【 自転車に乗って 】
「白石! 丁度よかったわ! 本部に連絡行ってくれるか?」
全国大会二日目。そう自分のところの顧問に呼び止められて、白石は頷いた。
他に別に用事もない。自分たちの試合は終わったし、他の部員は好き勝手な場所にいる。
「ほな、これ使えや。借りた」
しかし、そう言われて託された移動器具――――――詰まるところ自転車、を見て白石は声に出さず思った。
それは、やめてくれ。と。
「白石! 今日暇か?」
昼休みに声をかけてきた謙也に、多少寝ぼけた頭でなんやと聞く。
別に授業中寝てはいないが、今日はどうも朝から眠かった。
引退後、暇なのか謙也が白石や千歳らをテニスに誘うのは増えたので、予想もついている。
「ええで?」
「そか! 今日は光も来る言うてな」
「待て、財前はアカンやろ。部長やろが」
「あいつは部活終わった後や。今日は五時で終わるんやと部活」
「ああ」
そういうことか。と頷く。
その時、携帯が振動した。白石のだ。
謙也に一応言ってから見る。
しかし、送り主を見た瞬間に、白石は内容が予想出来たし、実際予想通りで。
故に、白石は謙也に断りを入れるハメになる。
「すまん、謙也。やっぱ今日アカン」
「は?」
「ちょお、空けられんわ」
「今ええって言うたやんか」
「無理なもんは無理」
「はぁ?」
納得いかない、という謙也を無視して立ち上がる。
しぶとく背中にぶつかる声も、聞かないふりをした。
「白石さん。それ癖っすか?」
家の近所のハンバーガーショップは謙也たちに見つかるおそれがある。
白石が彼との待ち合わせに使うのは、四天宝寺生徒が滅多に近寄らない私立の高校近くのショップだった。
かといって、不良が多い場所ではない。でなければ、場合によって自分より早く来る彼を、一人でいさせるのに不安でしょうがないだろう。
「癖?」
「なんか、まずそうに食べてますよね、って癖」
「………そんなん初めて言われた」
「なんていうの? わざわざ一個ずつとか、ハンバーガーも一口食べたら紙に包んでとか、…神経質じゃないのは知ってるんで。じゃあ癖なのかな?って。まずそうに見える」
「……丁寧に食べる癖、かな」
「ふうん」と、彼――――――――越前リョーマは一応頷いてくれた。
白石は、越前こそ小食な雰囲気だと思っていたが、彼も矢張り年頃の運動部の男。
食べっぷりは汚くはないが、勢いはいい。金太郎と違って伏し目がちでおとなしい印象だから、丁寧な風に見えていた。
「家系の問題やから」
「カケイ」
「もうおらんけど、祖母ちゃんがな、長男として相応しい振る舞いを、ってうるさかったんよ。食べ方とかも絶対滓零さんようにって、やから、癖かな」
「…ふうん。長男スか。白石さん」
「越前くんはちゃうん?」
「……、親父の子ドモとしては、長男」
微妙な答え方に、白石は固まった。地雷を踏んだかもしれない。
その白石の当惑に気付いて、彼は笑った。
「別に白石さんが危ぶんでるような意味じゃないよ。
単に親父が養子にした人が上にいたな、って。ふらっといなくなって、この間再会したけど、無事に生きてるっぽいから別にいいや。それだけ」
「…そうか」
「だから、別に白石さんが困ることでも、ジライ踏んだ?って気に病むことでもない。
逆に俺だって、あの時白石さんのジライ踏んだって思った」
「…あー」
コトは、全国大会二日目、白石が自転車を渡邊に押しつけられたことに始まる。
白石は迷った末、自転車を転がして本部に歩き出した。
本部に用件を告げて、戻る道だった。越前に会ったのは。
「あんた、乗らないの?」
「ああ、越前くん。青学、今暇なんか?」
「休憩。あんた、乗らないの?」
「…乗れないんや」
追求を誤魔化すだけ無駄だと悟った白石は白状した。そもそも、こういう幼い子供の真っ直ぐな疑問をはぐらかせる精神に、白石の心は出来ていない。
お前は子供に甘すぎなんや、母性があるんとちゃうんか、とは小石川の談。
「…乗れない? 乗ったことがない?」
「いや、…俺、バランス感覚が死んどんねんな。体育の先生の言葉やけど」
「…?」
「あー、平均台はアカンってレベル。わかる? 上って落ちて、の繰り返しってこと」
「…ああ」
「やから、自転車は乗れへんねん」
「じゃ、なんで持ってるの」
「うちの学校の部員、センセも含めて誰もしらんから」
「……はぁ」
興味も薄そうに呟いた越前だったが、次の瞬間、メモをひょいと渡された。
「?」
「俺の連絡先」
「あ、ああ、金ちゃんに?」
「あんたに。あんたの連絡先も教えて」
「………?」
なんで?と聞いた白石を、彼は笑って脅した。自転車乗れないって、ここで大声で叫ばれたい?と。
白石も別に、謙也たちにバレるならいい。少し悔しいし恥ずかしいが。
しかし、全国大会に来ている各地方の学校の連中にまで「大坂四天宝寺の部長は自転車が乗れない」というレッテルで見られるのは、矢張り堪えられず。
現在に至る。
「なぁ、俺、越前くんになんかしたん?」
「ふえ?…いえ、なんにも」
最初、食べ途中で不明瞭になった言葉を言い直し、彼はなんにもない、と言う。
父親の知人が大坂にいて、来る用事があるのかと言えばない。
しかし彼は頻繁に大坂に来る。白石に自転車を教えに。
年下に教えを乞うこと自体は別にいい。白石は、それが恥ずかしいという精神ではないからだ。
越前は最初、自転車を持って「どないすれば乗れるんやろ?」と真剣に聞いた白石に目を瞑った。「恥ずかしくないの?」と。
「え?」
「年下に教えられて、嫌じゃないの?」
「…? 別に? 今の年で自転車乗れん俺に問題があるだけちゃうん?
