窓の先を通り過ぎるのは高すぎる空と雲。

 ぼんやりした視界には絶好の。捕らえる必要のない風景。青と白。

 ふと落ちかけた眼鏡を手で直し掛けてから、ふと。

 障害物のない物を見てると視力が良くなると言った、彼を思い出す。

「……ぃ…。…おい、忍足」
「…………ぁ―――――――――――………あぁ、何や?」
「何やじゃねーよ。…ほれ」
 と指さされた先は黒板。
 眉間に青筋でも刻んでいそうな風体で、教師が佇んでいる。
「…尾田の奴、何度もお前の事呼んでたぜ?」
 黒板の問題解けだとさ。
 なんて、馬鹿じゃねーのと笑う反面呆れ声の宍戸が、斜め後ろの席で呟くのをよそに、向かう思考はいつまで経っても視界の黒板には行かれない。
 ぐるぐると頭の中で想うことは一つきりで。


 会いたい。


 なんて、相当末期物だ。





愛しだけじゃ語れない







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「そんで結局こいつはこいつで問題解くしよ。尾田の面が見物だったぜ」
 部活終了後の、帰宅前に騒ぐ部員の声や帰宅していく生徒の声を尻目に。
 校門の横を通り過ぎながら思い出しては小さく笑って、宍戸はこーんな顔してたと、生徒に評判の悪い数学教師の真似をする。
 真横でそれを見ては苦笑する鳳と、へーぇお前が授業中にねぇなんて視線を忍足に送る向日。その話題にノータッチの跡部は樺地と先頭を歩いていて、横を歩く滝の会話に興味なさげに相づちを打っていた。
「ってーか本当に侑士そんなぼげーっとしてたのかよ?」
「してた。思い切り惚けてますって感じ」
「うっわ見てぇ」
「見んでええんなもん」
「…、跡部?」
 急に先頭が足を止めたものだから、宍戸が訝しがるのも当然だったが。
 振り返った跡部が小馬鹿にしたように口の端を上げる。
「じゃあ訊くが。宍戸に向日に滝。お前らこっちの道で帰れるのか?」
 その言い方も、如何にも当然なトーンで。
 その言葉でようやく、会話に集中しすぎて曲がる道を忘れていたことに三人は気付く。
「なんや岳人、本気で忘れとったんか。
 俺はてっきりなんや用でもあってこっち来とんのかと思っとったで」
「気付いてるんなら早く言えよ侑士…っ。電車に間に合わなかったらどうする」
「そんなん完全に八つ当たりや」
「お前の話題が盛り上がったのがいけないんだろ」
「持ち出した宍戸に言え。俺は知らん」
「てか向日、話してる暇にも時間は過ぎるぞ」
「侑士、宍戸。乗り遅れたら後でなんかおごれよ!」
 行くぞ滝。とか言いながら駆けていくその後ろをのんびりと行きながら、“頑張れ”なんて言ってる宍戸は電車じゃないから呑気な物で。
 苦笑してばかりの鳳も、すぐ次の交差点で歩道橋を渡って行ってしまった。

「……で、お前は何惚けてたんだ?」
「なんや、結局聞き耳立ててたんやないの跡部」
 通りで滝との会話がおざなりや思た。
「で?」
 振り返らず、促す跡部の声。訊く気があるのかどうか、全く表情変化のない樺地の存在が心なしか気にはなるが、気にしたら何だか負ける気もする。
 通り過ぎる車のヘッドライトやクラクション。鳳が去って行った歩道橋を、見ず知らずの女子高生が話しながら歩いていく。
 夜の街の五月蠅いネオン、車の騒音。
 信号待ちの、僅かな、けれど長い間。

「――――――――――――――――…知っとって訊くのは違反やで」

 相変わらず、耳に五月蠅い音。道路から伝わる振動。
 真っ黒な癖、都会の明かりに浸食されてきっと汚れた夜の空。星の欠片さえ、この地上からは微弱。
「…ってことは否定無し。末期だなお前」
「跡部に言われたないわ」

 お前かて、人の事言えんような有様やないの。

「――――――――――――――――……ま、どのみち関東大会初戦で会うだろ」
 吐息と共に吐き出された台詞。
 背中だけ向けられた言葉。
「そんなん、俺の望んだもんやない」
 点滅する、車道の三つの信号機。青。
「俺は、その他大勢と一緒に会いたい訳やない。
 お前かてそうやないの?」
 から―――――――――――
色。、へ。

 ふ、と小さく笑った気配。背中越しに。
 顔だけ振り返った、相変わらず自信家のように笑っている表情。

「否定はしねぇよ」

 ぽんと落とされた言葉。
 歩道を渡って行ってしまうその背をしばらく見送って。小さな息。


 せめて同じ空間にいたなら、こんなに悩み焦がれはしないのに。





「……………」
 PM6:40。
「………先輩、不二先輩の携帯さっきっから振動してんスけど」
 所用有りで現在は部室に居ない彼の、着替え終わってベンチに置かれたままの鞄。
 その横に投げ出された制服の上着から零れた携帯がバイブのままで唸っている。
「……あ、本当だってか。―――――――――――――非通知じゃん」
 誰だこいつ、と手には触れずに覗き込んで、菊丸が液晶に浮かぶ文字に一言零す。
「不二先輩、戻って来ないっスね」
「乾に手塚とあの面子で呼ばれてったからなぁ…」
 しばらく来ないだろ。
 なんて言葉が伝わるはずもなく、空しく振動し続ける携帯。響くベンチ。
 生意気ルーキーと黄金ペアの片割れ。顔を見合わせて、沈黙三十秒。

