昼休み、昼食に誘いに来た千歳を教室に招いたのは、謙也が財前に誘われていなくなっていたからだ。
「よかの?」
「ええて」
 ふうん、と向かいに座った千歳をふと見遣って、弁当箱から取ったエビフライをつまむ。
「白石、」
「なあ」
「…ん?」
 千歳の言葉を遮ったことに気付いたが、強引に通す気がない千歳の表情に言葉を続ける。

「…お前…、…部屋で視線とか、感じたりせえへん?」

 千歳の部屋での行為が筒抜けなら、方法は二つ。
 見つかる覚悟でベランダにいたか、あるいはカメラ。
「…いや?」
「…そか」
 千歳の顔に嘘偽りの雰囲気はない。
 千歳は片目がほぼ見えないだけあって視線に対して人工物だろうが聡い。
 カメラの類なんてすぐ気付くだろう。
 彼が気付いてない、感じてもいないならカメラはない。
「…白石?」
「…なんでもない」
 食べ終えた弁当箱を仕舞って、職員室に用事と席を立つ。
「…白石、待たんね」
「…ん?」
「…なんか、最近、変なこつあるんじゃなかね?」
 一瞬、その真っ直ぐな怜悧な目にどきりとする。
 見ていられず、なんもないと答えてすぐ教室を出た。

 自分でどうにか出来る。
 昔みたいな、子供じゃないんだ。
 だから気にしないでくれ。

 自分に言い聞かせるように心で吐いて歩く足が不意に浮かんだ。
「…え」
 気付くと脇の下に手が差し込まれていて、そのまま傍の教室に引っ張り込まれる。
「…ち、とせ…!」
 なにする、と叫ぶ暇なく壁に押さえつけられた。
 空き教室なのか、他に人はいない。
「…なんか絶対ある。黙ってたらわからんよ」
「…なんもない」
「…白石。
 おかしかよ。…今朝も、昨日も…」
「…なんも」
 ない、と意地になった白石の言葉に眉を寄せた千歳が、強引にその胸元を掴んで宙に持ち上げた。
「…ち…っ」
 そのまま無理矢理唇を塞がれる。
 薄く開いたままの口に舌を突き入れられ、つう、と歯の裏や舌の裏を舐められる。
「…ん…ふ…っ」
 飲みきれない唾液が口の端を伝って流れた。
「…白石」
 口移しのように言われた声。すがりそうになった、なんて言い訳だ。
「…―――――――――――――…」
 ずる、と白石の身体が床に落ちるように降りた。
 白石が思いきり振るった腕に殴られた千歳の頬が、うっすらと赤い。
 自分の咄嗟のしたことに、血の気が退いても本音も弱音も言えない。
「お前に関係ない」
 そう吐き捨てて教室を出る。千歳の追ってくる足音も、声も聞こえなかった。





 疲れたように、不意に足が止まった。
 部活を終えた帰路。
 自主練の気分でもなく、白石が学校を出たのは他の部員の数十分遅れ。
 空は、まだ辛うじて明るい。
(あれは…)
「…ないやんなぁ―――――――――――――俺」
 千歳は心配してくれただけだ。
 本当に心配してくれただけだ。
 話せないのは、ただの自分の自尊心が邪魔なだけ。
「…明日、謝ったら…聞いてくれるかなぁ…」
 明日、話したら。
 聞いてくれるだろうか。
 巻き込みたくもないし、こんなことで迷惑かけること自体恥ずかしい。
 けれどそれを抜いたって、千歳に謝りたい自分。