世の中年下にモノ教わるなんて、社会出てからやったらようさんあるやろ」
「…あんたって、もの凄く性格も基本通りなんだね」
「?」
「キレイ、ってこと」
褒め言葉、と彼は参ったように笑った。
白石が弱っているのは、いくら越前に大坂くんだりまで来てもらって教わっても、自分が絶対自転車に乗れるようにならない、と言い切れる自分のバランス感覚のなさである。
小学校の先生の「お前のバランス感覚は死んでるか端から持ってないかのどっちかや」は言い得て妙だ。天に二物も三物も与えられたから、これは余分だな、と引っこ抜かれたんじゃないか、生まれる前に、とはそれを知っている東京の幼馴染み。
「とにかく、ひたすら練習だね。基本でしょ」
「基本か」
「テニスだってそうじゃん。素振りをすっ飛ばす部員もうまいならいるけどさ、それは部活の話だよね。初めに習った時から、素振りすっ飛ばしてうまくなれる人っているの?」
「いや、おらんな」
「白石さんのイイトコはね。そうやって年下に諭されてしっかり頷いちゃうとこ。
恥ずかしがったりしないし、正しいことは聞くよね。素直っていうより、やっぱり基本の人。俺は、そんな人間っていていいの?って思うから、あんたに興味がある。
それがドウキ」
あっさり話された、大坂まで来る理由。らしくて笑ったら、そういうとこが、あんたはすごいと重ねて言われた。おおきに、と言ったら、また笑われた。
「キミはたまに言葉、カタカナ発音するな? やっぱり向こう生まれやから、漢字変換できんとか?」
「うん。出来る言葉も増えたけど、出来ない言葉も多い。
俺、最近やっと、白石さんの名前。『蔵ノ介』を漢字変換出来るようになった。
どう書くんだろ、って親父に聞いたら、大石内蔵助の字を最初覚えちゃった」
「あはは。…? 試合の時、掲示板にうつらんかった?」
「見てなかった」
「キミのその清々しさも才能やと俺は思う」
彼の教え方は決して上手くなかった。
人にモノを教えるのは得意じゃない、と彼。
「…なあ」
「ん?」
「俺、どんどん無理な気がしてくる。やってそもそも進歩せえへん…」
自分自身、ここまでひどいとは思わなかった。
教わってもう七回目。日付に直すと全部で一週間分。
…小学生でも一週間も学べば補助輪は外れるやろうに…………。
別に補助輪は最初からないが。
「諦めた方がええよ?」
「そう? 俺は最初から、実るのは半年かそれ以上って見込んでたし、このくらいじゃべつに」
「…そんなに致命的なんか俺のバランス感覚……」
人気の少ない道。路肩に座る白石と越前を風が撫でる。
「致命的なのは否定しないケド、そういう見込みじゃない」
「?」
「白石さんが、俺を好きになる見込み。半年はないと無理だね、って」
「…………………、ぇえっ!?」
「当たり前でショ? 好きじゃなかったらなんでわざわざ大坂まで」
声が裏返る程驚いた白石を冷静に見上げて越前は言った。好きだから、と。
「好きだよ白石さん。
あんたは一生自転車乗れなくていいよ。俺がそのうち乗せてあげる」
「……それ、会ってる意味そのままなくす言葉ちゃうんか…」
「イヤなの? 白石さんは」
頬を染めて、白石はそういう意味に考えたことがないと答える。
「考えて。俺、四天宝寺の誰よりお買い得。
将来的には白石さんより絶対身長高くなるし、絶対プロになるし、白石さんより強くなるよ。
家事も進んでするし、ゴミ出ししろっていうならする。
保険にもしっかり入るから、一生苦労させない」
「……いや、そこ、…プロポーズになってるから…っ!
まだ俺、お付き合いの段階をオーケーしとらんから…っ!
つか、ホンマにお買い得やろうけどキミは…!」
「じゃ、オッケーしようよ。白石さん、絶対俺を好きだよ」
その自信はどこから来るんだ、とツッコミたい。
だが、こうしていちいち会ってしまう時点で、見込みは既にあったのだろうか。
「自転車! 乗れたら付き合う!」
「別のにして? あんた一生乗れないから」
「せめてもう少し庇え!」