HONEY TIME 「小石川、お前、口切れてへん?」 「え?」 朝、四天宝寺男子寮の共有洗面所。 洗顔が済むまでは眼鏡の小石川は、眼鏡を押し上げて鏡に顔を近づけた。 唇が、確かに薄く切れている。血は出ていないが。 「あ、ぶつけたんかも」 「テニス部やから?」 「アホ。テニス部やから顔に喰らってばっかなわけあるか」 「やんな」 寮生仲間の言葉を否定し、自分より低い彼の頭をぐいとこづいてから、小石川は自室に向かうため洗面所を出た。 (心当たりっていうたら、昨日のあれかなー……) 昨日、厳密には今朝の一時頃。 同室の石田とセックスをした。恋人で、同室なら都合はいい。 が、ここは曲がりなりにも学生寮。しかも、隣は全て埋まっている。 大声でなど喘げるはずもない。 しかたなく、唇を噛みしめるか、キスで塞がれたままか、シーツでも噛んでいるか、どれにせよ、唇は切れそうだ。 (かといえ、…シないっちゅうんは無理やし…) 卒業まであと数ヶ月なのに、寮を出るのもおかしいし、なにより唇の傷一つくらいなら、自分は石田と毎日一緒にいられるあの部屋を取る。 とはいえ、声を出せないというのは、面倒で辛い。 …出したことがない。自分はキスからなにまで、石田が初めてなので。そして、今までシた場所は全て、寮の自室。出せるはずがない。 「小石川」 自分の部屋の扉がある廊下まで戻ると、石田が洗顔にでも向かうところだったのか、こちらに向かいながら「おはよう」と言った。「おはよう」と返す。 「そういや、さっき寮母さんが呼んどったで」 「え?」 「電話があったらしい」 「…電話」 反芻しながら、小石川は首を傾げた。電話。 足を寮母のいる事務室と面し、小窓のあるリビングに向け、石田に軽く礼を言って向かいながらやはり首を傾げる。 携帯はこの寮は禁止ではない。携帯にかかってくるならわかるが。 「すみません。205の小石川です」 小窓を叩いて、寮母を呼ぶと、すぐ妙齢の女性が顔を出した。 「ああ、小石川くん。さっきお母さんから電話があってな」 「母からですか。なんて?」 「さあ? 部屋におらんみたいですって言うたら、かけ直して欲しいって」 「…わかりました。かけ直します。…携帯からやとアカンのですか?」 「…?」 寮母も首を傾げた。特に寮の電話からかけてくれという指定はもらっていないらしい。 「…あ、じゃ電話借りてええですか」 「ああ、どうぞ」 「ありがとうございます」 軽く頭を下げて、ロビーに足を向ける。ロビーの端にカードなしで使える電話が、三つある。一番右端の電話の受話器を取ると、母親の携帯にかけた。 しばらくコール音が鳴って、すぐ繋がる。 「もしもし、おかん? 健二郎やけど」 『ああ、よかった繋がって』 母親は上機嫌に笑っておはようと言ってくる。 小石川も挨拶を返して、それから「何の用だ」と聞いた。 この様子では、緊急じゃない。休日とはいえ朝に、それも寮の電話にかけてくるからなにかと多少身構えた。 「ちゅーか、なんで携帯にかけないん?」 『あんたの番号間違って消してもうた』 壁に付いていた肘が思わず滑った。なんだそれは。 『それより、あんた、今日暇なん?』 「…? 暇やで?」 それよりか。息子の番号消去が。あとで登録しなおさせよう。しかし、質問の意図はよくわからない。 軽く上向いて、ロビーの天井をつい見上げながら、不思議でしかたない顔をした息子に、見えていない母親は笑う。 『なら、一回うちに帰って来ぃ。言わへんとあんた、卒業まで帰って来ぅへんやろ』 「え? 今日?」 『今日。やって次の休み、試験期間やって言うたやろ』 「…そうやけど。…え? それ泊まり?」 『泊まりで。なにあんた、日帰りで済ます気? GWも夏休みも帰ってこんかった癖に!』 母親の声が大袈裟に泣きついた。こうなると無理だ。