いつも、がらんとした部屋だった。 それがいつものことだ。自分はよく、片づけが下手で散らかしては遊びに来た誰かに汚いと言われる。 ダイニングは適度に片づいていて、居間も同じ。 ただ、両親の部屋だけは殺風景なまま。 壁に掛けられた何時止まるか危うい時計の音。寝た形跡のない寝台と、引かれたままのカーテン。サイドテーブル。 それだけだ。生活味もなにもなくて。自分は多分この部屋は嫌いだった。 この部屋の扉を開くたび、扉のノブに着いた指紋は自分のモノしかないと言われるようで、嫌いだった。 誰かに話す気もなく、話せるかも判らない。 暑い夏の日だった。 花火をみようと言われて、一緒に河原まで行った。 遠くで何度も打ち上げられる輝きを見上げながら、自分の手を握っていたのは血の繋がりのない人だった。 ただのお隣の人だ。弟が欲しかったからと、なにかにつけて自分を誘った。 音の後の光。柳のように流れる火の粉や不発のように上ってはただ落ちる火。 見上げてばかりのその人を、そのころ随分高いと思いこんでいた。 あの人が見ている先は同じモノで、ただ花火よりも所在がないように輝く星の光に目を惹かれる。 自分より大きな手の中で、お互い汗を掻いている。 顔を思い出せと言われても出来ない。記憶の中で振り返るその顔はいつも、口元だけが笑んだ形で。瞳の形を思い出せない。 周り中に広がる歓声。親に肩車をねだる子供。手を繋いで帰る母と子を、すごく不思議な想いで見送る。 肩車したい? と彼が聴いた。 自分は、いいと答えたはずだ。 曖昧だ。 ただ昔の記憶なんて、ただ嫌いだったあの部屋と玄関に一つもない彼らの靴。 家族より、他人の方が多く握った玄関のドア。 家族より、他人の方が多く話しかけた。自分へ。 帰り道に同じように手を引きながら、彼が言った。 大きな背中と、短い髪から覗いたうなじが止まない花火の光の中で鮮明に浮かぶ。 「君は弱みを知らないんだね」と言った。 幼かった自分には判りようのない言葉だった。もしかしたら他の子供なら判ったのかもしれない。 言葉の意味は分からなくても潜むモノには気づいたかもしれない。 先ほど肩車をされていた子供や母親に手を引かれて笑っていた子供になら。 急になった丘を登り終えて、もう一度肩車をするかと訊かれた。 振り返った微笑みはやはり記憶の中で唇しか無くて、その背後に人工の街の灯りが踊って見える。 高く見えるはずの街を。高く見たって仕方がないと思って。 けれどふと、それが最後かもしれないと思った。 肩車なんて、してもらえる最初で最後かもしれないと思った。 頷いた自分に、何故彼が嬉しそうにしたのか今なら判る。 自分は、かわいげが無くて可愛がり甲斐もなくて子供らしくなくて、甘え方も知らなかった。 子供がなにより先に知るはずのソレを知らなかった。 彼の中では自分は本当の弟だったのだ。 肩車をしながら少し音のはずれた歌を歌っていた。子守歌ではなく、ただの童謡だった。 誰でも知っているような『大きな古時計』だった。 その場所から見る世界は確かに高くて、 けれどだからといって何もなくて、 見上げた空よりも皮膚から伝わる人の体温の方が綺麗に感じる。 そのまま、人気のない道も、街の雑踏も歩いて帰る。 道行く人が時折視線を寄越す。寄越しては笑う。 親子かなというようなそれに、あの頃泣いたか覚えていない。 ただ最後に、頭を撫でた熱い手は、記憶の中でも自分の手のひらよりずっと大きかった。 最後まで、古時計を歌っていた気がする。 そのあと自分はすぐに引っ越した。 親の都合だ。中学へ入って背も伸びた。 記憶の中でまだ俺より高いあの人は、今まだ同じ空の下にいるだろうか。 あの言葉の意味が今なら判る。きっと彼が願ったようなことは出来ないけれど。 せめて判ったと言いたい。 いつか見つけた古びた写真のなかで、背の高いその人は笑っていた。 記憶の中に口元しか浮かばないのに、不思議とは感じない。 連れて行かれた海の傍らの公園。彼の胸の辺りにあった鉄棒が、自分のもっと低い位置にあったと気づいたとき。 ――――――ようやく、少しだけ泣いた。 自分の背は、高いと思っていたあの人を既に越していた事に。 もう二度と会えないかもと、気づいた事に。 その人の、名前さえ知らなかった事に。 |