半分の後悔










 こんなはずじゃなかった。


 大嫌いなんだ。



 だから、笑わないで。







「確認お願いします」
「ん」
 同じ部署の、所謂上司と部下。
 千歳千里と、俺の関係はそれ以外にない。
「あ、」
「なんですか?」
 まさか自分に限って、ミスはない。
「白石、このあと暇と?」
「今は仕事中です」
 えー、と情けない顔をする千歳。
 殴ってやりたいが、上司だ。






「なんか話しかけられる?」
 その日の昼。ベンチで昼食を取る時は、大抵違う部署の友人と一緒だ。
 違う部署の友人である小石川は「って、千歳さんやろ?」とストローをくわえながら言う。手元にカフェオレのパック。
「そうや。年中あれこれ、しまいには『彼女おる?』とか!
 なんやねんあの人!」
「…てか、あの人、軽口叩くんや」
「は?」
 小石川は意外そうな顔をしている。せやから、と言った。
「あの人、軽口叩ける人なんや?て」
「てか冗談?…どういう意味や?」
「…俺、一ヶ月前まで同じ部署やったんやけど……、全然話さんかったで?
 仕事の話でも『わかった』『うん』くらいで。
 せやから随分愛想ないなーて思っとった。
 …そない話すんや」
「……」
 小石川に限って嘘は吐かない。冗談は言うが話題は選ぶ。
「え? せやったらなんで?」
「気に入られたとか」
「そんなんいらん」
「…でも、実際、そんなこと言っとれんやろし…」
 小石川の言葉にう、と言葉が詰まる。そうだ。ここは会社。
 学校以上の縦社会。上司には逆らえない。
 背後から靴音が近づいた。「白石」と呼ぶ声はあの上司。
「千歳さん…」
 小石川が呼ぶ。背後にはやはり千歳。
「一緒に食べてよか?」
「はい、俺は構いませんが」
 そこで自分を伺う小石川に、軽い殺意が芽生えた。
「俺も構いません」
 しかたなくそう答えると、千歳は嬉しそうに笑って、隣に腰を下ろした。
「…あ」
 そこで、小石川の携帯が音を鳴らす。
「すみません、俺ちょお席外します」
「え!?」
 あからさまに拒否の声を上げてしまった白石が、は、と背後の千歳を思い出して口をつぐむ。
「ああ、どうぞ」
 千歳はあっさり手をひらひらと振る。小石川は白石に「上司からなんやほんまごめん」と謝って、その場を後にした。
 恨む、小石川を。というかあいつの上司を。
「白石、」
「はい?」
 千歳に呼ばれて、しかたなく背後を振り返った。
 千歳は柔らかい笑顔を浮かべている。
「あれ、仲良か人?」
「え…」
 小石川のことか。
「はい。同じ学校やったし」
「どこの部署の人と?」
「え」
 答えそうになって、白石は固まった。小石川は前に同じ部署だったと言った。
 小石川はずっと部署が変わっていない。
 ということは、
「…あいつの名前、覚えとらんのですか?」
「……? 今が初対面じゃなか?」
 白石は絶句した。

 こいつ、覚えとらん。

 小石川は多分、仕事も早いほうだし、頼られる人物だ。
 今の仕事場でも、彼の先輩たちは彼をそう言う。
 よく飲み会にも誘われるらしい。付き合いもいい。
 記憶していないなら、「記憶する気が最初からない」だ。