 こつん

 びくりと神経が逆立った。
 すぐ歩き出すと、同じ歩幅でついてくる足を振り切るように走り出す。
 ずっとついてくる足音が、今は何故か酷く怖い。
 怖くて、堪らない。
 裏道から大通りに出て、角を曲がったすぐ、誰かとぶつかりそうになった。
「……あ」
 謝る前に、それが千歳だと気付く。
「白石…」
 呼んだ千歳の声が、冷たい気がした。
 背後で聞こえた音に過剰な程心臓がうるさくなって、すがるように千歳を見てしまう。
「…千歳」
「……」
 なん?と言いたげな目が下に向けられた。
 気付くと自分の両手は、行かないでと千歳の服を掴んでいた。
「…あ、ごめん」
 すぐ謝って離す。
「白石、…ほんに…」
 千歳が言い募りかけた時、胸元で携帯が声を上げて。
「…白石?」
 あからさまに怯えた瞳を見つけたのだろう。千歳にそういぶかしんで呼ばれる。
 なんでもない、と言う余裕がない。
 震えた手で取って、耳に押し当てた。

『仲イイね』

「……どこ…いるん」

『…キミの左だよ』

 笑う声。そのまま通話は途切れる。
 左?

 携帯を耳から離しながら歩道の左側、車道を見遣る。
「…―――――――――――――」
 車道の路肩に停まった車。開いた窓。そこから覗く笑う男の顔と、腕に抱かれた箱の中の血塗れの猫の死体。
「…っ…ぁ…!」
 微かでも悲鳴をあげてしまった白石を満足そうに見て、男は窓を閉めると車を発進させる。
 携帯を握りしめてその場にしゃがみ込んだ白石の肩がそっと抱かれた。
 千歳だった。





 白石の家まで送ってくれた千歳は、部屋にあがるとベッドに白石を腰掛けさせた。
 帰る道で、彼はずっと白石の肩を抱いていてくれた。
「…ここまで来て、黙ってなかろ? …なにがあったと?」
 ベッドの前にしゃがみ込んで聞かれて、声は一瞬掠れた。
 譲れない自尊心が邪魔したわけじゃない。
 ただ、もう黙っていなくていいという安堵。
 もう、一人で怯えなくていいという、安心だ。
「…一週間前、…から手紙。来るようになって…。
 …昨日から電話も…」
「…朝急いでたんも、…追いかけられてたからとね?」
「…うん」
「…なにも、されてなかね?」
「……あ」
 零れた言葉に、なん?と見上げられる。
「…今朝、…耳、ちょっとだけ舐められただけ…」
 それに眉をあからさまにしかめた千歳が、ひょいと立ち上がると白石の顎を不意に捕らえた。
「ち」
 そのまま前触れなく唇を塞がれる。
「…ちと、せ…」
 キスに意識を奪われた間にベッドに押し倒される。
 両手をベッドに押さえ込んだ千歳の手が強くて、見下ろす顔が怖くて、それが余計愛されているんじゃないかと思えて。
「…ちとせ?」
「……俺ん、白石になんばすっとや…。…お前は俺んもんたい。
 耳だけでも、許せなか」
「………」
 言われた瞬間、背筋をぞくりと走ったのは快感以外のなにものでもない。
「…なら、千歳がして。…感触、気持ち悪い……消して」
 吐息のように強請った白石の声。堪えられない欲情に顔を歪めて、千歳は寝台に再度身を沈めた。
 耳朶をしつこく舐める舌にびり、と走る感覚に身を震わせながら、涙を滲ませて千歳のシャツを引っ張った。
「ん?」
「…そっち…やない。…逆…っ」
「…ああ」
 びく、と反応しながらも舐められた方の耳を言う白石にそっちか、と小さく言って千歳は反対の耳を執拗に舐めた。
「…は…ん……っ」
「白石、…そげん声、そいつにも聞かせたと?」
「…ぁ…聞かせてなんかな…っ…んん…っ」
 空いた手が服の裾から入って、胸元を彷徨う。
 すぐベルトに伸ばされた手がバックルを外して、中に入り込んだ。
「……や…っ…ひゃ…」
「…安心したと。そげんイイ声、俺以外が聞いた思ったら憤死するほど腹立つたい」
「…ん…っ……そ…な死に方…されたら…困る」
「…知っとおよ。俺はお前のおらんとこでは死ななか」
「…は、…とせ……。…もっと……」
「……」
 くす、と笑った千歳がキスをして、シャツのボタンを外し、脱がせた時だ。

