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名前を呼んで それが最期でいい
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「千歳…」
社会教材室に呼び出されてから、彼の言葉に驚きもした。
「今、…授業中とよ?」
「……俺がええて言うてる」
普段、千歳が求めない限りそういう行為を好まない白石の珍しい態度に、驚きはした。
けれどそう求められると、理性はすぐ陥落する。
安い机に抱き上げて、望まれるままに押しかかった。
白石の腕が首に回されてキスを強請る。
「白石…どげんした?」
問いながら、肌を這う手は止めないけど。
「……なんでもええやん」
「………なんでもなか、ね」
本当にそうかなんて怪しいけれど、今は頷くしかない。
白石は時々、全てを否定するように、全てを怯えるように見るから。
そんな恐怖が彼に訪れる時は、宥めるように抱いてやるしかなかった。
奥に這わせた指を増やすと殺しきれない声が零れる。
「…も、ええ。早く」
「そうはいかんばい」
なるべくつらくないよう、ゆっくりと解す課程がもどかしいのか知らないが今日はやけに急ぐ。
けれど、そんな願いだけはいくらその身体が欲しくたって、抱きたくたって素直には聞けない。
出来るだけ優しくしたい。
「白石…」
我ながらかすれた声で呼ぶ。その額にキスを落とす。
「…白石……」
繰り返し呼ぶ。
「………白石?」
最後の声は、問いかけになった。
「なんで、そぎゃん泣きそうなんばい」
「……なんでもあらへん」
「……」
白石の身体を抱きしめた。骨が軋むほど抱きしめれば“痛いわこの馬鹿力”といつもなら蹴りの一つ飛んでくるのに、今日はされるがままだ。痛いとすら言わない。
多分、相当参っている。
理由はわからないけれど。それなら、ひたすら甘やかして、大丈夫だと言ってやるしかない。
いつも見上げるその瞳が、いつも不安に揺れている理由は、どこかでわかっていたけれど。
いつしか、俺はそれについて、彼を正攻法で宥めることをやめた。
なにしろ疑りの深い彼は、何度言っても信じないから。
何度言っても、嘘だと言うから。
それなら言わない。言わない代わり、行動で教える。抱きしめて、ここにいると教える。
白石といると、たまに見える、彼の佇んでいる場所のあまりの暗闇に目眩がする。
何故、望んでそんな闇の底にいるのだろう。
早く、早くこちらへ来ればいい。手を伸ばすのに、その度に彼は悲しい顔をした。
悲しい顔をして、伸ばした手を見ないふりをする。
彼になら、優しさを使い切ったっていいと思うほどに願って触れるのに、キミはそれをさも痛いことのように見る。
俺は優しくしたいのに、大事にしたいのに、だってここまで好きになった人なんて彼しかいないのだから、この先これ以上の愛情なんか注ぐ相手は見つからないから、優しさなんか、キミに使い切ったってかまわないのに。
何故、そんな顔をするのだろう。
「……………千歳は、きっと」
荒くなった息を整えて、彼は呟く。
きっと?
「千歳くん、やっぱり卒業したら九州の方戻るんですか」
職員室の前を通りかかって、聞こえたのは偶然だった。
「このまま上行ってもいいけど、地元の学校に進学予定ですってね」
けれど、ああ、やっぱりそうか。
そうは、思った。
白石。
あの呼ぶ声も、抱く腕も、全ては刹那のものだと。
わかってはいた。
いつか、彼は自分を置き去りにする。
いつまでも、側になんかいてくれやしない。
たまたま拾った野良猫の世話を焼く気分でいるだろうあの男に、野良猫が捨てないでくれと言う権利があるはずがなかった。
だから、俺はずっと諦めていた。
覚悟も、していた。
いつか、捨てられる。終わりが来る。
優しい彼は、嘘を吐いてくれるかもしれないけれど。
そんな優しさに、自分の方が耐えられそうもなかった。
いつからか、雪のような彼の優しさが、恐ろしく怖くなっていった。
優しさが胸にしみるたび、また一つ好きになる。
また好きになって、どんどん好きになって、そして置き去りにされたら?