「……」
 呆れた。と声に出さず思って、白石はパックの牛乳にストローを刺す。
「白石」
「はい?」
 今度はどんな侮辱だと身構えた白石に、千歳はにっこり笑って聞いた。
「彼女ばおる?」
「…おりませんけど」
 まだマシな攻撃かと判断して、白石はストローを刺した牛乳を手に持ったまま膝に置く。上司が話しかけている最中に飲み物を飲んだら、流石に失礼だ。
「なら、俺と契約ばせん?」
「………」
 はい?とすら言えなかった。意味がわからない。
「俺、次の人事異動で出世が決まっとってな」
 しかも勝手に話進めるし。
「で、自分の後任を選べって言われとう。そん中に白石の名前もあるよ」
 千歳の含みのある笑みに、おぼろげに理解する。
「…出世したいなら、あなたに加担しろ、と?」
「そんな感じやね」
 あっさり認めた千歳に、白石は内心考えた。内心、溜息も吐いた。
 正直、出世したい気持ちは相応にある。それに、次に千歳のポストに来たヤツが、千歳以上のろくでなしだったらその後しばらく地獄だ。
 しょうがない。
「…わかりました。契約しましょう」
「ん、よか返事ばい」
「で、なにしたらええんです?」
 足を軽く揺らして問いかけると、千歳は「彼女ばおらんね」と再度聞いた。
「はい」
「俺と付き合うて」
「……はい?」
 意味がわからなかった。本気で。白石の表情はぱっと見、変化がない。冷静な顔だ。
 が、内心は半分混乱している。
「俺と恋人契約ばして」
「……はぁ!?」
 思わず大きな声をあげてしまってから、白石は口元を自分の手で塞ぐ。自分たち以外に誰もいなくてよかった。
「もちろん、身体までとは言わんばい。普通にデートして、休日会って、くらいかね。
 寝てくれまで言わん。やから、恋人ごっこ」
「……それ、あなたにメリットあるんですか?」
「もちろん。損を自分からする人間に見えっとや?」
「全然」
 千歳はやろ?と明るく笑う。うっかり頷いたら、約束をあっさり破って押し倒される可能性も皆無ではないが、しかたない。頷いてしまった。
「…わかりました」
「おお、白石、いさぎよかね」
「…馬鹿にしてますか」
「まさか」
 千歳はベンチから立ち上がると手を自分に差し出した。
「よろしくな」
「……はぁ」
 しかたなく、重ねた手。大きかった。




 後悔した。重ねてしまったことを。
 指を、体温を。約束を。






 千歳は本当に約束を守った。
 デートも、あからさまじゃなく、普通の友人同士みたいなお出かけ。
 休日、たまに彼の家に行くだけ。手を出したりしない。

 彼の家は、殺風景な部屋だった。値段だけ高いマンション。
 部屋だけが広い。

「んー、よか匂いばい」
「ただのオムライスです」
 持参したエプロンを着て、フライパンを馴れた手つきで返す。
 千歳はあからさまな恋人扱いは避けるらしく、背後から抱きつくこともない。
 側に立って、にこにこ笑う顔は、本気で『遊びに来てくれた恋人に喜ぶ』顔。
 わからない。
「…これ、ほんまあんた得するの?」
 つい聞いてしまうと、一瞬千歳から笑顔が消えた。地雷を踏んだことを覚悟したが、千歳はすぐいつものように笑って、白石の身体を抱きしめた。千歳の指が、コンロの火を消す。
「……すみません」
「謝る必要なかよ」
「……」
 すまなそうな顔をする自分を、覗き込んで、千歳は何度も白石の髪を撫でた。
 優しい手。
「…白石」
 呼ばれて、顔を上げる。
 唇が重なった。キスだ。初めてされた。
 最初は、キスくらいは覚悟した。けど千歳はしなかった。
 拒みそうになることを、嫌悪することを覚悟した。
 なのに、
「……白石?」
 今にも泣きそうな顔をする自分を、千歳は不思議そうに見たあと、労るようにまた抱きしめた。
 慈しむように。



 覚悟した。男同士なんか趣味じゃない。
 なのに、嫌じゃなかったキス。
 知りたくない答え。

 聞きたくない、あなたの本心。







 ある日の休み。
 買い物に出た時だ。最寄り駅まで行く途中の、住宅街の道。
 でかいマンションが多い。
 日差しが差さない。

 一本向こうの道路に、見慣れた長身を見つけた。

 千歳だ。彼の家はこのあたりじゃないのに。
 信号を渡って、そちらの道に出る。足は止まってしまう。
 千歳の隣に立つ、背中を向けた姿。
 背の高い女性。
 笑い会う声が、少しだけ聞こえる。