 ピンポーン …

 玄関で鳴ったチャイムに、あからさまに二人揃って動きを止めた。
「……宅急便?」
「やろ…。堂々チャイム鳴らすストーカーってなんね…」
 舌打ちを零しながら、一応俺が出てくると千歳は扉を開ける。
 そういえば、家族が今日はいないんだった、と思い出した時。
 不意にベランダで音がした。
「………」
 がたがたと鳴る音は、間違いなく窓を開けようとする手。
「……、……」
 まさか。
 でも自分は今日思ったじゃないか。カメラじゃないなら、二階のベランダにいたんだろう、と。
 おそるおそる引かれたカーテンに手をかける。
 それは、未だある自尊心からか、それともやられてばかりで悔しかったからか、顔を見てやろうと思ったからか、ただの気のせいと思いたかったからか。
 いずれにせよ、その時の白石には無謀な勇気に他ならなかった。
「……っ」
 息を呑んでシャっとカーテンを半分ほど引っ張る。
 カーテンの向こうに広がるのは、ようやく沈んだ空と民家の明かりと、窓一杯の男の歪んだ笑みと欲情した視線。
「…っ…」




「…ほな、お前今日泊まってくんか」
 玄関に来たのはやはり心配した謙也だった。
「ああ」
「…俺も泊まるかな」
「心配と?」
「ちゅーか、あいつ中一の時もあったんや。ストーカー。
 カメラと盗聴器まであってそれで白石のおとんがキレたって話で」
 謙也がそこまで言った時、二階で響いた悲鳴は間違えようがない。
「…白石?」
 すぐ階段に向かった千歳と、後を追った謙也の鞄が玄関に置かれたまま倒れた。





「白石!」
「…千歳…っ」
 カーテンを裸の上半身に巻き付けるようにしながら白石が振り返る。
 窓の外にいた男は千歳の気配を早々に察してか、ベランダから飛び降りる背中が辛うじて見えるだけだった。
「…逃げたか」
「白石、大丈夫か?」
 謙也の声に人形のようにこくこく頷く白石を一瞬見遣ると、千歳はがん、と思い切り窓の横の壁を蹴った。
「あの男…よくも俺ん白石の裸見たとね……ぶっ殺す」
「…千歳、気持ちはとてもようわかるが堪え。半殺しにしとけ」
 謙也の言葉にそうたいね、精々お婿に行けんようにするくらいかと呟く千歳の背中を見上げて、白石がぽかんとする。
「…白石?」
 気付いてそう呼んだ千歳に、そのまま走り寄ってしがみついた。
「…し、白石…?」
「……千歳」
 戸惑い、どもった千歳の身体に手を回した身体が震えて、か細く言う。
「……お前のもんや…。……お前のもんて…もっと言うて」
「…………、ああ」
 怖かったのだ。そう理解して、その身体を抱きしめた。




