他の部員はともかく、レギュラーたちは翌日、部長の異変に気付いた。 しかし、真っ先に言いそうな財前は言わなかった。なにも。 白石の目は腫れていた。多分腫れ方から相当泣いたんだろうとわかった。 財前にはこの器用な部長がそこまで泣くような事態が想像出来ない。下手に自分らしく触れたら、またすぐ泣いてしまいそうで(またってなんだ。自分は彼がどんな風に泣くかすら、泣き声すら知らない)言えなかった。結局、気付かない振りを通した。 自分の顔が腫れていることや、それに周りが気付いていることくらい知っているだろう白石だったが、彼は部員の気付かない振りに任せて、なにも言わなかった。 昨日、白石は結局眠る時まで、その時まで泣き続けた。 最後には泣き声が枯れたようになくなって、涙だけが世界に一人残された独りぼっちの子供のように歪んだ顔にこぼれて止まらず、抱きしめていた自分が不意に時計を見てああもう朝の時間だと思った瞬間に腕の中の身体の重みが増した。 そこでやっと眠ったのだ、とわかった。昨日の彼は、なにか言うだけで壊れそうで、ただ抱きしめることしか出来なかった。彼をそこまで追いつめたのは間違いなく自分だった。 眠る彼の瞳からはまだ涙がこぼれていて、眠りに落ちてなお悲しいのかと酷く哀れな気持ちになった。 「千歳」 窓の外を見て――――――といったって実際全く景色など視界に入らずフラッシュバックするのは昨日の彼の泣き顔のみだったが――――――いた千歳に、声がかかって、振り返ると謙也が立っていた。 ここは空き教室だ。千歳にはサボり癖がある。よくここにいるとわかったなという顔で、座っていたので見上げる姿勢で呼ぶと、開口一番。 「ふざけんな」 ときつく言われた。 予想はすぐ立った。 「なんね、もうバレとーと?」 「もうやないやろ。俺やからバレたっただけで、他の部員は気付いてへん」 「そらよかとね」 「…殴ってええか?」 謙也は真剣だった。彼が白石を泣かせたことを怒っていることはわかった。けれど、上手く伝えられなかった。 「謙也の気ぃ済むなら」 どっちでもいい気分で答えた。確かに、昨日自分は彼に対して酷かったと思ったからだ。 もっと違う答え方で、もっと違う話から入っていたら、白石はあんな風に壊れるかと思うまで泣かなかったかもしれない。 謙也を見ないで、ぼんやりそんなことを考えていたら一瞬視界がひっくり返った。 次の瞬間、何故床に倒れているんだろうという認識。次いで、頭と頬が痛かった。 ああ、そうかと思って起きあがる。起きあがれば、謙也が拳を突き出す形で止まっていた。 言葉通り殴られたらしかった。怒りは清々しいほどない。 「…なして泣かせた」 「殴ってなお聞くと?」 床にそのまま座って答えた。素直に答えて、彼が納得するか怪しかった。 「殴ったから気の済んだわけやないやろ。納得できん。 また白石があそこまで酷い顔してきたら、なにするかわからんで」 「…謙也は白石に甘かねー」 「馬鹿にしてんのか!」 「俺は全然甘かない」 思ったより、真剣に言ってしまったらしい。怒声を一度響かせた謙也はその後、ぴたりと言葉を止めた。しまった。と思った。 非難されるだけされようと思っていた。白石のために怒れるのは謙也だから。 白石は、それは違うとまた怒るだろうけど。 あの流れた、絶望の塊のような涙の分だけ自分はなにかを受けたかった。 謙也は、隣に座り込むと再度聞いた。 「なして泣かせた」 今度は責める口調ではなかった。千歳が本当は泣かせたいわけじゃなかったとわかったからだ。 「……謙也」 「なんや」 「白石って、…なんであげん泣き方すっとや」 「…泣き方?」 「あいつ、普通に泣かなか。普段普通のやつなら泣くやろってとこで泣かんほど強い癖、…一度泣いたら嬉しかろうが悲しかろうが、まるで世界で独りぼっちになって世界が終わる夕焼けを見てるような悲壮な顔で泣くね。……昨日、結局眠ってからも泣いたままやったけん。……なんでかね」 「…千歳」 「なして俺、普通に泣かせてやれんね」 謙也は白石のその泣き方には触れなかった。知っていたのか、知らなかったのかさえ言わなかった。 