「……非通知だしな」
 金取られるわけでもなし、仲良い奴でもないだろ。
 と判断した菊丸の手からひょいと携帯を取り上げたのは、何処から戻ってきたのか長身のデータマン。
「人の、勝手に取るのはよくないんじゃない?」
「…乾、でもそれずーっと鳴って…」
「言い訳は趣味悪いよ。
 …へぇ、非通知の割りに長いね」
 手元の携帯を覗き込んで一言漏らすと、表情も変えずに通話ボタンをしれっと押す。
 電子音。二人が何か言うより早く、不二と一緒に戻ってきた、部室の入り口の手塚にそれをそのまま放り投げた。
「……――――――――――――――――乾?」
 手塚が訳もわからず受け取ったのは見覚えある不二の携帯。通話中の文字。
 カウントされていく通話時間。
 乾の意図は判らない。判らない事の方が多い。
 普通ならこのまま横の不二に渡すのが常道なのだが。

 なんとなく、不快な感触。そして、乾の行動。

 結びつければ更に嫌な感触しか見当たらない。
 耳に当てれば、ご名答の言葉が聞こえそうな。

『―――――――――――――…ぃ、聞こえとんの? 不二?』
 関西弁。思いつくのは、一人しか居ない。
『非通知やったん怒ってんの? しゃーないやん名前出たら切られそーやないの部長サンとかに』
「………手塚?」
 見上げて、手塚らしからぬ行動に露骨に訝った不二の表情と視線を合わせて。
 はぁ、と一息。

 つまり、おそらく―――――――判ってた? 乾は。

 非通知、なのに。

 一瞬だけそちらに走らせた不躾な視線に、分厚い眼鏡の奥で、口元だけ笑った双眸が見返している。
 もう一度、息を吐いて、耳の向こう、直接伝わらない声の主に、一言告げる。
 はっきり。

「なら―――――――――――――――最初から掛けて来ない事だな」
 その一瞬の、向こうの反応。声。
 電子音と一緒に敢えなく切れた通話。携帯をそのまま不二に返せば、相手を悟ったのか、からかうような微笑。

 僕は悪くない、よ?

 向こうから掛かってくるだけのものなら、まだいいけれど。
 わざわざ非通知で掛けた理由は、携帯の中に彼の名前が登録されているからじゃないだろうか。
 嘆息。混ざる感情なんて苦い物ばかり。
「…何をやっている。早く帰れ」
 普段通り、零された言葉に菊丸は不満げに、乾は片手の動きで、越前は視線だけを向けて、不二は笑って返事を返した。



 緩やかに、下り始めた坂。
 暗い空。外灯の、落ちる輝き。
 見窄らしいとさえ、感じた。
「でもさ、可笑しいっていうけどあれはツボに入った人じゃないとわかんないよね。
 僕は全然詰まらないと思うもの――――――――――――……聞いてないね、手塚」
 二人分の足音。
 ジトと見据えてくる、目線の低い瞳。
 何を話し掛けても、この調子。
「手塚、てーづか? …手塚、ねぇ」
 耳付いてる? 機能してる?
 なんて顔を覗き込みながら問い掛けてくる、声の軽い響きに、ざわざわと揺れている感情。
 聞きたくないと、答えずに歩調を速める。
 途中まで、慌てたように追っていた不二は、やがて諦めたように足を止めた。
 気付いているのかいないのか、歩調を止めない手塚の背中を見遣る。
「…………あーいうとこ、嫌い」
 ぽつりと呟いて、横手の曲がり角をさっさと曲がった。
 会話の一つすら、成立せず。
 暗闇の中、並んで歩くことが、沈黙が、馴れたつもりでも、結構辛いってこと。
(手塚は、ああいう人だから)
 と開き直っても、なおっても。
 高い星空。もう死んでいるかも知れない残留の輝き。自力で輝く、光らされた太陽より余程、力強く儚い。
 痛いんだって言ってる、星の欠片。




 がたんと、電車が酷く雑に揺れた。
 時折揺れる事のある線路だ。普段は気にも止めないのだが、その後がたがたと小刻みな揺れが来るはずなのに、来ない。それどころか振動もない。
 流石におかしいと思って、不二は閉じていた眼を開いた。
 その日は平日で、その上昼頃、あまり人が乗らないような位置の両に乗ったから、車内はがらがらだ。遙か向こうの方に、あの揺れにも負けず逞しくうたた寝している人影が一つ、同じ車内のなかで目に付くだけだ。車間の硝子窓の扉越しにも、数人の影だけ。
 皆不二と同じように、きょろきょろと視線を上げている。
 平日と言っても、不二は学校を休んだわけではない。県民の日なだけだ。そして此処は東京ではない。だから揺れるのだが。
 故障、かと思った。
 窓越しの風景は中途半端に建ち並んだビルと民家の群。畑は見えない。木々がまばらにあるだけだ。空は鬱蒼とした色。雨でも、降りそうな。
 電車は止まっていた。
 駅でもないのに、停止していた。
 しばらくしてアナウンスが入る。
 少し先の踏切で、人身事故があったらしい。
 理由が判って安心したわけではないが、不二は再び瞼を降ろした。
 急ぎではないから、別に時間のロスはどうでもいい。眠いわけでもないが、暇潰しの道具がない。本でも持参すれば良かったと悔やむ。
 適度に入った冷房が心地よい。薄いシャツを僅かに揺らした。
 靴音がする。車間を移動しようとしている誰かの靴音だ。暇なんだろうな、そう思っていたらこんと頭を小突かれて吃驚した。
 瞼を押し上げて、見上げた先に見覚えの、薄い、人の顔。
「おはよーさん」
 からかうような声で、にいと笑って言った。
 少しだけ長めの髪。標準語ではない口調。
「……っと……忍足、君?」
 朧気な記憶を手繰って呼べば、そや、と満足げな返答が返った。
 思い出してみれば、どうやら先程の逞しいうたた寝の人は彼だったらしい。