 聞きたくない、本心なんか。


 恋人『ごっこ』だから。
 彼女はいる? 好きな人はいる? 俺は、


 遊び?って。



 聞くのが、いつの間にかこんなに、怖くなって。





 手を取ったことを後悔する。
 手の柔らかさを、体温を、笑顔を、知らないままなら。
 こんなに、


 頬を撫でる風は暖かくて、冷たい風ならまだマシなのに。
 ぬるくて、逆に痛い。

 頬を涙が伝って、それが嫌で俯いた。早く、早くいなくなれ。
 もう嫌だ。見たくない。
 明日、契約をやめてもらおう。
 こんなに、好きになって、もう側にいられない。
 だから、やめてもらう。

 最初から、夢なんか見ない。


「………け」


 見ない。はずの夢を、見ている。


「こっち向け…」


 手を握りしめて、叫んだ声はきっと、あまりに小さくて。
 届かない。


「側に来い…!」





 優しい、暖かい手。優しい声。優しい笑顔。
 知りたくない。もう、見たくない。
 なのに、本当は側にいたくて。見たくて、触れたくて。
 自分のモノにしたい。

 優しい手が、頬に触れて上向かせた。

「なんで……」

 いるんだろう。ここに。彼女は、どうした。
 優しく笑う顔が、白石の顔に近づいて、涙を舐める。
 そのまま、引き寄せられて抱きしめられた。
「……離してください」
「嫌ばい」
「我が儘言うからやめて」
「言うてほしか」
「…」
 暖かい腕の中、喉から嗚咽が漏れる。
「…もう、嫌や」
「なんが?」
「ごっこは嫌や。本物がええ。ほんまの恋人がええ。
 …あなたを、独り占めしたい……」
 大きな手が、後ろ頭を撫でて、頬に当たる。そっと上向かされる。
 真剣な瞳と視線があう。すぐキスが落ちる。

 千歳は自分を抱きしめて言った。低く、強く。



「最初から、ごっこじゃなかよ。俺は」




 好きだから、所有したかった。
 つかの間の夢でいい。
 だから、もちかけた契約。
 なのに、どんどん欲深くなって、離せなくなった。
 抱きしめたら、キスしたくなった。

 抱いたりしてしまったら、絶対離せなくなるとわかっていた。



「俺は馬鹿やけん、抱いたあと、お前が離れようとしたら、きっと縛り付けて監禁して…自分に束縛する」
 千歳の家のベッドルーム。寝台に座った自分の前、立った千歳が泣いたあとの頬を撫でる。あの彼女は、妹だと話す。
「…それでもよか? もう、堪えられん」
 そう言う千歳は、あまりに必死な顔で。泣きそうにすら見えた。
 胸が暖かくなる。嬉しくなる。
 白石は手を伸ばして、首に抱きついた。
「……かまわへん」
 すぐ、寝台に押し倒された。嵐のようなキスが落ちる。
 服を剥ぐ手にも、余裕がなくて。
 それが、泣きたいほど嬉しかった。




 手を取ったことを後悔し続けた。
 今、やっと、感謝したのだと思う。







「白石」
 確認した書類を手渡され、白石は受け取って「問題在りませんでしたか?」と聞いた。
「ん。なか。相変わらず出来よかね」
「そうですか。有り難うございます」
 礼をして、自分の席に戻る。そこで、書類の中身を確認する。
 間に挟まれた白紙はすぐ見つけた。
 そこに走り書きの誘い。


『明日、映画行こう』


 それを見て、ひっそり笑った。
 もう、苦しくない。
 いつか、また、苦しさに襲われるとしても。


 今は、傍にいたいと思った。




 重ねた手を、指を絡めていたい。



 もう、同じ後悔は来ない。









 2009/07/06