誰かが泣いた その声はどこ そっとそっと覗いてご覧よ 青い月影 一木の? おやすみ良い子は眠れ 蜩の鳴く中で
「謙也に、無理矢理抱かれた…、って聞いたと」 部室で、今、千歳と白石以外いない。 部活終了時刻から、一時間は経った。 言うと、白石は一瞬挙動を止めただけだった。 「忍足のおしゃべり…」 「そんなけ?」 「だけやろ」 「…」 「千歳?」 いぶかしんで見上げた白石の肩を掴むと、強くロッカーに押さえつけた。 「…千歳?」 「なら、俺もやったら、どげんこつなるか、知りとうね?」 「…ち」 呼びかけた声が凍る。 千歳は白石の両腕を掴むと、余っていたグリップテープで手早く頭の上で縛り上げた。 「千歳!?」 「ま、流石にナらすくらいはやっちゃるよ」 「や、…」 「嫌や!」 ロッカーが背後で鳴る音も、ほとんど耳に入らない。 下肢から漏れる濡れた音が、耳についてそれすら刺激で。 「…あ…っ…ぁ…ぅ…や…!」 「もう一本は、入るとね」 「や…嫌…! 嫌…千歳! やめ…っ」 「嫌と、は俺の台詞たい」 「嫌…っ! 嫌や! や…!」 三本目の指がそこに入り込んで悲鳴があがった。 「やぁ…っ!!!」 「もうよかかな」 「…っ」 指が引き抜かれる。 次になにをされるかなんて、分かり切っていて。 「……や…」 「ちくっと、我慢しなっせ。白石…」 自身のベルトを緩めて、前をくつろげた姿に恐怖で喉が鳴る。 「や…嫌……」 「大丈夫、痛かは一瞬だけん…」 額に張り付いた髪にキスをした千歳が両足を抱え上げて、宛われた熱い感触に涙が溢れた。 「嫌…っ! 嫌や…っいや…っ…や…!」 「暴れんといて」 「や…」 「嫌や…謙也!!!」 思わず口を裂いたのは、二度と呼ばないと誓った名前。 しかし、それで千歳は動きをとめた。 「…なんね、呼べるやなかか」 「…と…?」 「呼べなかなら、ほんなこつ最後までしとうけど…。 呼べたんなら、もうよかね」 抱えられていた身体を床に降ろされて、衣服を整えた千歳が前に屈んで、白石の両腕を拘束するテープを取った。 未だ震えている小柄な身体にジャージの上着をかぶせてやって、“ほら”と言う。 「結局、白石は謙也やなかいかん。俺じゃいかんし、他のヤツなんば無理たい。 …思わず、助け求めるくらいには、…やっぱり、謙也んこと好いとうだろ?」 涙の伝う頬を両手で包まれて、聞かれても言葉がない。 「…いつ、俺みたいに途中で止められるヤツやなく、本気で最後まで犯すヤツに会うかわからんね。そんとき、謙也の傍におらんと、謙也の名前呼んでも遅か。 はよ、気付かんね」 「…ち、とせ……」 「……」 小さく呼んだ細い身体を抱きしめて、額にキスをすると、千歳は初めてのように優しく微笑んだ。 「……怖かことして…ごめんな」 「…ち」 「謙也呼ぶたい。一回くらいは、殴られんは覚悟しとうから」 「…とせ…わ、ざと…?」 「…」 千歳は寂しそうに笑った。 「流石に、…白石を抱きたい気持ちが全くなかったら、出来なか」 それだけ言って、部室を後にする。 扉がぱたんと閉まっても、白石はそこから動けなかった。 “お前が、世界で一番、大嫌いや―――――――――――――” あの声が、ずっと耳で鳴っている。 もう、取り戻す手がかりさえ、見えない、あの笑顔。 “謙也” あの、声。 携帯が音を鳴らした。 緩慢に取ると、特有の訛が響いた。 『あ、謙也? まだ学校おるとだろ? 部室来れんね』 「…なんでや」 『や、白石が泣いとうし…』 続いた言葉に、机を倒して立ち上がっていた。 『…流石に、無理矢理ヤられるんは、怖かね。 謙也相手ですら泣いたんだろ?』 「…誰、や」 『あー、俺』 携帯を床に投げつけて、教室を後にしていた。 「あ、ほんなこつはやかね、謙也」 すぐ部室前まで走ってきた姿に手を振って笑うと、胸ぐらを掴まれたと理解する間もなく拳を振るわれた。 あっさり、掴むことで遮る。 「お前…!!」 「謙也…、確かに俺ば“最後まで”白石んこと犯したと…。 だけん、謙也も同罪だろ」 「…千歳…」 「最後まで、拒否するん無視してヤったは、謙也も同罪たいね」 低く言われた瞬間、謙也の身体は強く壁に叩き付けられていた。 