「お互い災難やなぁ、閉じこめられてしもうて」
 そうは言うが、とても災難には見えない彼の表情に喋り方。
 お互い私服で顔を付き合わせる機会など皆無で、新鮮だ。
 不二と向かいの椅子に腰掛けて、暇潰しの相手を見付けたとばかりに忍足は会話を繋げる。正直言って楽しい。会話運びの上手い乾とは違った楽しさがあった。他校生であり、負けた学校の生徒でもあったが、休日にまでそんな事を持ち出すほど不二は心の狭い人間ではないし(相手にもよるが)暇を持て余していたのも事実だ。
 テニスというより、関係ない世間話や笑い話などに花を咲かせて、それでも電車はまだ動かない。停止した変わり映えのない風景に意味もなく視線を向けていた頃、忍足がふと“どこ行くん?”と訊いてきた。答えない理由もないので答えると、一緒と笑った。
「学校も休み。部活も休みなんて久々やし。
 折角やから遠出してみよ思たんよ」
 したら電車止まりよるし。
「不二は?」
 他の誰かが呼ぶのとは微妙に違うイントネーションに小さく笑いながら、不二は傍らの鞄からカメラを取りだしてみせる。
「僕も、折角だからね」
「写真、好きなん?」
「うん」
 一枚撮ろうか? なんてふざけて問えばいややわ恥ずかしいなんて言いながらポーズを取ってる彼が居て。
 小さく吹き出したら、“ウケた?”と言われた。
 しばらくして電車も動き出して、話ながらまた、停車駅まで向かう。
 駅について、そこでおさらばという理由がお互い無く。
 見ようと思っていた写真展に付き合って貰った。

 忍足がじーっと、とある一つの写真を見たまま動かない。
 気付いてからしばらく、面白いモノ見たなぁと思って見物していたが二分経ってもそのままだったので、声を掛けた。
「どうしたの?」
「ん? あー、これな」
「“日常の欠片”…、これがどうかしたの?」
「写真自体は別にどーでもええんやけど」
 まぁ確かによく撮れてんのは判るんやけど。
 そう付け足しながら、指を指す。写真自体に触れないで、少し離れた指し方。
 指の先に、ぼんやりと写った看板。
「…これが?」
「“無断駐車禁止”ってあるやろ?」
「うん」
「その横のな…。“罰金100万円”ての」
「……まぁ、無視して止めたら払う義務あると思うけど」
「さらに横、“車はスクラップにします”」
「……………」
「………どんなとこや」
「知らない」
 本当にやるんだろうかこの注意書きと思うと同時に、よくそんな細部の注意書きなんか見付けたなーと思う。じっくり見てないと見付からない程小さい。
 ひょっとして彼もそれなりに写真は好きなんじゃないだろうか。
「昼、食べ行く?」
「ああ、もうこんな時間なんか」
 何処行く? 適当でええわ。なんて会話をして、写真展を出た。
 陽が高い。東京よりも、青い空。
「そういや、不二よくこういうとこ来んの?」
「時々ね。休みで、気が向いたら」
「一人で?」
「だって、興味のない人連れてきたって詰まらないから悪いでしょ?」
「まぁ、そやな」
 馴染みのない道路を歩く。二つの影が短く落ちていく。電柱の上に、止まった鳥達の騒ぎ。道端の店の静かな空気。
 こういう所は嫌いじゃない。静かなのも、嫌いじゃない。
 そう思ってから、ふと気付く。
 彼との沈黙も――――――――――――――――嫌いじゃない。
「忍足は?」
「俺なー……。大抵部活休みん時は家で暇しとるか街行くかテニスやっとるか…。
 気分次第やな。時たま岳人辺りが映画とかに誘ってくるんやけど…あ、向日の事な」
「時たまって事は割合一人?」
「そーやな。現場で落ち合わん限り。
 岳人もなー誘ってくれるんは有り難いんやけど、」
「…有り難いんだけど?」
「あいつ、劇団四季とかサーカス好きなんよ」
 他の人が聞いたら別段変な趣味でもないのだが、忍足の言い方と変な表情が絶妙であった上に、なまじ相手を知っているから不二はつい吹き出して、危うく買った缶ジュースを取り落としそうになった。
「付き合わされるんや。断る理由もないから付き合うんや。
 別に嫌いなわけやない。ただ、突っ込みたくなるんや分刻みで」
 語尾だけ強調して言えば、不二は横手でけらけらと笑い続けている。
「い……いいじゃない劇団四季。僕好きだよ」
「俺かて嫌いやないわ」
 けどなぁと後に続く言葉は容易に読めて、それがまた更に可笑しい。
 少しの間笑って、弾んだ心臓を沈めようと缶を開け、冷たい液体を流し込む。
 ファミレスか何処か。着くまでの長いのか短いのか判らない道の過程で。
 ふと、どちらからでもなく口にする。
「行く?」
「行くか?」
「気が向いたら」
「暇な時やな」
 顔を合わせて、お互い小さく笑って。
 携帯番号を教えあって、じゃあ暇な時に見に行こうかなんて、口約束の成立。
 折良く見付けた、ファミレスを軽く指さして入った。
 忍足は和風ステーキとアイスティー。不二はパスタとカフェオレをそれぞれ頼んで、店内のささやかなBGMを聞くでもなく耳に入れる。
「そういや、休日って何しとんの? 写真展とかはたまにやろ?」
 先に運ばれてきたアイスティーにストローを放り込んで、ふと思いついたような台詞を口にした。不二は軽く首を折って、くすりと笑った。
「君とあんまり変わんないよ。家にいたりテニスしたり、友達に誘われて遊びに行ったりとかね。あとは裕太んとこ」
「ああ、弟君な」
「そう」
「恋人とかおらんの?」
「あ、いそうだった?」
「何となくや」
「忍足だっていそうじゃない」
「そか? そーやなそれなりにモテるで。でも生憎フリーや。
 女癖悪いんは跡部やな」
「あぁ…」
 それっぽいなぁなんて笑いながら、不二はひっそりと息を吐く。
 あまり気にした事ではなかった。
「で、いるん?」
「どっちでもいいじゃん」
「俺は答えたやん」
「じゃ、いない」
「“じゃ”ってなんやめっちゃとって付けたみたいやん」
「いる?」
「俺に聞くなや」
「あはは御免」
 くすくすとしばらく笑って、窓の外との明るさの差違に少し、違和感を感じてみる。
 昼間にレストランに入れば、外の方が明るく見えるのはいつもの事なのだけど。
 からからと、僅かにむすっとしてストローをかき混ぜる忍足の表情が、可笑しくて。
 子供のようで。…違いすぎて笑う。
 彼はそんな風に、拗ねない。
 あまり、気にした事じゃなかった。
 手塚と、似てるかもなんて。
 話してみて、全然似てない。気にした事じゃなかった。
「……いるよ」
 ぽとん、と。ストローから伝って紙に落ちた水滴のように。
 ぽつん、と。落としてみる。
「いる、かな」
 笑顔で、答えてみた。
 テーブル向こうの、妙な沈黙も、構わない振りで。
「別れたいんか?」
 真顔で、そんな事を問われたのは初めてで。
 ぎくりとする。平静を装って笑うけれど、視線は刺さる。
「なんで?」
「“かな”っておかしいやん。自信持って言えへんのやろ」
 ごもっともだ。鋭いなぁと思う。
 だけどそれは間違いだ。…多分。
 別れたいのは“自分”じゃない。
 それなら多分“彼”の方。
 半分、だから間違い。
「自信、なさげ?」
「幸せそうやない。
 大抵好きな相手と付きおうてるんやったらもっと嬉しそうにするか愚痴零すかや」
 一般論やけど。
 また、付け足して。
 運ばれてきたステーキに、切り目を入れる。
「倦怠期?」
「あははどーだろ」
 そもそもそんなもの来るの?
 付き合ってるって、言える?
 テーブル向こう、肉を口に運ぶ、彼の姿に。
 君が重なるなんて思わない。
 全然違うよ。
 けれど、甦るのは何時かの場面。