「普通に泣くような、話やったんか?」 「多分。…白石が、なんで俺らの関係が当たり前なん言うから」 「……?」 「部内で」 「ああ。…せやかて、みんな知っとるし」 「俺もそう答えた。そしたら親にとったらこれは悪やとか言って落ち込んで」 「で、泣いた?」 「いや、その後、俺が………いや、玄関先で話すことじゃなか思って、ベッドつれてこうと思って離れよかって言ったら、あいつ別れようって意味と間違えとーた」 「………白石が意味間違うって、相当追いつめられてたんやな」 「うん。で、別れるって言わないか? って別れないかって、俺のことおいて九州帰らないかって親の葬式のような顔して聞くから、言わない別れないって言ったら、泣いた」 謙也は寒かったのか、立ち上がると窓を閉めた。 それから、もう一度千歳の隣に座って。 「そら、…殴って悪かったな」 「いや、俺が間違えたからかもしれなか」 「いや、思い詰めてた白石も責任あるて。つーかあいつはほんまそこまで思い詰めるから質悪いわ。人には吐き出しとけとか言うくせに」 ため息と一緒に言って、から謙也はそないにあいつが面倒臭くても好きなんや、と聞いた。 嘘はなかったので頷いた。うん、と。 「ただ、泣き方はなんとかならんねって思う。俺が白石の親殺したみたいな気分になるけんね」 「千歳…今の白石の不安ってなんや思う?」 「……俺が九州帰るかもしれんこと?」 「ちゅーか、お前と離れるかもしれんことの可能性全部っちゅー気がする。俺は」 親とか社会とか帰省とか全部まとめたらそやろ? と言われて納得する。確かに。 「もう一緒に住むとか結婚しよとか言ったったらええねんと違うか?」 「………」 あの後、千歳は素直に教室に戻っていった。彼の出席率は賭け事の対象になっているから多分大騒ぎだったと思う。 「謙也くん」 廊下の途中で呼び止められて、ぎくりとした。 ため息を吐く寸前を見咎められた気がした。 「ああ、光か…」 「誰や思うとったんですか」 「いや、お前しかおらんけど。昼飯?」 「そうですよ。俺がクラスメイトと仲良く食べると思いますか」 「思わん」 「ですやろ」 言いながら、彼は持っていたパック牛乳と袋の中のパンを取り出した。 ここは中庭で、すぐそこにベンチがあるのに。 「待て。ここで立ったまま食う気か。どんだけ行儀悪いねん自分」 「やって謙也くんがそこ突っ立ってるからでしょ」 「俺はベンチの障害物になってへんわ」 「…………」 財前は今度こそ呆れたらしい顔で、袋の中からコーヒー牛乳を取り出すと謙也に渡した。 「くれるんか?」 「他のなんに見えますか。謙也くん昨日紅茶馬鹿飲みしたとかって言ってたでしょ。胃が荒れてるから牛乳」 「よう見てんやな…」 「そら見とるやろ」 「なんで」 「……謙也くんは阿呆ですか。千歳さんと部長が付き合うてるなら俺らは?」 「………………ああ、付き合うてるわな」 「今あんたどんだけ部長のことで頭一杯なんですか」 「あー……多分世界が終わってもいいくらい」 と千歳の言葉を真似て答えたら、余程不服だったらしい。行儀のいい財前らしくなく露骨に音を立てて牛乳をすすられた。 「光…」 余程不満なのか彼は本当にその場でパンに貪りつき始めた。 どないしたらええんやこれ、と謙也が途方にくれた時頭上のスピーカーがテスト音を響かせた。 ―――――――――三年一組、千歳千里。千歳千里。至急職員室に来なさい。 「………千歳さん?」 あの声は生活指導の教師の声だった。とうとう出席率のことで呼び出されたのかと顔を上げた後輩の横で、謙也は妙に空笑いを浮かべたい気分だった。 もしかして、あいつなんややったんやろうか、と思った。 千歳が部活に顔を見せた(それまで絞られていたのだろう)のは部活終了時刻だった。 もう既に制服に着替えている部員たちを見て、千歳は半分予想していたように笑った。 「千歳、お前なにやったんや。呼び出しくらうなんてらしくない」 小石川が真っ先に言う。 「いや、いい加減進路希望出せ言うから、出しただけやけん。怒られた」 「……怒られるような内容書いたんか?」 「俺大真面目なんたい」 「ケーキ屋さんになりたいとか書いたんですか?」 