![]() 彼と俺に降る夜 第十話 《彼と俺に降る夜》 退寮を決める最後の話し合いは、教師と、親、本人で、学校の来客室でだった。 「俺、最後までここおりたい」 目元に少し傷がまだ残っている。そう言った息子に、小石川の親は戸惑った。 「二人の気持ちわかるけど、寮におったからってわけやない。 はやくから寮に入って、心配させてごめん。 心配ならこれから、ちゃんと頻繁に家に帰る。 電話もする。せやから、最後までおらせて」 「…せやけど」 沈黙で見守る教師の前、小石川は少し笑って見せた。 「今まで、俺、喧嘩したとか、殴られたって騒ぎ起こった?」 両親は、黙ったあとに首を左右に振った。小石川が殴られたという事件は、これが初めてだ。 「実家におっても起こったと思う。 我が儘言うけど、ここにおりたい」 ええんですか?という教師は、それでも安堵していた。 あの子は、我が儘を言わない子です。 散々うちらのエリート志向に付き合わせて、我が儘言えんようなった。 今まで言われた我が儘はこれでまだ四回。 テニスしたい、四天宝寺に行きたい、寮に入りたい。 …叶えられる我が儘は叶えたりたい。 母親はそう答えた。 寮に戻ってきた小石川を、リビングで迎えたのは、ほとんどの寮生だった。 小石川は一瞬黙ったあと、ピースサインを切る。 「卒業まで、おってええ。て。また同じことがない限り」 瞬間、リビングでよっしゃ!という声が響いた。 「小石川ー! よかったー! お前がおらんとほとんどのやつが困る!」 「ゲームのレベル上げとか、恋愛相談とか、勉強とか!」 「千歳の操縦とか!」 嬉しそうにしていた千歳が「俺!?」と声を上げた。顔も引きつる。 「調教係? お前、小石川でもないと怒れんもん。怒鳴れんし、どつけんし」 「頼むわ小石川。千歳野放しにせんでな」 「了解」 「ちょ、今はなにもしちょらん!」 返事をして指をぽきぽき鳴らした小石川に、千歳は身構えてバックする。 ふと、視線を向けた先、奥の方で石田が笑っていた。 騒ぎが静まったあと、部屋に戻ると、打って変わった静けさに飲まれそうになる。 先に部屋に入った石田は振り返って、軽く手を挙げた。意味を理解して、小石川はホッとした。 「ん」 ぱん、と軽く手を打ち合わせる。途端、その手を掴まれて抱きしめられた。 「…意味、取り違えた?」 「いや、間違っとらんよ。ただ、手があったから、ついな」 そう、と石田の腕の中、弛緩した身体を彼の身体にすり寄せた。 「…迷惑と心配かけてごめん」 「もうええ」 「…俺、師範のこと、いつ受け入れられるかわからん。せやけど、…素直にはなれとる」 石田の手がゆっくりと背中を撫でた。わかっている、という風に。 「…師範、…大好き」 囁くように、愛しさをこめて告げると、そっと顎を掴まれてキスが降りた。 目を閉じて、受け入れる。 「かまへんよ」 「?」 「儂はそれでかまへん。こうしてられる。お前が、儂が好きやて言う。 …キスが出来る。なら、それでええ。 欲しくないゆうたら嘘やが、…儂が惚れたんは、お前の心と人格や」 「…」 「お前がお前のまんまで、傍におるって約束があるなら、…いつまでだって待つ。 …傍におるよ」 「…、」 声にならないほど、安堵した。吐息になって師範、と呼んだ。やはり声にならない。 「…傍においてな」 「ああ」 石田の胸にすがりつくと、何度も彼は頷いた。優しい手と、暖かい声が身体を包む。 「俺、師範が初めてやねん」 「……初恋って意味か?」 「そやな。せやから、キスも、抱きしめられるんも。それで怖かったんかも。 …てわけやないんはわかっとるけど」 ほんまにあかんのやろうけど、と小石川は少し悲しそうにする。すぐ微笑んだ。 「…師範が、全部、初めてがええ。全部もらってや」 どこまでも柔らかい、許しきった声が石田に向けられる。 それだけで、嬉しくて、泣きたくなった。 きつく抱きしめる。痛いほど抱いても彼はもう逃げない。 胸が、詰まりそうなほどの幸福。 「…ああ」 絶対、離さないと、傍にいると誓った。 ―――――――――――――好きな人はいますか? そう、呼び出されて聞かれた。 告白のよくあるシーン。 小石川は眼前の少女に、申し訳ないように笑う。 「うん」 「好きな人? 恋人?」 「…恋人」 優しく、しかし、突き放して答えた小石川の背中で、桜が揺れる。 もう、春だ。 少女が立ち去ったあと、桜並木をのんびり歩いて、寮に戻った。 