 教室で弁当を食べていた時に、ふと机越しに君が僕を見ているのが判った。
 試験の日だった。手塚も不二も委員会の用で残る理由があって、だから弁当持参だった。 誰も教室にはいなかった。自分達以外には。変な沈黙があった。重かったのを覚えている。
 箸を動かす僅かな音と、咀嚼音。外の昼の明るさと、教室の薄暗さのギャップ。
 春だった。なのに、夏のような濃い影が教室全体に落ちていた。息苦しさがあった。
 二人きりになると、決まって言う事があった。
「好きだよ」
 にっこりと微笑んで、一言。
 手塚は箸を休めないし、視線も向けてはくれない。それが常だから、何も言わないけれど。
「…好きだよ。手塚」
 誰もいないから言える。誰もいないから、言わせてくれる。
 一緒に帰る時もあるし、帰りを待っていても“帰れ”なんて事は言われない。
 特別な位置にいると思ってる。
「…手塚」
 告白したのは自分だ。微妙な関係に苛立って。
 この関係を捨てる覚悟に言ったのに、手塚は受け入れてくれた。
“じゃあ一緒に帰るか?”なんて素っ気ない返事ではあったけれど。
 それから、キスもしてくれるし、抱き合うこともするから。気持ちは通じたのだと思う。
「…………………てづか」

   ボク  一度      











 
言われた事はない



 まだ同じBGMが流れている。
 外との明るさの落差。夏色の濃い影。
 ずっ、とアイスティーの残りを飲み干して、忍足は今更のように口を開く。
「笑わんでええ」
 きょんとして、首を傾げる不二に視線を一度合わせて。
 紡ぐ。外は明るく、通る人の影は黒い。電柱のすり減った色。四方に伸びた鉄線。
 一体何処まで。
「無理してまで、笑わんでええ」
 ことりと置かれたグラス。
 同じように首を傾げて、嘲るように笑った。自分に。
 あぁ痛いなぁなんて思いながら、逆らって笑った。
 笑う不二を、忍足は眉を寄せて見ていた。




 一ヶ月昔の話だ。
 幾度か角を曲がって進むと、大通りに出た。
 歩道橋を渡るのも面倒で、信号が変わるのをただひたすらに待つ。
 背後から声を掛けられて、それは驚いた。
「……忍足」
 ふわり、と笑って名前を呼ぶ。自分より、身長の高い彼。
「ごめんね? さっき」
「ええわ。切ったの部長サンやし」
 せめてメールにしとくんやった。なんて呟く。
 ごうごうと、音を立てて通り過ぎていく車の轟音。ライトの群。眩しい。瞼さえ通り抜けて、瞳に届く。
「なんかあった?」
 不意に、不意打ちみたいに聞いてくる彼の言葉に。
 信号が青になるまで無言でいたら。横断歩道に足を踏み出して手を差し出して。
「行こか」
 と言われた。