置き去りにされたら、どうしたらいい。
散々覚えた与えられる優しい愛情に馴れた心が、その失った暗闇に耐えられる筈がないじゃないか。
だから、いつだって諦めていた。
覚悟していれば、辛くないはずだった。
心のどこかで、ああやっぱりと思う自分がいる。
心のほとんどで、行かないでと願う自分がいる。
口が裂けたっていえっこない言葉を、今日も飲み込んで。
「部長? どないしました?」
「ああ、財前。いや、オサムちゃんおらへんなって」
「ああ、いませんね」
突然やってくるのが当たり前の後輩に、普通に笑える程度には、俺は諦められているのだと安心する。
諦めて、見ないふりをする。
与えられる愛情を、見ないふりをする。
あと一ヶ月、我慢すれば彼のいない元通りの日常が待つんだから。
そんなに甘やかさないで。
そんなに、優しくしないでいい。
白石。
呼ぶ声が、なくなると思えば、ほっとする。
一見して大型犬だと思う。凶暴じゃない、けれど身体の大きな犬。
雨の中で一緒の箱で、傷を一方的に舐めてくれて、やがて先に拾われていなくなる犬。
拾い主に里心がつけば、側にいたことのあった猫のことなんか忘れるに違いないんだし。
俺は忘れられるんだろうか。
たった、たった一年。
たった一年、側にいた奴がいなくなるだけだ。
三年も何年も、側にいた謙也たちがいなくなるのとは違う。
だから、何一つ悲しむことなんかないのに。
「…部長?」
何故あんなにも優しく抱くのか。
そうじゃないなら、もっと彼がひどかったなら、
こんなにも、…好きになんかならなかった。
達して、身体の上にもたれかかって呼吸を整えた千歳が起きあがって、引き抜いた感覚に少し身が震えた。
まだ、チャイムは鳴らない。
「ちょっと待っとって。タオルあるかんね」
太股を伝う精液に、目を留めてそんなことを言われる。
「いらん」
「いらなくなか。させて」
「………千歳は、彼女には優しゅうしたれな」
零れた言葉に、少し驚いた顔をした千歳の手からタオルを奪って自分で足を拭く。
「なに、言っちょるん?」
「この先出来た彼女には、俺にするよか、優しゅうせなあかんよって」
「…笑えん冗談ばやめてほしかね。俺は白石以外、好きになりとうとは思わんばい」
「やってお前、俺が女やったら別にこないなことせんかったやろ」
「……白石?」
「…いい加減、潮時やし、卒業やし。別れよか。お前にあわせんのしんどいし」
一瞬顔に昇った震えを、千歳は押し殺した。
「……白石、俺が好きったいね?」
「…」
ここで、好きじゃないと言えたらずっと楽だろう。
それで、彼は諦めて、踵を返すだろう。
それでいいはずなのに。
「……好きやで」
何故自分は、“好き”以外の言葉が言えないんだろう。
「なら一緒にいる。それでよかばい」
「……やけど、しんどい」
「白石?」
「お前に、……優しくなんかされんの、しんどくてしゃあない。
そんなんいらんから、はよ九州帰れや。
……そっちの方が、せいせいする」
下手な嫌いの言葉より、きつい言い方した気がした。
よりによって、大事に思ってしたことを“いらない”扱いだ。
「服、着なっせ。風邪引く」
千歳は服を寄越して、お互いが身支度を整えたのを見ると笑って、それでも先にいなくなった。
あれから、二週間千歳はろくに話しかけて来なくなった。
諦めが、向こうの方が先についたのかもしれない。
いざそうなると、矢張り辛いのは、自分の方だ。
「…お前、なんかしたんか?」
謙也が屋上のフェンスに寄りかかって問う声が、どこか遠い。
「なんもしてへん」
「おかしいやろ。ずっとべったりやったんに」
「ええやん。あいつ九州帰りよるし」
「……お前、それで酷いこと言うたとか言うな?」
「…………」
空は、どこまでも、違う国だって繋がっていて。
千歳が帰る場所なんか、違う国に比べたらずっと近い。
けれど、会えなくなるなら、距離の違いなんか無意味だ。
「………白石、お前」
謙也がなにか言いかけて、屋上の扉が開いた音に注意を逸らした。
「……千歳」
「ああ、謙也もおったんか」
聞こえてはいたけど、振り返らずに空を見る。
今、顔を見たらすがってしまいそうだ。
「………」
「なに探してんのや」
「あ、あった。これ」
「……くしゃくしゃやないか。一枚の紙くらい普通に持ち歩けや」
「白石」
久しぶりに、その声に呼ばれた。
振り返らせる引力がその声にはあって、逆らえず振り返った自分に彼は一枚の紙を見せた。
「なんやこれ」
「合格表。これで、文句なかやろ?」
なにが文句がないのか。
よく見て、その千歳千里の名前の入った合格表の学校名に、呆れてやりたかったけど、驚いて、なにも言えなくなってしまう。
「あ、これ…白石が受けたとこと」
「同じとこばい。…じゃから、またよろしく」
なにも言えずにいる自分の肩をたたいて、謙也は千歳に向き直った。
「ほな、こいつの全部任せたから、頼む」
「おう、引き受けたばい」
足取りを軽くして去っていく謙也を追うに追えず、フェンスとの間に腕で閉じこめられた。
「…お前が、ここ話しかけんかったの、これの結果待ちやったんか」
「まあ、結果が形になれば、白石も安心出来るとやろ?」