 その日は、部活が遅くまであり、部室に残っているのは白石一人だった。
 机に寄りかかって居眠りをするその背後に、足音がゆっくりと近寄る。
 その手が白石の肩にかかる前、素早く起きあがった白石の手がその手首を掴んだ。
「…っ」
「捕まえた。…運動部なんはガチやけど、気配はまるで消せてないな」
 白石は空いた手で携帯を握ると、かちと操作する。だがそれを見てあわてたのか、男の振るった手が軽く脇腹を掠める。
 すぐ交わしたので大丈夫と思ったが、瞬間身体に走った痺れに白石はその場に倒れ込んだ。
「……な…ん」
 必死に見上げた男の片手には、スタンガン。
「…人を呼ぶ暇、なかったね。…たっぷり可愛がってあげるよ」
「…っ」
 倒れた身体に馬乗りになられ、力無くあがく両手を男自身のベルトで拘束される。
「…や…っ」
 誰かが置き忘れた粘着テープを見た男が、それを手にとって短く切ると、白石の口元をそれで塞いだ。
「…っ…ん…―――――――――――――」
 笑う口元が、呻く白石の上着のファスナーを降ろす。
 脱がすのも面倒なのか、ポロシャツの下からナイフを入れてビリと破り始めた。
 合間に舌を露わになる肌に這わせていく。
「…ん…っ…ん……」
「ホント、可愛い声…」
 ビッと最後の布が切り裂かれた瞬間、外から扉が開け放たれた。
 舌打ちをした男が白石の身体を抱え上げて、その自由にならない身体の首にナイフを押し当てた。
「どうやって呼んだ…、あれか」
 白石が一見操作しそこねたと思っていた携帯。見れば通話中、の文字。
 おそらく着信をかけるだけかけて放置したのだ。こちらの状態が筒抜けになるように。
「…白石に触っとう手、はよ離さんね」
「キミ、この子の彼氏だろ? 何度もヤってたの見たし。
 だったら余計、これ見て手出し出来ないだろ」
 千歳の表情が一瞬怯む。それに勝ち誇った時、千歳のその口元がふ、と緩んだ。
 馬鹿はそっちだ、と言いたげに。
 直後、男の身体に強い何かが走って、白石を拘束する手が緩む。
 喉の奥で笑った気さえした白石が振り返らず自由になる足でその鳩尾に深い蹴りをたたき込むと、その場に崩れ落ちた男の見上げる視界には、ベルトで縛った白石の手に握られたあのスタンガン。
「……な…、まだ…身体は…」
 自由にならない身体に沈む痛みに呻く声になにか返したそうにした白石の口元を覆うテープを千歳の手が剥がした。
「…端から喰らってへんし。喰らったふりしたっただけや」
 獲物を放り出すお前が悪い。と手に持ったスタンガンを白石が千歳に渡した。
 ベルトから自由になった手をする白石を余所に、千歳は男の眼前にしゃがむと笑顔で。
「さて、俺の女に手ば出したけん……、
 @男として不能になる
 AIラインを余すとこなくボコられる
 B屋上から明日まで丸一日吊される
 …どれがよか?」
「…っ―――――――――――――」
「白石に手ば出したらこうなるったい。…覚悟しとけ」

 背後で聞こえる悲鳴に耳を貸さず、渡邊を連れてきた謙也に白石が事情を話して代わりの服を受け取っていた。





「で、…一応四天宝寺高校のテニス部員、てオチか?」
「らしいな。標準語なんは転校生やかららしい」
 後日、教室で暢気に昼飯を取りながら話す話題は既に過去のもの扱いだ。
「ん? 車は…」
「無免許」
「うわ…」
「でも、おおきにな」
 白石の言葉に、へ?と間抜けな顔をした謙也に笑う。
「俺の我が儘聞いてくれたやん。俺自身で決着つけたい、て」
「…ああ。…それは千歳に言うたれや」
「……ん」




 千歳と帰るのは久しぶりではないのに、酷く安心していた。
 千歳がいるということ。そして、もう後ろに誰もいないという確信。
「よかった」
「え?」
「白石が。また、いつも怯えた顔されとーは悲しかね」
「……ん」
「…俺起因でそげん顔しとうなら好きやけんな」
「…おい」
 突っ込もうとした手が不意にぎゅ、と握られた。
「でも、あいつが白石と普段関わりないヤツでよかった」
「……?」
「触れられただけでもおかしくなりそうやけん、普段白石と話す人間だったら…」
 ひょい、とかがまれて耳元で続きを囁かれる。
 途端耳まで真っ赤になった白石を抱きしめて笑う。
 そんな顔も、あの笑顔も、知るのは自分だけでいい。



『白石の愛らしか笑顔、振りまかれてたかと思ったら腹立つけん』







 2008/11/28