 がんがんと音がする。
 鉄製の階段を強く蹴ると、繰り返し鳴る。
 廃ビルのような風情の建物。屋上は冷たい風が渡って身に染みる。
 夜の暗さ。月の暗さ。
 対比のような、彼の。
「俺、呼び出されるような事やったっけ?」
 強い風に流される衣服の裾や、眼鏡にぶち当たる風圧を無視して話す。
 お互いに眼鏡越しの瞳。自分の方がずっと分厚い。
 適当に羽織ってきたから、夏なのに寒い。
 尖った自分の髪が、風に寝かされて僅かに湿る。
「おーい。答えないなら俺帰るよ? 手塚」
 データ整理しなくちゃいけないんだ。暇じゃないんだよ?
 私服の自分。制服のままの彼。背中、伸ばして。孤高の獣のように、一人。
 大股で歩み寄って、自分より僅かに低い男の手を乱暴に取ったら、案の定睨まれた。
「俺、暇じゃないから。帰るよ」
 一方的に言い捨てて、乾は手を離すとくるりと手塚に背を向けた。
 風に煽られる上着の裾。くんと引かれて、足を止めた矢先に、今度は彼から腕を掴まれて振り向かされた。
「知っていたのか?」
 押し殺したような、感情殺したような、低い声。
 睨み付けるような、この距離では身長差をあまり強く感じない。暗いからかもしれない。
「何が?」
 判っていたけど、知らない振りで答えたら腕を痛いくらいに握り込まれた。
 僅かに眉を寄せたけれど、この暗さと眼鏡の所為で手塚には見えていないだろう。
「…何が?」
 ぎりと噛み締められる歯。どれほど、苛立っているか一目瞭然に判るのは、本当珍しいと思う。
 掴まれた、右腕は相変わらず骨の軋むような痛みを訴える。
 手塚から目を逸らさずに、乾はただそれに堪える。
 逸らさない瞳。お互い。惰性のような沈黙。
 月光、密やかに。
「………………知っていたんだろう………。着信相手」
 絞り出すような声で、伝う。彼の言葉に乾は内心で“へぇ”と呟いた。
 言えるじゃないか。
「忍足侑士?」
「…………知っていたんだな」
「一応ね。氷帝は去年も当たったし。
 何時だったか誰か、君に似てるって言ってたし」
 ぴくりと、上がる眉。込もる腕。手加減されていない力に、腕はいよいよ悲鳴を上げる。 これ以上力を込められると困るんだ。本当に。
「仲良かったみたいだから。非通知で長く掛けてくるなんて。ああ多分彼だなと」
 思ったんだけど。
 台詞を落とすと、苛立ったように結ばれる彼の唇。
 痛い、な。
「どうして」
「どうして?」
 それこそ愚問だ。
 唇が吊り上がる。
 風の音は五月蠅い。
「どうして、俺が教えてやらなきゃならないの? 俺は不二の“恋人”さんじゃないし。
 割のいい探偵でもないよ」
 生温い夏の風。それさえ、冷たい。
 まだ、始まったばかりの夏。
「自分で気付けばいいじゃない。
 気付かない方が馬鹿なんだよ」
 呼吸を、手塚が一旦止めた。
 声にならない程度の音量で、『乾』と呟くのが見えた。
 ようやく離された腕が、だらりと落ちる。
「惰性で付き合ってるなら捨てな。
 好きなら勝手にしなさいよ。
 俺は都合のいい相談役じゃない。引っかき回さないでくれる?」
 黙りこくったままの、手塚の髪をくしゃりと一度だけ撫でて、今度こそ踵を返す。
 鉄製の階段の前で、ふと下に投げた視線。




 並んで歩いていて、ふと気付いたのは歩調の速さ。
 合わせてくれていると気付いて、女扱いみたいだと悔しくなったけれど、嬉しくもあった。
「飯食ってこか?」
「そーだね」
「どこ?」
「何処でもー…、でもファーストフードの方がいいかな」
「そやな」
 お互い制服やし。
 似たような音を刻む足。道路の継ぎ目に流れ込む、何処からかの水。
「そういえば、電話。用件、なんだったの?」
 前の、約束のこと?
 上目遣いで聞いてくる、不二の頭を一回小突いて、忍足は口だけで笑う。
「そやない」
「?」
「そやないよ」
 言い聞かせるみたいに繰り返して、不二の背中を一度叩いた。
「はよ食お。話はそっからや」
 暖かい、体温が背中から伝わって、不二は緩く一度、微笑んだ。
 うん、の変わりに。


 忍足は楽しかった。他愛ない笑い話はなかなか尽きなくて。食べるときも口を動かしながら突っ込みは忘れず、時折人のポテトを強奪したりして。自分から言葉を振らなくても、会話は途切れなかった。楽しかった。敵だなんて、大会が近いからなんて、呵責なんてなかった。楽しかった。
 手塚と比較なんてしなかった。出来なかった。

