「助けてや」










 白石は、自分を軽んじる。
 そう再認識したのは、つい最近だ。
 あの話を、後日財前たちにすると謙也はわからない顔をしたが財前は全く持って同意見だと頷いた。



「あれ、ユズルは」
 自宅に帰って、財前は真っ先に甥の声がしないことをいぶかしんだ。
 今年三つになる財前の甥――――――――――兄の息子は帰宅した財前に真っ先に飛びかかってくる。好かれているんや、と兄。
「寝とる」
 兄が簡潔に答えた。
「そっか」
 財前も簡潔に答えて、自室にあがった。
 甥であるユズルが赤子の頃は夜泣きに悩まされもしたが、成長すると矢張り肉親は可愛いものだ。財前はそれなりに甥を可愛がっている。兄に、意外やと言われて義姉は笑った。
「兄貴」
 夕食のために居間に降りてきて、一足早くテーブルに座っている兄を見た。
「ん?」
「…………自分を思いやらない人間って、どない環境で育つもんなん?」
 矢張り唐突すぎた。兄はきょとん、としている。
「…あ、や、わかれへんならええ」
 気まずさをなくそうと隣に座った弟を、兄は見遣ってそやなぁと呟く。
「取り敢えず、他人を思いやることばっかりに特化してもうた人間や…と思う」
「…特化」
 そのまま白石のことではないか。
「なんちゅーか、他人を思いやることばっかりが当たり前の環境で育ってしもた人間…かな。自分を思いやる理由を考えられなかった人間っちゅうか。
 自分は思いやらないでええんや、って悟ったらアウトやな」
「詳しいな」
「友達に一人おったんや、そういう奴。そいつ、母親がキッチンドリンカーやってん。
 で、母親を思いやることに必死になっとったら、自分がわからんようなってん。
 恋人出来てわかるようなったらしいけど…光の傍にもおるんか?」
「………母親がそうやとは聞いたことあらへん」
 兄はそうかとだけ言った。
 追求しない兄弟がありがたい。
 他人を思いやることは当たり前で、悪いことではないと兄は言った。
 だがそれが過ぎると、悪いこともある、と。
 それが過ぎてしまったのだろうか、白石は。
 白石の家族は普通だ。子供思いの母親に父親。姉に妹。
 兄の例えのような環境ではない。
 わからなくなって、財前は夕食を済ますと自室に帰った。
 その流れで白石に電話していた。
 当たり障りのないことを話して、今どこにいると最後に聞いた。
 彼の携帯の向こうのノイズは、雨音と車の走行音。

『ん? ……ロフトの傍の駐車場?』





 買い物の途中なのだろうか。そう思いながら、傘を持って家を出ていた。
 家族には白石のところに行くと説明した。
 白石は信用されている。自分の家族にも。
 それであっさり許可された。
 店の傍まで来て、駐車場を覗く。
 人の姿はない。
(…帰った?)
 自分は、今から行くとは言っていないのだから、仕方ない。
 無事帰ったならいい、と踵を返そうとして、目の端を掠めた白い傘に心臓を射抜かれた。
 ころり、と駐車場を転がっていく、白い傘。
 あれは、白石の傘だ。
 弾かれたように、駐車場の中に飛び込んで、すぐには言葉に出来なかった。

 駐車場の隅。
 捨て猫を抱えて、茫然と空を仰ぐ、びしょぬれの翡翠の瞳。

「…部長…!」

 彼が彼自身を思いやらないことを、これほど歯痒く思ったことはなかった。
 駆け寄って腕を強く引く。
「…財前」
「部長、あんたなにしてんねん!」
「………、頭、冷やしとった」
「風邪引くわ!」
「……………」
 白石は酷く冷えた身体で、それでも帰りたくないとは言わなかった。
 帰りたくないから、こんな場所にいたに違いないのに。
「……俺のうち来てください」
「…ええ、帰るから」
「ええから来い!」
 強く、敬語も取っ払って言うと、白石は仕方ないと笑った。
 その笑みが、正視し難かった。





 財前の家にあがって、おとなしく風呂を浴びた彼は、服を貸してくれた財前の兄に申し訳なさそうに礼を言っていたが、兄はいいと笑って弟の部屋に布団を一式運んでくれた。
 泊まっていきなさいという大人の意見に、白石は従った。
 時計は、もう夜の九時半。
「なんや、あったんですよね」
 まだ髪も乾いていないのに布団に潜り込んだ白石に、財前は断定して聞いた。
「なんも」
「嘘やろ」
「………………」
 白石は、迷って、寂しそうに頭をシーツの中に隠した。
「答えへんなら、千歳先輩呼びますよ」
 ある意味最高の脅しだった。
 白石は案の定それで折れたらしい。顔を出さないまま、ぽつりと話し出した。

 大事にされすぎるのが、辛いと。

 白石は、白石家の中では両親が待ち望んだ唯一の男の子供だという。
 跡継ぎの必要な家庭ではなかったが、再婚同士の両親はひたすらに男の子を欲しがったそうだ。
 前の家庭では子供にお互い恵まれず、だからこそ生まれてきた息子を過剰に愛したらしい。
 溺愛と言っていい愛情に、甘えられる子供では、白石はなかった。
 逆に贔屓されることが姉や妹に申し訳なかった。
 彼らの子供という立場で、姉と妹と自分は平等でなくてはならない。
 なのに、両親は唯自分を過剰に愛する。
 自分が可哀相だからではなく、差別ではなく、ただ当たり前に。
 やがて、こう思ってしまったという。

 彼らが大事にする分、自分は自分を大事にしなくていい。

 両親が愛する部分を自分まで大事にすると、それは傲慢だから必要ない。
 両親が思いやるから、自分は自分をもっと軽く見ていいのだ。

 それが、白石の他人を思いやることに特化した心の正体だった。
 他人に思いやられた分、自分は他人を思いやらなければならない。
 白石は、そうやって生きている。
 今日も、大会が近いからと言ったら部活は何時までやるの?と聞かれ、答えたらじゃあしばらく仕事は早めにするわと言われた。
 姉の誕生日が近いのにいいのかと言った。いいのよ、あの子成人してるものと。
 だからって、軽んじていいわけじゃないと思ったと。姉はなにも言わず、弟の責任ではないと責めなかったが、ただ痛くて家にいられなかったという。
「…ほんまは、話したくなかってん。…家庭の事情を他人に言うやなんて、それで苦労わかってもらおなんて…苦労なんやしてへんし。…イヤやねん」
「………ほんまは、誰も悪うない言いたいですか?」
「…そやろ? 親も、姉妹もどこも悪うあらへん」
「…それはそうでしょうけど……なら部長が痛がってる気持ちは、どこにぶつけたらええんですか」
「………ぶつけ場所なんか、いらへん」
「千歳先輩は」
 兄は、兄の友人は恋人が出来てわかるようになったという。
 白石には、千歳がいるじゃないか。
「………………財前」
 はぐらかすように、呼ばれた。
 はぐらかされない、と意志を込めた財前を見上げて、白石は泣きそうに微笑んだ。


「助けてや」










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