断れない。 白石たちが羨ましい。兄弟がいるというのはいい。一人っ子だとこうだ。 「…わかった。すぐ外泊届け出していくわ。土産いる?」 母親はいらん、同じ大坂やのになに土産にする気なん、と素っ気ない。 小石川の家は、四天宝寺から二駅、乗り換えなしの街だ。 大抵の寮生仲間に、なんで寮に入ったと言われる。 『あ、あと、友だち誰か連れてきぃや!』 「なんで?」 『あんた、今まで白石くんしか連れてきたことないやろ! しかもそれ、小学校の話やで。友だちおらへんのやないかってあの人も気にしとるんや』 「……おります。フツーにおーりーまーす!」 『せやったら連れて来ぃ!』 「……都合ついたらな」 長く家を離れていた所為もある。母親は、久しぶりに話すと生気を持って行かれる。 小石川はおかしいほど実家に寄りつかない子供だったので、恋しがられる。母と父に。 受話器を戻して寮母に報告して、部屋に戻った。 小石川の家はよく有り触れた核家族。父、母、息子の三人家族だ。 故に、その息子がいないというのは寂しいらしく、家に帰るとこれでもかと構われる。 それが嫌で、小石川は滅多に帰らなかった。 (にしたって、誰連れていくん…) 「おかえり。…なんや、疲れとるな」 石田が部屋で、着替え途中の格好で出迎えた。疲労困憊の小石川を不思議そうに見る。 「あー…おかんが元気で」 「大変やな。まあ愛されとるんやしな」 「…うん」 石田も多少、自分の家の尋常ではない構いたがりを知っているので、優しく言ってくれる。着替え途中だった上着を下まで通してから、「結局なんやった?」と聞いてくれた。 「師範、俺、今日外泊してくるわ」 「ん? 実家に顔出すんか?」 「うん。朝飯食べてから届け出す」 しまった、眼鏡したままだ、と慌ててコンタクトのケースの蓋を開けながら、寝台に腰掛けた。 「一日?」 「うん」 「…ならよかった」 「……」 コンタクトをつける前だが、小石川は手を止めてしまった。そのまま石田を見る。 「…師範、なんや今ホッとした?」 「ああ。二日も三日も、健二郎がおらんのはな」 「……」 真っ直ぐ、誤魔化しなく寂しいと伝えられて、小石川の顔が赤くなる。しかも不意打ちの名前呼び。 「……せやったら、師範が来たらええやん」 「え?」 「うちのおかんが、俺が小学校以来一回も友だち連れて来ないからって、誰か連れて泊まり来いてうるさい。誰でもよかったし……。……やなくて、…俺は師範がええなら、師範がええし」 うっかり『誰でもいいから、丁度いいから来い』と言っていると気付いて、小石川は言い方を変えた。小石川だって、どうせ一緒なら、石田がいい。離れたくないのは、自分も同じだ。 「…ええんか?」 「向こうが言うてきたんやし。有言実行やしうちの親」 「……ほなら、お邪魔しよか」 「うん」 気恥ずかしくて逸らしていた視線をやっと合わせて、小石川は柔らかく笑った。 すぐ、石田が傍に歩み寄って、肩を叩いて耳元でひそりと囁く。 「友だち、やないがな」 耳元で囁く低い声は、普段は聞けない『最中』の声だ。 一瞬で昨晩を思い出して耳まで真っ赤になった小石川に、石田は後ろ向きで小さく笑う。 「〜〜〜〜っ! 師範っ! …卑怯やろそれ」 「いや、可愛えからつい」 「……俺に可愛えなんて、誰も言わへんで」 「おったら困るから」 「……」 ダメだ。今日はもうなに言っても勝てない。小石川は口を閉ざして、放置していたコンタクトをやっとつけ終える。 いたら、困る。 彼を可愛いなんて、言うヤツは。 だから、こんなことは二人きりじゃないと言わない。 そんな顔は、見せない。誰にも。 「師範。まだなに笑っとんの?」 「いや」 「……今日の師範、なんや怖い」 「言うてろ」 微笑んで、優しく言ってから小石川の頭を撫でると、石田は部屋を出ていった。 