「………………」
捨てられる覚悟はしているのに、いつまでもこの犬は捨ててくれない。
自分を拾ってくれる人間にかみついてまで、自分の側を離れようとしない。
そうやって、そんな寂しいほどの覚悟で、自分になにを望むのだろう。
「下宿先、近いとこ探して、一緒に住もや」
笑顔でそんな優しさを込めて、なにを望むのだろう。
いや、なにも望まないのだろう。
彼は、そういう男だ。
自分が、彼の側にいれば。自分が彼の言葉を信じるなら、彼はそれ以上を望まない。
だから、俺は覚悟するのに、そこから覚悟を裏切られる。
諦めて、諦めて、伸ばされる手を振り払うのに。
振り払ったら、自分から暗闇に降りてくる、どこまでも馬鹿な奴。
「……馬鹿」
呟いてしがみついた彼の胸は、変わらず優しい匂いがした。
抱きしめる腕だけが、少し痛かった。
「…ええんか? お前、せっかく第一志望受かってたんに」
「ええって。そっちの方がテニス強いし」
「けどなぁ…なんでも兵庫の方まで行かんでも」
「…や、ええんです。それが一番やって、思ってますから」
オサムはそうか、と頷くだけだった。
日々はあっという間にすぎる。
卒業式で、騒ぐ面々に笑った。
「白石、荷物、いつ運ぶ?」
千歳の言葉に、明日でええやろ、と答えた。
(明日には、俺は大阪おらんけどな)
それは言わない。
「白石も小春も謙也も千歳も、みんな同じ学校やろ!? 俺乗り込んでくからな!」
「そのころにはもうちょい大きくなっとーや?」
「おう、目指すは千歳や!」
「俺、そないでかなった金太郎をかわいい思えるかわからん」
「言うな小石川、俺もわからんけど、とりあえず富士山が東京にあるて思ってるうちの金太郎は可愛いんやない?」
「そんなもんか」
白石の言葉に納得した小石川が、写真撮るでーと騒ぐ小春たちに引っ張られていく。
写真くらいはもらっていこうか。
そう思ったけど、きっと見るのも辛くて写真立てには飾らないだろう。
桜が散る。
もう二度と、会うことのない恋人を見上げて、笑う。
なにと笑う顔。きっと、辛いのは今だけ。
いつか、風化していく思い出は、残すなら写真一枚だけにしよう。
「千歳」
集合をかける小春の声を聞きながら、見上げて囁く。
「またよろしゅうな」
「ああ」
そんな嘘ばかりの言葉は、今だけバレなければいい。
だから、もう、いい。
きっと、俺は優しくされることが好きだった。
白石と呼ぶ優しい声、落とされる優しいキス、優しい腕。
きっと、ずっとそれが好きだった。
もう会えないなら、それはなんて切ない記憶。
もう俺を抱くことはない腕を引っ張って、小春たちの元へ向かう。
呼ぶ声にあわてて走り出す千歳を、少し離れて見やって。
呟く。
「さよなら……」
四月も瞬く間にやってくる。
引っ越したのがもう一年も昔のようだ。
アパートの前でかかってきた電話に、誰だろうと見たらかつての顧問だった。
「なに、オサムちゃん」
携帯は番号ごとこっちに来てすぐ変えた。
顧問だけには教えたこの携帯に、他の奴からかかってくることはない。
『ああ、馴れたかって』
「馴れん馴れん。特に言葉がさっぱりわからんわ」
『ああ、馴れないて言うてたわあいつも』
「ん? 誰かオサムちゃんの教え子で遠く行ったやつおんの?」
鍵を開けるためにかがんでいたら隣の部屋の住人が帰ってきた。
はて、隣は空き部屋だったはずだが、外出している間にでも引っ越しが行われていたのだろうか。
そう思いながら、鍵を開けて顔を上げて。
『ああ、千歳がな』
顧問の声が、聞こえない。
携帯が手からかつん、とコンクリートに落ちた。
「白石」
呼ぶ声。こんなにも懐かしくて、相変わらず優しくて、恋しくて。
捨てた筈なのに、お前はそうやっていつも酷い優しさで俺を縛る。
「すぐ書き換えとってよかったばい。これ以上、逃げられんのは勘弁」
「………ち」
「もう離さんから、覚悟しなっせ」
抱きしめる腕が、相変わらず痛いのに、相変わらず優しい。
お前はそうやって、いつも優しく俺を縛る。
俺はいつも、その優しさに恐怖しながら、甘えて逃げられない。
もうこれ以上、逃げられる筈がない。
こんなに優しく呼ばれて、抱きしめられて、こんなに優しく縛り付けられて。
もうこれ以上、どこにも逃げられる筈がない。
「…白石……好いとうよ」
今更のような言葉に、なにも言えないのに、触れた優しさに勝手に手は背中に回された。
顎を捕まれてキスが落ちてくる。
優しさが怖くて、それ以上にうれしくて。
零れた涙が、頬を伝って白石を抱きしめる千歳の肩口に落ちた。
もう、逃げられる筈がない。
こんなにも優しい腕から。声から。
もう、捨てることなんか出来ない。
だから、魔法のようにもう一度。
縛り付けて欲しい。
その腕で、声で。
お前はここにいろと。
離さないと。
真実を言って。
そうしたら、もう逃げないでただ側にいる。
暗闇よりなにより、この腕の中が欲しい。
この暗闇にもしも光が差すなら。
悲鳴(こえ)をあげて 名前を呼んで
一度だけでも
(――――――――――――それが最期でも)
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