誓い去りし

第三話[遠すぎてきこえない]





 財前がやっと追いついた時、彼の呼吸は相当に荒かった。
 むしろ、息絶える前じゃないのか、と錯覚するくらい、上下する肩。
「…あんた」
 聞かなくても、わかる。
 あそこにあれ以上、彼はいられなかった。
 あの場にあれ以上いて、白石の口から「ご主人様が喜ぶなら死ぬ」なんて聞いてしまったら。
 わかるから、聞かなかった。
「………まに?」
「…え」
 掠れた声がやっと、財前に聞いた。
「ほんま…に……」
「……」
 注意深く、言葉を待つ財前に背中を向けたまま謙也という天使は言う。喉が震えている。視界の先にはあそこよりは小さな湖があって、映る彼の顔がぼんやり見えた。歪んでいるのは、水面の所為だけじゃない。
「……白石が……望んだん…?」
「………そうや。俺は」
 早口で財前は繋いだ。そうしないと、要点だけじゃあまりに酷だと思って。
「あのひとが、翡鳥〈スチュリティア〉やった頃に会ってた。
 ここに、千歳さんらが助けて連れてきはった時に」
「…あれは、あいつらが…」
「あのテロは、俺らやない。疑うんは自由や。けどちゃう。
 ショックからの混乱が収まった後、白石さんは自分から望んでここにおった。
 あのひとは優しくて、俺にも優しかった。千歳さんらを優しいて言ってた。
 せやから、…あの日、黒を認めんなっちゅー暴動を起こした自分の仲間を、あんたを見て…絶望したって話や」
 凍り付いたような、沈黙が返った。
「俺……?」
「ああ。あんたを、仲間を、…あんたらに受け入れてもらえないと理解して、絶望したあのひとは黒く染まることを自分から選んだ」
 風が吹く。止んで欲しいと思った。彼の声は小さくて、聞き逃してしまう。
「……………………」
 けれど、彼はもうなにも言わなかった。
 ただ、財前を振り返って、悲痛な顔で、まともな声もなく泣いていた。






 そっと頬を撫でると、あの質問が嘘のように微笑む顔があった。
「嘘やけん、実際にやったらいけんよ」
「はい」
「本気で死んで欲しいわけじゃないから、死ななくていい」と念を押しておく。そうしないと、彼は多分従ってしまう。
 話が終わったとは言え、帰還していなかった葉天使たちが顔を覗かせて、一人が千歳に視線を向ける。
「今、…おったん、俺の従兄弟か?」
「…ああ、あん子、あんたの従兄弟と?」
「見間違いやないなら。俺は名乗ったけど、忍足謙也、や。あいつの名前」
「…」
 あの子なら、多分裏庭だと示そうとした千歳に侑士は首を振った。
「いや、ここによかったらおいたってくれ」
「?」
「あいつ、翡鳥〈スチュリティア〉の幼馴染みやねん」
 次いで重なった言葉に、千歳は表情を微か動かした。
「わかったと? こん子が、翡鳥〈スチュリティア〉って」
「ああ。謙也と従兄弟や言うたやろ。その謙也の幼馴染みや。会ったことはようけある。
 …おいたってくれへんか。それに、同盟を俺らが破った時、人質んなる」
「…あんたらがそれでよかならそうすったい」
 千歳の言葉に、軽く頷いてから、侑士は傍らの白石を見遣った。
「…他の奴らに見つかんようにしときや」
「…」
「俺らはどうこう言う気はない。ただ、見方の歪んだヤツによっては大罪人扱いやで。普通の天使ならまだしも」
「…わかっとう」
「わかっとんなら、ええ」
 そう言い置き、侑士は踵を返した。その背中は似ていないのに、何故か痛く感じる。





 部屋に肩を抱いて連れて入る。疑うことすらしない顔を撫で、寝台に座らせ、キスを仕掛けた。すぐ自ら舌を絡め出す身体をきつく抱く。
「……蔵」
「はい」
 ひどく、幸せそうに微笑む姿。でも、
「俺が、大事?」
「はい」
「誰より?」
「はい」
 これがどんなに、愚かだ馬鹿だって、自分が一番知っている。
「世界の誰より?」
「はい」
 痛いほど、知っている。
「桔平より?」
 一縷の望みのように、そう問いかけた自分はきっと世界で一番醜い、情けない顔をしている。
「ご主人様が大事」
 なのに、それを真正面から見てなお、キミは微笑む。とても無邪気に。
「違うばい。俺が大事?」
「はい」
「桔平より」
「ご主人様は大事」
「……違う……」
 そう、零した声。自分に、彼は不思議そうに首を傾げ、千歳の頬を撫でる。
 何故、こんな簡単な問いかけがわからない。何故理解しない。
「…俺と桔平と、どっちが大事か…答えて」
「……両方、大事」
「俺と桔平が死にかけてたら、どっち助けっと? 片方しか助けられん」
「助けます」
「……」
 違う。違う。違う。
 なんで、わからない。こんな、こんな簡単な問いかけが。
 ああ、やっぱり自我なんかない。もう死んでるんだ。これはただの綺麗な、人形。
 もう、いない。翡鳥〈スチュリティア〉なんかいない。ここには最初から。
 初めから、一緒の未来なんかない。
 ここには、一個も。
 手を掴んで、寝台に押し倒す。
 服を乱暴に剥いで、肌に幾つも印を散らして、足を開かせて、留めた手を押さえた時、見下ろして千歳は停止した。
 見上げてくる、ただただ無垢な、嬉しそうに微笑んだまま、変わらない笑顔。
「……っ」
 言葉、行為、何一つ。
 届かないんだ。もう。


『大罪人扱いやで』


 罰なんかとっくにうけた。
 これが罰じゃなくてなんなのだ。
 こんな酷い罰があっていいのか。
 ここは、地獄にでも変わったのか。
「…ごしゅ」
 呼びかけた唇を塞いで、それでも収まらずに、白石を抱きしめて泣いてしまった。
「〜〜〜〜〜っ…、で」
 どうして。



 なんでだ。



「そ……やなか」





「………そうやなかよ」










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