衝撃で息が止まる。 その間に壁に両手で押さえつけられて、動きを封じられて見下ろされた。 「…謙也、…“好き”だったら、“付き合って”たら…そげんこつ、…なにしとうても許される、…なんて考えは傲慢たいよ」 「…ち」 「相手思いやらん好きは、ただの暴力たい。 …俺も、そうやけんね」 「…俺は…!」 「好きやから、…白石が受け入れてくれる思うたと?」 「ふざけんな」 標準語か、関西弁か不明な、千歳らしからぬ言葉で罵倒されて、思考が止まった。 「白石、…俺に犯されとう間、…“謙也”て、お前んこつ呼んで泣いてた…。 “忍足”やなか、“謙也”て…。 そげん風に、思われといて…、謙也、何様と? 好きなことして、許されてるだけの関係なんば、…ただの主人と奴隷だろ。 謙也、…白石をそげん風に思ってなかね?」 「そんなわけ…!」 「なら…、優しくしろ。泣かせるな。一人にするな。 …白石んこつ、守れるんは、謙也だけだろ」 最後以外を、標準語で低く吐いて、千歳は手を離した。 もう、殴る力が、謙也のどこにもない。 「…あんな風に…泣かせるんやなか」 「…千歳」 「……そんだけたい。はよ、白石んとこ行ってあげんね」 「…」 「…で?」 「…え?」 「…俺んこつ、殴らんと? 今なら、避けなかよ?」 言われた。許せたわけじゃない。許せるわけがない。 けれど、 「…いい」 「よかの?」 「お前、殴っていいんは、…俺やない」 千歳に背中を向けて歩き出す。 「白石だけや…」 部室の扉を開ける寸前、去りかけた千歳が背中で。 「その通りたいね」 そう言った。 扉の開いた音に、怯えるように顔を上げた姿は、泣いていて、下肢はなにもまとっていない。 情事の後の証に、足に液体が伝っている。 「……」 「千歳、には、聞いた」 「…」 びくりと震えた身体が、俯いて、それでも顔を上げて謙也を見た。 「……」 「白石…」 ごめん―――――――――――――そう告げようとした。 千歳の言葉に思い知った。 どれだけ傲慢な思い上がりで、白石の思いごと裏切って傷付けたかを。 今更、やり直せるなんて思わない。 ただ、せめて、もう一度傍で守りたい。 けれど、 「…謙也」 先に、そう呼んだ声が、謙也を見つめた。 「…白石…また、…そう、呼んでくれんの…?」 「…お前なんか、大嫌いや、…て言い聞かせて…。 けど…無理や。 …一生、謙也んこと、呼ばないで生きられるわけ、…ない」 「…白石…っ」 傍に駆け寄って、それでも震える華奢を抱きしめることに迷うのは、罪があるから。 「………謙也…俺、…今の俺…、汚い…?」 すがるように泣いた瞳で言われた。 「そんなわけないやろ! 白石が汚れるわけない!」 「…やったら、……抱いて」 「…」 「…嫌やないなら、…今、今の俺、…抱いて。 …も、嫌なんて、いわん、から…。 …やって、好きなんや」 「…白石…」 切ないほど胸が詰まって、呼んで抱きしめた。 「…俺、やりたくない」 「やっぱり…」 「ちゃう。…お前が、またあんな風に、泣くんは嫌や。 お前抱くんは…ほんまは、したい」 「…なら」 「……白石」 「…なら、抱いて」 「……頼む。煽るな…。 ほんまに我慢でけん…。 お前の今にも壊れそうな泣き顔にすら、欲情しとるような男やで…? 俺。 …我慢、できない」 「しないでええ……」 「白石…」 「……謙也」 腕を伸ばしてすがる身体が、か細く願う。 「…………………俺……好き…言うて」 本当に、もう我慢なんて出来ない、と言った。 いい、と言う身体を一度離す。 「…俺は、何遍お前に“大嫌い”言われても、…これだけはかわらん。 よく、聞けや」 「大好きや。白石」 瞬間、壊れるように泣いた顔を包んで、口付ける。 拒まない身体を抱きしめ、そっと手を這わせた。 「……俺が、言われてたら、泣いてるわ、とっくに」 帰り道、背中に背負われた姿勢で白石がぽつりと言った。 「…え?」 「大嫌いとか、お前に言われてたらな」 「…あー…。いや、俺も…」 「…ごめん」 「いや、俺が悪いし」 「……謙也も、悪いけど…俺も悪い」 「ほな、同罪な」 背中にかかる重み。