「うーん……」
「お前割とよく食うわ」
「部活の後だからねー」
 欠伸をして、身体を一度伸ばす。
 騒がしい街の通りを通過して、人気のない道に入る。
 お互い帰り道はそちらだった。不二の家はどちらかといえば氷帝に近い。
 徐々に遠ざかる喧噪が、名残惜しく感じた。
 街と月の明るさに、暗闇に、濃く影になる民家の屋根。
 ところどころの、外灯が見窄らしかった。前みたいに。
 途中まで話していた会話が途切れて、それからお互いに無言になった。
 不二にしてみれば、忍足が急に言葉少なになったと感じたから。
 普段そんな事はないのに。破りがたい沈黙だった。破っては行けない沈黙のようだった。
 ふと思い至る。
 手塚との沈黙も、こんな感じだった。
 足音だけが音だ。遠ざかった喧噪は最早何の意味も持たない。
 背中を向けた、通りの向こうを勢いよく交差する車が、クラクションを響かせる。
 点滅しては、数秒保つ、外灯。
 飛び交う虫。
 塀からはみ出た木の枝と、明々と、ぽつんと置かれた自動販売機。
 何か買う? と問い掛けた不二に忍足は一瞬の逡巡のあと頷いた。
 財布を取りだして小銭を放り、目当てのボタンを押す。
 忍足が頼んだものも買って、手渡そうとした時一度指先が重なった。
 どうという事ではなかった。ただ、静かすぎた。
 そのまま、忍足は不二の手の平ごと缶を握り締めた。
「…………忍足?」
 見上げる瞳に、見下ろしてくる深い色の双眸。
 お互いの呼吸が、鮮明に耳に届いた。
 鼓動が、勝手に脈打つ。音が身近でする。
 忍足が何かを言った。聞こえなかった。
 え? と僅かに身を前に進めた瞬間、ぐらりと傾いだ眼前の身体が覆い被さるようにのし掛かった。
「………………お」
「好きや」
 首筋に息の掛かる距離で、不二の肩口に顔を埋めて。
 確かに、忍足はそう言った。
 手は、握り締めたままで。
「…お前んこと、好きや」
 時が止まったなら、こんな静けさなのだと思った。

 いつもより、早く脈打つ鼓動が、彼に伝わらないか気が気でなかった。
 動けなかった。シャツ越しに感じる体温、彼の呼吸。息。
 喋る声に、振動が身体に伝わってきた。
 熱い。

「……………………………………………………………忍足」
 握り込まれた、手の平が熱い。手に持った缶が冷たくて、対照だった。それがおかしかった。
「………………忍、足」
「不二」
 名を呼ばれて、びくりとした身体を押さえつけるように肩を掴んで、忍足は顔を上げた。
 真っ直ぐに見下ろして、紡ぐ。
「好きや。…俺じゃあかんの?
 あいつやないと、駄目なん?」
 絞り出すような、声を、注意して聴けば彼も震えているのだと、判った。
 返事を、緊張して待つように。怯えて待つように。
 精一杯目は逸らさず、真剣に。いつもの影など微塵もなく。
 ただ、佇んで。
(……………本気なんだ)
 同調できる怖さ。怯え。決して同じではない、同じ。
(………怖いよね。怖いよ)
 返事を待つ間の、どうしようもない衝動。
 同性だからという、マイナスに傾きそうな要素。
 Yesと答えて、終わりじゃなかった。
 気が気じゃなかった。捨てられないか。
 我慢できた。出来なかった。だって怖かった。
 言葉少ない君。
 何時だって、怖かった。
 好きの言葉が、精一杯になってしまった。
「…………あいつとなんか別れ。
 好きなんて一遍も言ってくれへん奴となんか別れ」
「……………………」
 何時だって、欲しかった言葉だったのに。
(……惰性、だったのかな)
 我慢、続いたのは惰性だったのかな。
 このまま、別れても眉一つ動かさないかも知れない。
 好きなんて、初めからなかったのかもしれない。彼の中には。
「………………も」
 それでも。
「………『それでも、僕は、手塚が――――――――――――――――…』」
 好き。
 好きじゃないなら、チームメイトのままでいられた。勝ちたい相手のままでいられた。
 苦しくなんか、なかった。
「なんで? なんでやの?
 ええやんか。不二ん事、大切にしてもくれへん奴なんか。
 忘れよ? どんだけでも…待つから」
 跳ね上がる鼓動は、自分だけのものじゃない。
 好き。
(好きだ。好きだ。好きだ)
 頭の中は飽和状態。保つラインはとっくに越えた。
 泣くまでのギリギリのボーダー。もう位置が判らない。
 自分の表情すら見えない。
「…………………でも……帰り、待っててくれた。一緒に」
(御免なさい。どれほど酷い事を言っているか、判っている)
「……いつも」
 前髪を掻き上げられる、体温の高い手の平。
 泣きそうになった瞳に唇を寄せて、拭って。
「………もうええ。ええよ」
 一度だけ上向かされて、キスを受けた。
 数度唇が触れて、なぞるだけのキス。
 泣きそうなのは、誰だろう。
「………でも、好きやから」
「……うん」
 どうしようもないよね。捨てられるものなら捨てていた。
 感情の渦。何時だって飽和していた。
 溢れて流れて、それで終わりじゃなかった。
「………ごめんね」
 忍足はただ、小さく微笑んでいた。
「……謝らんでええよ。
 でも、覚えといてな」
 抱き締められる温もりを、黙って受ける。
 耳元に当たった心臓の鼓動は、同じように早かった。