石田が訪れるのは初めてになる、小石川の家は二階建ての一軒家。 住宅街の中にある、有り触れた家だ。 古びた白い壁がくすんでいる。屋根の上にソーラーパネルが見えた。 玄関をくぐると、先に入った小石川があれ?と呟いた。 「どないした?」 用意した着替えを詰め込んだ(しかし一日なのでさしたる量ではない)鞄を片手に石田は、初めて訪れる恋人の家をきょろきょろと見てから問いかける。あまり見るのは失礼だが、恋人の家ともなるとやはり気になる。 「…電気点いてへんし、誰もおらん…?」 まさか玄関開けたまま?と小石川が携帯を取り出して母親か父親にかけている。 「もしもし? 来たけど………は?」 小石川の通話相手への声があからさまに文句を言うトーンになった。 「………はぁ。そう。うん。……わかった」 「…どないした? ご両親は?」 「……なんか、急な仕事が入って…おとんもおかんも帰って来れんて」 「……」 小石川の両親は共働きで、製薬会社勤めだ。それもあって、小石川の両親は薬剤師の白石の父と仲がイイ。 なんでも、仕事が多いときは、二日くらい家に帰らないらしい。 「…呼んどいてそれかって思うけど、ようあるし、仕事のせいのドタキャンは。 ごめんな」 「いや、お前の所為やない。…ご両親の所為でもないしな」 「そう言ってくれると助かる。折角やから泊まってけって。明日帰って来れるかもしれんから」 すまなそうに笑って小石川は靴を脱ぐと、あがって廊下の壁のスイッチを押す。明かりがついた。 石田も従って、靴を脱ぎながら気になっていることを聞いた。 「健二郎は兄弟は」 「一人っ子。てか知っとったよな師範…?」 「……」 「師範? てか、なんで名前…」 つまり、明日までこの家に、二人きりと言うことやが。 危機感が欠如していることの多い小石川は気付いていない。いや、気付いているが、それを自分が危惧することに結びつけていない。 「あ、師範、料理出来る? 俺、あんまりレパートリーないし」 「…多少は」 「よかった」 と、無邪気に笑う恋人に、最早「シたい」とは言えるわけもない。 というか、昨日ヤったばかりだ。 (……心頭滅却) 思わず心の中で呟いた石田を、小石川が不思議そうに見た。 「そういや師範て、女性経験なさそやな」 夕飯を済ませて、ただテレビを二人で見ている時だ。 ソファに座った小石川が、唐突に言った。 「なんやいきなり。ないが」 内心、そういう話題は避けてくれと思う。 誘いならいいが、彼に限ってそれはない。そんな可能性を微塵も期待させないのが小石川だ(正確には期待したら必ず、結局他意がなくてがっかりさせるのが)。 「いや、キスくらいあるんかな…て」 「どうやろう…」 「疑問系?」 「幼稚園のころはわからんからな」 「…いや、そんな幼稚園のころのガキの口約束のキスまでカウントしてたらキリないやん」 小石川は、頭を押さえて苦笑する。流石師範、と言いそうな顔だ。 「ほなら、ない」 「…そか」 そう答えて、小石川はそのままテレビに視線を戻した。 そのあと、会話はない。 (ほらやっぱりな…) やはり他意は全くなかった、と石田は確信する。変な期待をしなくてよかった。が、やはりがっかりしてしまう。知らず期待したらしい。 「…師範、テレビまだ見る?」 「いや」 「ほな、寝よ。もう眠い…」 ソファから立ち上がって、小石川は手を当てて欠伸をした。軽く伸びをする。 それに、胸に沸く、残念な気持ち。欲しいと思うのは、自分だけだろう。 以上に彼らしいとも思ってしまう。 「ああ」 頷いて、立ち上がった。 小石川の部屋は二階だ。息子が全く帰ってこないからと言って、部屋をなくす親ではないらしい。それに、部屋を割り当てる存在もいないのだろう。 今の彼には小さいベッドは随分前に片付けられたらしく、小さな机と本棚だけ。 