ポケットに手を突っ込み、取り出した鍵を、大事そうに握って、口付ける。 卒業式の日に、石田はその足で東京に帰った。 一時帰省だ。高校は同じ進学校。 部屋を二人で借りて、先に小石川一人で住んでいる。 石田の荷物が昨日送られてきた。あとは本人が来るだけだ。 どうも、弟にせがまれて帰る前に試合をしてやっているらしい。 小石川ももう寮に部屋はないが、まだ寮から出ていない千歳と約束がある。 今は三月の二十日。 千歳は二十五日に、一時帰省してから、またこっちに来るそうだ。 実は自分と白石、石田と謙也、千歳は同じ高校なので、また千歳の手綱握るのか、と内心思う。嫌じゃないが、楽しんでるけど。 降ってきた桜を、手に取る。 ほんの少し離れただけなのに。また会えると確約されているのに。 ―――――――会いたい。 千歳とは夜の七時に別れた。まだ、日は短く、暗い。 千歳は白石の誕生日プレゼントを選ぶのに自分を誘った。詳しいやろ、と。 まだ馴れない、マンションへの道を帰る。 海辺沿いの道は、夜の海がよく見えた。 「あ」 住み始めたマンションの前の道、自分より早く気付いて、こちらを見て微笑む人の姿。 「え、師範…二十四日過ぎやないと、帰ってこれ…」 ないって、という声はのみこまれた。駆け寄って自分を抱きしめ、キスをした石田の唇に。 目を閉じて、腕を背中に回す。何度か重なって離れたキスの後、掠れた声で「おかえり」と言うと、石田は嬉しそうに目を細めた。 「はよ帰ってこんと、お前は他の男にさらわれる」 「そんなん、師範だけやて言うとんのに…」 「お前は自分に疎いからな」 「……」 この話題では、なにを言っても無駄だ。小石川は少し赤くなった頬を隠すように俯いた。石田の手が、手首を掴んで、促す。 「あれ、鍵」 石田も持っていたはずだが。 「待っとったんや」 「…ああ」 春先で、寒いのに、と思いながら、嬉しい自分。 甘く溶けた声と笑みに、石田も柔らかく微笑んだ。 「向こうは、居づらくてな」 「…離れとったから?」 「…」 小石川が整理したのは自分の部屋だけで、石田の荷物はまだそのままだ。 石田がいいなら整理しておくと言ったが、石田はお前にそんな重労働させられるかと言った。男なのに。 今日は小石川の部屋に寝るという石田を招いて、新しく買ったベッドに座らせた。 「いや、ただ、三年間、お前がおかえり、おはようて言うんが当たり前やったから。 …お前がおらん家ゆうのは、もうあかんわ」 素で言われて、小石川は真っ赤になって黙り込む。ああ、なんかもう勝てない気がしてきた。 「『帰ってこんと』て師範、言うたもんな」 実家向こうやのに。 悔し紛れに言うと、石田は爽やかに笑った。お前もだと。 「『帰って来れなかった』んやないんか、て言うた」 「…………〜〜〜〜〜っ」 勝てない。やばい、本当に勝てない。と赤い顔を隠すように小石川は背中を向ける。 「…そういや、これでかいな」 「ん?」 「ベッド。もう少しちいさくてよかったんやないか」 石田が座る小石川の寝台は、キングサイズだ。小石川はそこまで大きくはない。 石田だって、もっと小さいサイズで寝れる。 「ああ」 小石川は背中を向けたまま、頷いた。少し歩いて、部屋の引いてあったカーテンを引っ張る。外は暗い、夜。 「ただ、寮のベッド小さかったし」 「?」 「一緒に寝れる大きさやないと、…な」 少し、いやかなり、照れたような、震えた彼の声。石田に向けたままの背中。耳が赤い。 理解して、石田はとても嬉しそうに笑った。立ち上がると、傍に歩み寄って背後から小石川を抱きしめる。 「待って…もう一個」 やはりいやなのかと身構える前に、小石川は以前赤い顔で、石田の顔を見上げる。 「…呼んでええ………?」 「え」 「名前。師範やのうて……」 心底恥ずかしいと赤面しながら、視線を外す彼の服の裾から、手を突っ込むとまくり上げた。肌に這う手に、身を震わせても、彼は拒まない。強ばらない。 襟から出て、顎を掴む手が、小石川の顔を引き寄せてキスをした。 手を伸ばして、首に縋り付く。 『愛している』もこめて、『一生』もこめて、呼んだ。 「銀………」 桜が散ったら、また夏が来る。そして、寒い冬が来て、雪が降って、また。 ずっと、一緒にいる約束を。 他の誰も見ないで、ずっと一緒に。 手を絡めて、抱き合って、それでも足りないから。 名前を呼んだ。 朝におはよう、そして、夜にはおやすみと笑って言う、日々をずっと。 この夜を、ずっと。 2009/07/17 THE END |