 間近くで、がんという音がした。

 寧ろ、かん、かもしれない。
 何かと、忍足を見上げたら不二を抱き締めている手の片方はそのままに、片手で後頭部を押さえ込んでいる。
 何だろう。
 はたと、左方向を向いて、吃驚した。
 心臓も、一旦止まったような衝撃を受けた。
 とにかく驚いた。
 手塚がいた。
 二人から二メートル程離れた位置に、暗闇になった影で、表情は曖昧な姿で。
 その遙か後方に、小さな街の明かりが見える。
 茫然としたまま、目線を追えば、反対側に中身がどぼどぼと零れている缶ジュースが転がっていた。
「…………何、すんねん。
 せめて中身全部出しなや髪がべたつくやんか!」
「……………そういう問題なの?」
「……………突っ込み所やったん」
 暗闇では見難いが、忍足の髪からぽたぽたと雫が落ちている。
 何のジュースだかは知らないが、べたつくのは当然だろう。
「……離れろ」
 こんな、押し殺した声は初めて聞くと思った。
 返答を待たずに大股で近づいた手塚が、力任せに不二と忍足を引き離す。
 掴まれた二の腕がはっきり言って痛い。
 憮然として、睨み付ける忍足の方を向き、手塚は一呼吸息を吐いた。
「不二に触るな」
 ひくりと、頬が痙攣するのが判った。自分から見えるのは、手塚の背中と忍足の表情。
(……はぁ?)
 率直に思った。そう。
「……なんやそれ。自分のもんのつもりなん?」
「そうだ」
「……阿呆抜かすな。好きの一つも言えへん男が今更なんのつもりや。
 人に取られんのが腹立つだけか? 五つ六つのガキと一緒やそんなん」
「五月蠅い。お前が何を判ったつもりで言う。
 俺は」
 続くはずの、手塚の言葉は遮られた。
 不二によって。不二が肩を力任せに掴んで自分の方を振り向かせたからだ。
 手塚が何を言うより、忍足が何を反応するより早く。
 振り上げた手が、手塚の頬を思い切り張っていた。

 沈黙が、もう一度あった。

 手塚を真っ向から見据えて、不二は一度だけ声を張り上げる。
「死ね!」
 言われた方も、一場面をそのまま見てしまった方も茫然としている中。
 不二は一言、忍足に“有り難う”と告げて駆けていった。
 先に凍結から我に返った手塚が後を追うのを、そのまま見送ってしまった忍足の頭に、ぽすりとタオルが掛けられた。
 驚いて振り向いた先で、乾は佇んだまま肩を一回だけ竦めた。
「よく判らないけど、お疲れさま」
 ぽんと放られた台詞。
「……………お疲れやないわ」
 俺完全に間男やないの。
 ぽつりと呟いて、通りの果てをただ見つめた。
 本当に、好きやのにな。
 聞かない振りで、自販機に小銭を入れている乾が、一度だけ空を仰いだ。




 随分走ったと思う。
 息切れした呼吸。跳ね上がる心臓は、決して運動によるものだけではなくて。
 点滅し続ける外灯。折れ曲がった道の角。塀からはみ出した木々の暗さと月明かりの見窄らしさと。つい先程の事のように甦る。言葉もなく別れた帰り道。
 漏れそうになる嗚咽を抑えて、空を仰ぎながら足を惰性のように動かした。
 泣きそうになるのは、違くて。
 零れそうになる雫は、どうしようもなくて。
 不意に人の足音を捕らえて弾かれるように振り向く。
 一瞬頭に浮かんだ通りの姿。駆けてくる足に迷わずアスファルトを蹴った。
 自分の名を呼ぶ声なんか、耳から耳を抜けていくように思った。
 伊達に走らされていたわけではない。そこらの男より走れる自信はある。
 ただ、同じくらい彼も走っているという事実もあったが。
 背後を一度も振り返らずに、ただ鼓動と地面を蹴り上げる足の感触が同じ列に並んで音を刻んでいるのを追っていた。
 靴裏が蹴っているのがアスファルトではなく生乾きの土に変わったと、感触で悟ると同時に、今更にそこが公園であると気付いた。視覚で捕らえていたのに、すぐに理解していなかったらしい。
 濃い色の木々と虫集めのような外灯と、ベンチ。自販機は端の方に見えた。水道と、公衆トイレの側にも明かりが見える。
 そこで初めて振り返った。彼の姿はない。
 諦めたのかなと思ったら、安堵よりも落胆の方が強かった。
 誤魔化すように何度も息を吸ったら、反動で涙が溢れた。
 止める気が、なかったからそのまま流した。
 喉が渇いたなと思った。単純に。
 疲れたなと思った。
 忍足に悪いことをしたと思った。ジュース頭に被ったまま、置いてきてしまって。
 受け入れる幅は自分の何処にもなくて。
 これで彼との繋がりが失せても、忍足のことが嫌いではないから尚更いい答えなんか出来ない。
 自分が一番情けな過ぎて、仕方がない。喉が痙攣する。頬に、引きつったような冷たさ。
 呼吸さえ苦しくなって、心臓が怖い程の速さで動いている。
 荒げた息と、耳の側で響く体内の五月蠅い音でまともな聴覚は失せていた。
 右の肩をもの凄い力で掴まれて、心臓が飛び跳ねる。
 短い悲鳴が勝手に上がって、思わず眼前に立った相手に手を振り上げていた。
 小気味いい音と共に、上がった小さな声と、急激に冷める熱。
 二度も打たれた頬を軽くさすって、手塚は真っ直ぐに不二を見下ろしていた。
 暗闇の中でも、確かに。
「……………手、」
 心臓が、まだ五月蠅かった。
 一度離された右肩が、今頃痛い。無言で佇む彼から逃れるように後退ると、同じ速度で近づかれた。
 自分だけ泣いているのが、滑稽に感じられる。
「…………………………手塚」
 彼の頬を打った手が痺れていた。感情が酷く萎縮しているのが判った。
 恨み言を吐くような力は欠片もなくて、泣くことしか出来ず、上がりかける声を抑えていた。
「……………泣くな」
 囁くような声。苛立ちや強制力は何処にもなくて、ただ低い声がそれだけを伝えるように響く。
 伸ばされた手が、頬を掠めた瞬間に不二は思わず身を退いていた。そうしようと思ったわけではない。
「…………泣かないでくれ」
 非難する事もしなかった。ただ、手塚は同じ言葉を繰り返すだけだった。
 だからまた泣きたくなる。止まらない雫は何度も頬を伝って地面に落ちる。
 心臓が痛い。
「…泣くな」
 両の頬に伸ばされた手に、今度は退かなかった。包まれるように頬に手を寄せて、手塚は一度額に唇を落とす。緩くされる口付けと言葉に、皮膚が小さく震えた。
「………………っ………無理」
「……どうして」
 返ってきたのは優しい声だった。叩いた自分を責める口調など何処にも感じられない。
「……………けな」
 だから、するりと口を吐いた。
 痙攣する喉に阻まれて、声は上手く空気を震わせなかったけれど。
「………情けな……っ………………………」
 眼を閉じると余計に涙は頬を流れて。彼の手も濡らした。風が気まぐれに髪を流す。
 しゃくり上げる、上手くいかない呼吸。口元を抑えて泣く不二の頬に手を添えたまま、手塚は黙って言葉を聞いていた。
「………今更そう…いう事言われて……、忍足に酷いって判ってんのに……っ。
 …今更ふざけてるって思うのに…あんな事言われて馬鹿みたいに喜んでる自分が情けない…!」
 ぼたぼたと地面に落ちて染みを造る水。暗闇の中では見えない。
 手塚の指先が耳の後ろを緩く撫でて、微かに震えた身体を抱きすくめられた。
 彼の呼吸が額に掛かる。熱い。
「…………不二」
 鼓動、押しつけられた布越しの胸。
 同じくらいに、早い。
 無意識の内に眼を閉じて、不二はただその心音を追っていた。