その真ん中に布団を二組敷いた。石田は片方の上に腰を下ろす。 明かりを消すために立ったのだと思った小石川は、明かりのスイッチの傍まで行かず、途中で止まる。石田を振り返った。 「…銀」 「…ん? ……え」 そこで、石田はハッとする。今、彼は滅多に呼ばない、自分の名前を呼んだ。 見上げると、彼の顔は赤い。 「そこでほんまに寝ようとされると、悲しいんやけど」 彼に、そういう期待をすると、必ずがっかりさせられる。 だが、これもそうなのか? 「……」 小石川は一度唾をのみこむと、石田の片足を曲げた足の上にまたがった。石田がびっくりしてから、頬を赤く染めてその肩を掴む。 「…ええんか?」 「……おれ、かて」 石田にぎゅっと抱きついた小石川の背中を撫でると、緊張しているのか呼吸が速い。肩が大きく揺れた。 「……」 何度も息を吐いて、なにか言いたげにする小石川に、辛抱強く待つと、顔を上げて視線を合わせて、真っ赤になって言った。首も耳も赤い。 「…俺かて、たまには…思い切り声出してヤりたい」 「……っ…」 朱に、なにより欲に、首から耳まで染まった姿で、声で言われて正気でいられるわけがない。すぐ身体を抱きしめて、深く唇を奪うと、小石川の手がすがるために石田の背中に回された。 「…っ…ん…ふ…っ」 頬に手を当てて、唇を離すと、荒い呼吸で名前を呼ばれる。今は「銀」と。 最中は、彼は一杯一杯だから、と気付けば「師範」と呼んでいる。余裕がない証だから、文句はない。 肩を押して、布団に押し倒すと、手が甘えるように首に回された。またキスを重ねて、首筋に唇を降ろす。そこで、小石川が急に起きあがって情事の最中だと思えない明るい声で「あ、ちょお待って」と言った。 「……なんや?」 まさか、まさかやっぱり無理とか言わないだろうな、と胡乱な声になった石田に、小石川は「コンタクト外すからちょお待って」と言う。 なんだ、コンタクトか。情事の後、必ず気を失う小石川は、スる前にコンタクトを外す。その間、お預けを喰らうのは、しんどいが、幸せだ。外すとき、見えなくなる視界が不快らしく、小石川は一瞬きつい視線を向ける。それが、堪らなく感じる。 「ええか?」 「うん」 了解を得て、肩を掴むと布団の上に倒した。今度こそ背中に回された手に、理性が消えたと感じた。 翌朝、起きあがれなくなった小石川に、石田はまず謝った。 普段、というか今まで聞いたことのない嬌声に、理性が本当に飛んだ。 思った以上に艶のあるそれに、気付けば五回か六回、したと思う。 普段は二回でやめる。 「…別にええし、誘ったん俺」 「…いや、せやけどな」 真っ赤になりながら布団に顔を埋めて、小石川はほんまええからとぼそぼそと言う。 「今回は、流石にな…。いつも気を失うまでしてもうて…悪い」 「いや! …そういうんやない。少なくとも、そういうんやない」 大声で否定して、すぐ小石川はまたもごもごと声を小さくした。 顔を覗き込むと、小石川は視線を逸らしたが、すぐまた合わせて、瞳までと錯覚するほど赤くなる。 「……気ぃ失う…んは…乱暴やとかやのうて………その…………あ……えー」 「…無理せんでええぞ」 「……そやのうて………そ……昨日は特に…………き……ぎて」 「…え?」 聞こえなかった。もう一度、彼の口元に耳を寄せると、囁くような掠れた声。 よほど恥ずかしいのか震えていた。 「……気持ち……ヨすぎて……やから……」 意識が飛ぶ、と言われた。 石田はすぐ背中を向けてしまった。小石川が不安そうに名前を呼ぶ。布団から。 振り返れない。布団の中の彼はまだ裸だし、二人きりで。 「……すまん」 「え? なんで? いややった?」 またシたくなったとか言えない。なってても言えない。 だから、振り返らなかった。 2009/07/08 |