懐かしいな、と思う。 「昔も、一回お前背負って帰ったことあったな」 「え?」 「お前が足くじいて、侑士がいなかった日」 「ああ…」 「まあ、あの頃とはちゃうか」 「…………謙也、一個、勘違いしとる」 「え?」 「俺、…ほんまは、謙也んこと、侑士に全然聞いてへんかったもん」 「ぇ?」 やって、あの日、白石はさも知っていた口振りで、謙也、と。 「コーチとかから、聞いただけや。侑士は従兄弟がおる、ってしか、言ってへん」 「…なんで」 「やって…俺、…、」 あの頃から、お前好きやもん。 「……」 「話、したかったんや」 思いもかけない告白に、一瞬沈黙した後、顔が真っ赤になった自覚に襲われた。 「…し…蔵ノ介…それ、マジ?」 「ほんま…」 「……うわ、嘘やろ」 「嘘やないし…やから、俺、ほんまは焦ったんや。 あの日まで、もう謙也なら、抱かれても平気やって思ってたから」 「………それなんに、拒否してもうて…自分でわからんかったから…?」 「うん…」 「…そっか」 もう、笑みしか浮かばない。 重みも、そんなつたなさも、愛しくて。 「ごめ」 「もうええ。白石、悪くない。 あと、白石はあとで千歳殴っとけ。俺は殴ってへんし」 「……謙也?」 「俺が殴るんは筋違いやろ。俺も、千歳と同罪なんに。 やから、お前が」 「…や、やけど…俺、もう」 「阿呆! 無理矢理犯されといて、“もう”はないやろ!」 どこまで危機管理ないん!と怒鳴ったら、背中で沈黙の後。 「…待て、謙也、千歳に、なんて聞いたん?」 「…え? いや、お前んこと、無理矢理…」 「無理矢理、なに?」 「…犯した…て」 「…」 白石は半眼になって、溜息と一緒にぼやいた。 「…ほな、殴っとく。 ……“最後までヤって”へんのに“犯した”とかほざいたことにな」 「……」 はぁ!!?とその瞬間、大声で叫んでいた。 無理に振り返った先で白石は呆れていた。 「最後までヤられてへんし。最後までヤるつもり、千歳なかったもん。 一瞬、そう思って本気で怖かったんは事実やけどな。 精々指つっこまれた程度」 「……え、ほな…千歳……」 「俺んナカ入ってへんから」 「……っ」 「あのド阿呆―――――――――――――!!!!」 白石に強いたこと自体、それでも許せない。 だが、わざとあんな言い方をして、自分ばっかり不利にしたあの器用なようで不器用な傍観者には、そうとしか、言えなかった。 ep-【その後の部室】 「なんスか、千歳先輩、その顔」 「や…」 腫れた頬に貼られた真新しい湿布に、財前が気付いて一番に言った。 「……うーん、食べ物の恨みは怖かー…って話?」 「は…、ケーキ一個、とかで殴るやついるんすか、怖ー」 「や、俺ば殴ったんはケーキの方」 「は?」 意味わからん、という顔の後輩に、千歳は笑うしかない。 “情報歪めんのも大概にせえよ?” と白石に言われて殴られたのだが、利き手は使わなかったあたり、あれでも加減したらしい。 その後、ぽつりと“おおきに”と言われたし。 「いや、だけん、元通りでよかったたい」 「ああ、部長と…」 向こうのフェンス傍で、なにやら話している二人がいる。 「謙也、お前、今日は財前と…って、言うたやんな?」 「いや、引退まだやし、たまには違うやつと…」 「…明日が引退日やろが!」 まあ、俺はどっちでもええけど、と遠目に見た財前が一言。 「それ、謙也に言ったれ」 「ま、そっすね」 財前がいなくなった先、金太郎が不意にやって来て“痛いか?”と見上げた。 「いや、そげん痛くはな…」 「あかんで、千歳。白石にランボーしたら」 持っていたラケットが音を立てて落ちたが、気にする余裕は、千歳にはない。 「…き、金ちゃん…?」 「千歳が白石好きなんはわかるけど、ゴーイやないことしたらあかんよ。 次はワイが殴るで?」 言うだけ言って去っていったルーキーを追うことも出来ず固まった千歳が、我に返ってそのいなくなった方向に叫んだ。 「き、金ちゃん…今のどげん意味ね…!!?」 「千歳くん…? どなしたん?」 「…なんか、えらい顔、青いな…」 後から来た小春とユウジの声が、やけに平和に響いた。 →後書き |