「いや」 彼は話しながら鞄から提出し直せと言われた調査票を取り出した。 「“テニス留学でオランダに永住する”て書いたら怒られた」 「阿呆。そこ永住するとか書くから怒られんねん」 謙也に真顔で言われて、千歳はやけんと呟いた。 白石は、さっきから振り返らず着替えている。 「……他の国が浮かばんくて。てかオランダしかしらん」 「なにが? テニス留学ならお前の腕ならどこでもスカウトあるやろ」 「いや、そうやなか」 「そうやなくて? なに言いたいんですか千歳さん」 「あ、光知っとーと? 知ってそうやけんね」 「なにが?」 「同性結婚出来る国に永住しよう思っとーよ」 財前は言葉を失った。 「…………お前、まさか真に受けたんか」 昼間のことを指して謙也が言う。 「いや大まじめたい。そげん不安なら結婚しよーと。白石もそげんなら平気たい」 千歳はいっそ清々しく答えた。 白石が脱ぎかけたジャージに手をかけたまま止まっている。 「やって、白石」 謙也が促す。 振り返った白石は阿呆かという顔をしていた。目の腫れだけが痛々しかった。 「さよか」 言葉も聞かず謙也は頷いた。 そのまま白石はジャージを脱いで、シャツに着替えると小石川に鍵頼むわと言って鞄を背負った。 「なんばい…。本気で考えたんに、阿呆扱いね?」 「阿呆やろ。そんなんオランダの法律で許可されてても日本の社会正義が許すかいな。 ちゅーか今日のタイミングでそれはオドレは俺を馬鹿にしとんのか」 「してなか」 「まるで俺が浮気された女みたいな扱い受けてる気すんねんけど」 「浮気はせんけど」 「そういう話してるんと違う」 「阿呆? 大真面目とよ?」 「それ、まんま教師に言ったか?」 白石は心底嫌だという風に言うが千歳はまるで気にしていない。 「言った。結婚したい好きな相手がおりますが、男なんでオランダ行きたいですて」 そこで初めて、白石は呼吸を忘れたように止まった。 「結婚しよう、っていうプロポーズたい。受けてくれん?」 「…」 「二人でプロんなったってよかし、とりあえず一緒に住んで、認めてもらうことから頑張ったら二十歳にはいけると思うとるとよ。そしたら神様の前で誓っとう。 …俺は白石蔵ノ介以外欲しくありませんからくださいて」 「…………」 プロポーズ、と笑う千歳に白石はなんと言ったらいいかわからない顔をさまよわせた。 そして再び千歳の笑顔と視線がぶつかった。その時千歳は酷く真摯な顔をした。 信じて欲しいと、言うように。 「……白石」 阿呆かと、言おうとしたが上手く言えなかった。何故だろうと思ったが、謙也が呆然と名前を呼んだので一応顔を上げる。その時不意に何かが落ちた。 水だった。 「……白石」 千歳は最初驚いた顔で呼んで、それから側に寄って一生懸命というように白石を抱きしめた。 満足だというように。 「………なんや」 謙也がぼそりとつっこむ。普通に泣けるやん、と。 白石の見た水は自身の涙だった。しかし、声なく泣いたこと、自覚なく(それはごく普通の人間の泣き方だ)泣いた覚えがない白石にはわからなかった。 千歳は、ただ白石が普通に泣いてくれたことが嬉しいと、彼を離そうとしなかった。 「結局、進路調査票出し直したって聞きましたけど」 翌日、中庭のベンチで財前が今日はいちごオレを飲みながら言った。 「一応世間体考えてな。けどあいつ、白石と同じ高校書きおった。で、同居すんのやと」 「…千歳さんって、結構真剣やったんですね」 「なにがや」 「部長のこと。普段がああだから、部長のどこがようて付き合うてるんか聞きたかったんですけど、昨日の見せられたら聞く気失せました」 「それでええんとちゃうか? 俺らはあそこまでディープになれんわけやし」 謙也が袋から紅茶を取り出しながら笑うと、謙也の台詞に怒ったのか、それとも一昨日紅茶を馬鹿飲みしておいてまた紅茶を買っていることにかわからないが、とにかく怒って紅茶のボトルをひょいと取り上げた。 「あ、なにすんねん光」 「俺が好きですよ言うたら引く癖にこの人は……」 この部長馬鹿、と呟く財前の声は、幸い謙也には届かなかった。 |