◆君の家に着くまでずっと走ってゆく◆
子供じみた我が儘だとか、笑ってくれてもいいよ。 辺りの痛い視線とか、同じ室内の人間達よりは低い位置にある肩や頭に容赦なく刺さるけど、そんな事程度を気にするほど小さい神経はしていない。 だから、机に肘を乗っけたまま、見た目だけは可愛らしく首を傾げて、表情だけは普段通り強気に、それでいていつもよりは子供らしい表情なんかも混ぜてみて、微笑む。 「俺、今週の日曜日、誕生日なんスよ」 だからどーした、みたいな台詞を言って、正面に座った先輩の顔を見遣る。 普段通り、敵意の欠片も見出せない造りをした笑顔を浮かべた顔が見える。 椅子に座っているから、今は見上げる必要があまりない。 「そういえば、この前そんな話聴いたよ。 じゃあもうすぐ十三歳だよね。おめでとう」 「どーも。 で、不二先輩にお願いがあるんスよ」 「お願い?」 「アメリカにいた時に、学校でプレゼントの代わりに一日だけ特別な権利が貰えるってのがあったんス」 「あ――――――――――――――――…、つまり、なにか一日権利が欲しいの?」 一日駅長みたいな。 随分的違いな表現だが、不二の言う事は間違ってはいない。 「そっス」 「一日部長とか?」 「…あ、そういうのもありっスか?」 (考えてなかった) 「さ? 手塚がいいならいいんだろうね」 その一瞬だけ、手塚に集まろうとした視線を意に介さず、越前は台詞を続けた。 惹かれはするが、今興味はない。 「そっスか。でもそんな事よりもっと欲しいお願いがあるんスよ」 部長権利を“そんなこと”で一蹴した越前に、不二は一瞬きょんとしたが、相手は越前と判っている所為か簡単に笑みを取り戻す。 「なに? 僕に言うってことは僕絡み?」 「流石先輩。話早くって助かります」 (散々絡めて振り回して煙に撒く人とは大違い) つ、と視線を片目で向ければ、事の顛末をノート片手に楽しげに見下ろしている、人。 「それで?」 お願いって? と訊いてくる先輩に視線を戻して、音を立てずに椅子から立ち上がる。 その人の色素の薄い髪やつむじや、見上げてくる表情を初めて見下ろすように見て、越前は僅か、身を乗り出して言った。笑顔だけは消さずに。 「俺のモンになって下さい」 瞬間、面白いくらいに凍結した部室内で、言われた台詞を反芻しているのか越前から目を逸らさない不二が、考え込む仕草で頬に指先を当てる。 その表情が、何時かコート状で相見えた時のように細めて笑った。 「一日?」 「そっス。明日一日だけ、俺の恋人になって下さい」 「明日でいいの?」 「…え?」 今まで自分主体で動いてきた会話を、取られたような錯覚。 何処か謎めいた表情で微笑んで、不二は言葉を繋げる。 「明日じゃ、授業や部活で会えるのなんか少しだよ? それでもいいの? ―――…折角、誕生日が日曜なのに?」 錯覚は、すぐに、現実に。 (ああ、やっぱりこの人だ) 自分に主体を取られてばかりでいない人。 にぃと口の端を上げて、机上のその白い手に指を重ねて、答える。 (そーだね) 「…いいこと言うっスね。先輩」 手早く約束を取り付けて、周りにいる先輩達に聞こえる声で言う。 「じゃ、日曜日、楽しみにしてます」 木と瓦。途中咲く、木々の枯れた葉と細い枝。 チャイムを鳴らして、最初に出てきたのはその本人だった。 「いらっしゃい、先輩」 視覚には見慣れない、私服はお互い様で。 余計、可愛く見えるなんて事は、今日誕生日の人の気を損ねてしまいそうだから、言わないでおいた。 「話には訊いていたけど、本当にお寺なんだね」 「結構初めて来た人って驚くんスけど。先輩はあまり動じませんね」 「前から訊いてたし」 まぁ、先輩の家も充分広いし。と胸中で一言。 「こっちで、ちょっと待っててくれません? 何か持ってきますよ」 「ありがと」 縁側に面した居間で、敷かれた座布団に腰を下ろして、越前が去っていく足取りを軽く目を細めて見送る。 (…でも、結構広いなぁ) 自宅も広いと言って問題ないが、洋式なのに対し越前の家は如何にも日本縁だ。 お寺まであるっていうのは、慣れれば大したこと無いんだろうけど。 (新鮮だよね) 畳が僅かに、人の体重で軋むような音がして、越前が戻ってきたのだろうと座ったままで振り返った。 しかし、そこにいたのは全然見知らぬ人間で。 この家にいると言うことと、年齢から考えて、思いつくのは後輩の父親。 「今日和。お邪魔してます」 立ち上がろうとしたのを手で制されたから、座ったままで軽く会釈をした。 いやこちらこそみたいに笑って返した彼が、“リョーマは?”と訊くので先程越前が言っていた事を伝えると“ああ”と納得しながら縁側に足を向けるのが見えた。 「にしたってこんなとこに一人で置いてくこともねえだろうに…。 あ、ゆっくりしてってくれ。あいつもすぐ来るだろうし」 「はい」 縁側に腰を下ろす、背中を横目で見遣り、ふと胸中に沸くのは何時かの誰かの台詞。 (“越前、南次郎”) 「なぁ、一つ訊いていいかい?」 「あ、はい?」 振り向かないまま急に話を振られて、多少は驚きながらも会話を繋げる。 返答に、混ざるのは邪推したような笑い。 「…あいつのコレ?」 不二に見えるように、立てられた小指が示すサインに気付いて、吹き出しそうになった反面女に見られたのかとの感情も浮かぶ。 否定しようとしてから、ふと今日の約束を思い返した。 振り向かない彼には見えないが、ゆったりと微笑んで答える。 「――――――――――――――――肯定しておきます」 「……へぇ、リョーマも安くねえなぁ。こんな別嬪さん連れてきといて…」 続いた“俺に何の報告も無しとは”に、不二は思わず小さく吹き出す。 それから、向けた視線の先に越前が居ることを今更に気付いて、促すように小さく笑った。 つい先程来たのだとは思う。会話の一端くらいは聞こえたはずだ。 (そういう――――――――――――――――約束、だもんね?) 不二の言わんとする事が判ったのだろうか、越前は一瞬だけ笑顔の欠片のような表情をしたかと思うと、いつものように笑ってみせた。 そして手に持っていた、茶菓子やカップを乗せたトレイを足の低い木の磨かれたテーブルに置くと、何の気遣いもなく南次郎の背中を蹴飛ばした。 流石にこの行動には不二も驚いたが、続く二人の会話内容からそれが日常茶飯事に似たものだと悟る。 「なんで親父がここに居座ってんの」 「俺が何処にいようが勝手だろーが。それともなにか? 俺が先に彼女と話してんのが気に食わなかったか? こんな別嬪な彼女を待たせるお前が悪いんだよってかお前にゃ勿体ねぇ」 「親父には関係ない。居座るなら母さんに親父の本の隠し場所告げ口するけど?」 「げっお前なんでんな事知ってんだよ……。 …判ったよはいはい邪魔者は去りますよ」 言葉だけは殊勝な振りで呟きながら、地面に足を降ろした南次郎が去り際に不二に手を振って姿を視界から消した。 「……すんません。うちの親父が」 「いいよ。楽しいお父さんじゃない」 「五月蠅いだけっス。 どぞ」 「有り難う。ね、越前…」 カップを受け取りながら、立ち上る湯気越しに後輩の顔を覗き込む。 口の端を上げる、様が見えた。近くで。 「リョーマ、って呼んで下さいよ」 恋人、なんだし。 「いいよ」 あっさりとその要求を飲んで、不二はテーブルの上に軽く身を乗り出して笑う。 「ねぇリョーマ、――――――――――――――――…カルピンだよね? 君の猫」 「……そうっスけど」 初めて名前で呼ばれて、その響きにどきりとしながら、何故急に猫の話題なのかと訝った結果の、妙なトーンの言葉。 にこにこと擬音の付けられそうな笑顔で、断る事など予想もしていないような表情で不二は越前の顔を見て“お願い”する。 「見たいな。駄目?」 「…いいっスよ」 探して来ます。と再び席を立って、抱えたままの疑問なんて、簡単に見付けた猫と同じ調子で見付かる物で。 (まさか) なんて単純な。 不二の膝の上でごろごろと喉を鳴らす猫を抱いて、不二はとても幸せそうに笑うから、見惚れたりもするけれど。それが疑問の肯定に相応しくて。 「…不二先輩」 「ん? なにリョーマ」 ハートマークさえ今なら付きそうな甘い声で、返ってくる言葉に打ちのめされながら。 「…もしかして、カルピンに会いたくて俺のお願い訊いたんスか?」 (ああなんかそんなオチって空しいっていうより天秤に掛けてカルピンに沈んでる図式のような) 可愛らしく首を傾げて、不二は柔らかく微笑む。 「ん――――――――――――――――……七割はね」 (七割……俺三割?) がくりとテーブルに沈む後輩の様子をくすくすと笑って見下ろしながら、ごろごろと鳴く猫の喉を撫でてやる。 可愛いなぁ、なんて両方に思うこと。 存分にカルピンの匂いや柔らかさや感触を満喫して、テーブルに伸びている後輩の髪を緩やかに撫でる。 「桃に訊いたんだけど、コートあるんだって?」 僅かにぴくりと動く、その頭を撫でて黒い髪に指を絡ませる。 腕の隙間から覗く双眸に、顔を近づけてうっすらと笑う。 「遊ぼうか――――――――――――――――…リョーマ」 伸ばした手首を掴み返されて、もう強気に笑う彼の顔を間近で見つめる。 「俺が勝ったら、先輩くれます?」 「勝てたら、ね?」 寺の長い階段にぽたりと落ちた自然の水に、難色を示したのはどちらが先か。 枯れた木々に、冷たい空気を更に落としめてぱらぱらと降り注ぐ透明な雫。 空はどんよりとして曇った、子供が投げやりに黒と白の絵の具を混ぜたようなキャンパスの色。 「……これは、無理だね」 夏ならともかく。 「……そうっスね」 冬に、雨の中でなんて風邪になれと言っているようなものだ。 胸の中に忍び込む落胆は、自分だけの物の気がして、越前はこっそりとため息を吐く。 「……僕も、小雨の内に帰った方がいいかな……?」 空を見上げながら、呟いた不二の台詞に、空と同じように下降する感情。 そりゃあ、一日限りの冗談みたいなお願いで、カルピンがいなきゃ却下されてただろうことで、今の夕方まで一緒に二人きりでいられた事だけでも―――――――――――― (本当なら充分なのに) 欲深く、もっとなんて。 (独占したい) 俺のものになってよ。 自然重くなった足取りで下る階段を、一段早く降りるあの人の背中。首筋。白く。 「…――――――――――――――――……先輩」 足を、止めて。お互い。 今はまだ、細い雨の滴の中。 見つめ合う、視界の高さが丁度同じ場所。 そんな偶然すら、彼が相手ならどうしようもなく欲しくて、もどかしいもの。 今日最後のお願いだから、訊いて欲しい。 恋人、なんだから。 証、を―――――――――――――――― 「……キス、させて下さい」 塗れて、更に黒くなった自身の髪から落ちる雫。 頬を伝う、水が、あの人の頬を過ぎる水を、拭うように触れて。 拒まない、から息を詰めて、顔を近づけて。 (あと一秒、あと五ミリ)なんて言葉を、自分の思考の欠片で数える。 距離が、空気の大きさすら凌駕して、触れる。 唇。 眼を閉じて。 その世界が、初めて止まればいいと思った。 「…満足、した?」 「……………………。 (何時だって、笑ってる狡い人) …………………、濡れちゃいますから、」 行きましょ。 手を肩に触れて、促すように同じ段に片足を降ろして。 通り過ぎ様の、不二の、瞳。 雨の、灰色の中で、月の欠片みたいに、存在を訴える、その色。 笑う、悠然と、微笑む。 「僕は――――――――――――――――…」 言葉は、続かず。 代わりに、自分の口に呑み込まれた。 同じ段に足を乗せて、上から落ちた唇を、誘うように動く舌を、絡め取る。 乱れた、呼吸。もう、濡れてしまった身体を。 「満足、してないよ」 0の距離で、伝う言葉。 とん、と肩を突かれて蹌踉けた身体を、すぐに不二が掴んで留める。 雫が伝う、肌や髪や、触れたばかりの唇。 いつもとなんて、全然違う微笑みで笑う笑顔。 彼から繋がれた手の平が、熱くて、冷たくて、思わず握り返した越前を一段下から同じ視点で見つめて、不二は濡れた髪を掻き上げる。 「ねぇリョーマ。 ―――――――――――――――― 一日で、いいの?」 (ねぇ)と、自分とあまり大差ない高い声で笑う、自分一人に向けられることを焦がれた人。
(俺の言いなりになっちゃう人なんか、駄目。 「――――――、先輩!」 「……、」 唇のすぐ側で、“俺のこと好き?”と訊いた言葉を、笑って答える。 「君が勝ったら、教えてあげる」
子供じみた我が儘だとか、笑ってくれてもいいよ。 |