしたし、最強であることを疎かにしなかった。
 彼は、理想の部長だった。



「え? 嘘やろ?」
 部活の終わり、部室で着替えていた謙也が手を止めて、思わず隣の財前を伺った。
「や、ほんまのことらしいっスわ」
「…嘘やろ」
 謙也は繰り返した。
「なんの話?」
 着替え終わった千歳が会話に加わった。
「あ、千歳。千歳も嘘や思うやんな?」
「…?」
「光が、白石が二年の時に退部届け出したことがある言うんや」
 謙也のまだ嘘やと言いたげな言葉に、千歳も耳を疑った。
 千歳も白石が二年の春から部長職を担っていることは知っている。
 その立場の人間が、退部届け。
「……嘘とやろ?」
 結局、千歳も同じことを言った。
「や、詳しーく知らないっスけど、当時の副部長だった三年の先輩に止められたとかって」
 そこで扉が再度開かれる。白石だ。彼は最後まで部員の練習を見てやっているので部室に来るのが一番遅い。
「どないしたん?」
 いぶかって謙也たちの傍を通り過ぎながら、自分のロッカーに手をかけて白石は聞いた。
 まさか、自分の話題だなどと思ってもいない顔。
 その、意識していない時酷く幼く見える時のある彼の無防備に千歳と謙也はそんなことを問えない。

 部活をやめようとしたのか、なんて。

「部長が、一回退部届け出したって話です」
 はっきり言ってしまったのは二年の後輩だった。
 謙也は財前とダブルスで固定して長いが、彼のこんな時のやり方についていけなくなる。
 聞き方なんか、他にもあるだろうに。
「ああ…あのときの」
 意外にも白石は普通に受け答えた。
 それがなんだ、という言葉。
「意外で。なんやあったんですか?」
「んー…」
 白石が少し迷って、口を開きかけた時、部室の扉がまた開いて顔を出したのは顧問だった。
「おう白石、ちょっといいか?」
「あ、センセ。はい。すまん財前また今度」
 笑みさえ作って白石は渡邊の呼ぶ方へ行ってしまった。
「……光、お前ちょっと無神経過ぎや」
 白石が去って、謙也は自分たちで張りつめさせてしまった空気を弛緩させるように呻いた(白石はそう感じただろうか)。
「けど、深刻やない話やってことはわかったでしょ?」
「そうなんか?」
「深刻やったら部長、“また今度”なんて次を示唆しません」
 財前は、白石の踏み込まれたくないプライベートを守る頑なさを知っている。
 確かに、その話題がそれに触れることなら白石はまた、などと言わなかった筈。
 それから他愛ない話にまでなって、着替えを終えて謙也たちは帰った。
 今日は金太郎が早退したため、静かだ。
 今日は白石を待たなかった。
 普段は待って、自主練をするか否かを聞いて、応なら帰る。否なら一緒に帰る。
 そういう了解だった。




 あの日、白石を待たなかったのは、謙也がそう言い張ったからだ。
 今日は早く帰りたい。そう言った。
(けど、謙也…)
 謙也は、本当は白石を待ちたくなかったのではない。
 謙也は、どんなに軽い理由であれ、白石が一度全国を捨てかけた真相を知りたくなかったのだ。
 だから、白石の帰りを待てばすぐその日にでも真相を知りそうな空気から逃げた。
(いつかは知るこったいよ…?)
「千歳ー」
 教室の外から、その当事者が呼んだ。
「白石」
「ちょお、いいか?」
 彼は笑顔で千歳を招いた。
 案内されたのは理科室だった。
 今日は使うクラスがないのだという。
「なんね?」
「ん? 千歳かなぁ…と思うとったんやけど」
「?」
「俺が二年時」
 それでわかった。白石は自分が辞めようとした真相を話そうとしている。
「……気には、なっちょった」
 白石は、酷く部活に真摯だ。
 辞めようとしたなんて、似合わない。似合わないとかではないが、そうだろう。
 そんな、軽い気持ちで部長をやる人間ではない筈だと、思っている。
「……あれな、………、…………………俺がやめな、あかんことになる思うたからやねん」
 白石は、言い出すまでにしばらく迷った。
 迷って、言った。
「いかんこと?」
「まあ、俺が…暴力沙汰起こしたっちゅーか…。部長が暴力沙汰なんてまずいやん。
 すぐ辞めれば部活に影響ないやろ?」
「それほんなこつ?」
「ほんま。まあ、仕掛けたん向こうやし、最後まで逃げとって、ほんまは俺一切手出ししとらん。やけど、その諍いを目撃しとった数人の生徒に向こうが、翌日多分なんかの他の喧嘩で作ってきた怪我を俺にやられた言うてな。騒ぎになって、よく言うやん。上擦った否定は肯定に似るて」
 で、まあ辞めようとしたんや。と白石。
「したら副部長やった先輩に殴られた」
 くすくす、と白石は殴られたことを話す顔ではないくすぐったい顔で笑った。
「“堂々としとれ”って。“白石はなんも悪いことしてへん”って。
“もうちょい自分の価値を思え”って怒られた」
 それからや。
「それまでは、二年部長なんかいつ辞めてもええんやないかってくらいの気持ちが、多分どっかにあったん。もちろん、全国を手を抜いて目指しとったことは一度もないし、真剣やった思う。けど、どっかになんかあったら“自分が辞めればええ”って自分をわかっとらん意識があったんやと思う。
 けど、その先輩にもうちょっと自分が与える価値を思えって怒られて、俺やから、俺が部長やから出来ることがあるて、俺やないとあかんことがここにはあるんやってわかった。
 自分を軽んじるのはよそう、って」
 気付いたきっかけやな、それはと白石は締めた。
 白石は、完璧な部長だ。とても善い部長だ。他人の好悪をちゃんと受け止める、誠実がある。
 それがそのきっかけで得たものだと言う。
 千歳は納得しながら、違うとも思った。
 それは唯、白石の純粋な性格だろうと。
 そのきっかけが、それが白石に与えたものは、むしろ言い訳ではないか。
 白石が、自分自身を思いやってもよいと思う言い訳。
 白石は、自分を軽んじる。
 部活で軽んじることはない。それがそのきっかけが与えた言い訳なのだ。
 素の生活で、あっさり自分を軽んじる白石を、千歳は痛いと思う。
 ああ、きっかけなら、何故彼の全てを思いやる言い訳にしてくれなかった。そうすらその先輩に思った。
「……嘘たい」
 呟く。
 気付かない白石は、ん?と笑う。
「…嘘とやろ」
 繰り返しても彼は気付かない。
 言い訳であることにすら。
 無性に抱きしめてやりたくなって、やめた。
 骨が軋むほど抱きしめても、彼は痛いと言うだけで千歳を突っぱねない。
 今は、その痛みを享受することすら彼の自らへの軽んじる姿勢だと思えた。
 自分を思いやらない。他人を思いやる心にだけ特化した彼の心。
 何故、それすら治してくれなかったのだ。
 白石が自分を軽んじているとわかっていたなら。

 先輩、何故あんたは全てを治してくれなかった。

 名前も顔も知らない先輩に、唯そう思った。










==========================================================================================

 NEXT→「助けてや」