 しばらくして、不二は風の寒さに思わず身を震わせた。
 夏とは言え、夜の公園は当然寒い。
 レギュラー揃って風邪を引くのも馬鹿らしすぎて、押し返そうとした胸は、強い腕の力によって阻まれる。
 呼ぼうとして顔を見上げた瞬間に、額に生暖かい感触が降りてきて身を竦める。
 力の抜けた一瞬を見計らったように、身体を持ち上げられて半端じゃなく驚いた。
 彼が缶を投げたとかいうことより驚いた。御陰ですぐに状況把握が出来なかった。
 手塚の顔を見下ろす形になって、瞬きをする双眸に緩く微笑んだ表情が映る。

「好だ」

 脳に声が達するまでにいやに時間があって、顔が赤くなったと自分で自覚する間に彼の肩口に顔を押しつけられていた。
 ずっと言おうとしていたんだなんて聞き取れないほど小さな言葉は、聞こえていたけれど反応なんか返さないつもりで。服にしがみついた。
 外灯の下で改めて見た手塚の頬にはくっきりと引っ掻いた爪の赤い筋が残っていて不二は慌てたのだけれど、手塚は別にどうでもよくて。
 引き寄せた唇にキスをした。





 車がひっきりなしに通る車道は、何時か事故でも簡単に起こりそうな光景であって。
 歩道橋の上から見ても、そのまま落ちれば確実に死ねそうだ。
「なんやのあいつ」
 横手から降った声に、乾は振り向きもせず手に持っていた缶を向けた。
 数秒あって手から離れる。
「だから、馬鹿」
 向きもせずに答える。ぷしゅと、押し開けられた缶の蓋。
 開けたままの自分の缶を、手と歩道橋の手摺りの間で揺らしながら、乾はぼんやりと早く帰らないとななんて考える。
「…俺はほんまに間男かいな」
「だろーね。あれ相思相愛だもん手塚が馬鹿なだけで」
「…馬鹿バカよく言うわ」
「馬鹿じゃない? 言うタイミング逃して言ってなかっただけだよあれ。一ヶ月くらいならまだ判るけど付き合ってもう半年は経ってるってのに」
「…つまりお前も間男か」
 忍足の声は妙に脱力していた。
 振られた直後にしてはいやに呆れてもいる。
 乾はそこでようやく振り向いて、手を横に振った。
「や、違う違う。
 俺は巻き込まれ。言うなれば愚痴の捌け口」
 そんな風に無表情にしれっと言う事ではない気もしたが、忍足は何となく頷けてふぅんと呟く。
 そろそろ帰らなければなんて思うのはお互い様で。
 冷たいジュースが喉に適度な刺激を残して胃に落ちる。
 全部飲み干して、力を軽く込めればぺきりと潰れる缶を手に、忍足は下から吹き上げる生暖かい風を無言で受けた。
「ほな、もう帰るわ」
 数滴くらいは残っていそうな缶を逆さまに掴んで、振り返った乾に唇を押しつける。
 流石に即座に言葉を紡げなかった彼に手を振って。
「不二のキス。返しといて」
 嫌がらせとばかりにそんな言葉を吐いた。
 痛む心臓は今はただ感じるままに。
 果たされていない約束くらいは、せめて果たさせてくれるよう思いながら。

 辛うじて缶を落とさずにいられた乾は、忍足を見送った視線方向のままで呟く。
「………つまり、俺が手塚に返せっていう事?」
 ほぼ丸々残っているポカリを喉に流し込んで、波風立てるなら全国大会が終わってからだなと口の端を無理に上げた。