「俺、師範のこと、好きなんや」


 そう、部活仲間で、寮で同室の小石川に告白されたのは、六月の雨の日だった。


「………あ、……」
 そう迷って、どう言葉にすればいいかもわからなかった。
 小石川のことは好きだった。
 ただ、仲間として、だった。
 優しい仲間思いの彼が好きだった。
「…ごめん!」
 急に小石川は謝った。雨の日の、寒くて静かな寮の自室。
 二人きりになれる場所は他になかった。
 小石川は石田の当惑も、自分を好きでない気持ちもわかったのだろう。
 気遣うように微笑んだ。
「俺の自己満足やから。…忘れて」
 そう、あくまで自分を気遣って微笑む優しさに、胸が痛くなった。
 彼は、いつだってそうだ。
 自分の痛みを置き去りにして、他人を気遣う。
「ごめんな」

 彼の、自己犠牲に似た優しさが、大事だったからこそ、優しくしたかった。
 自分のために、誰かに優しくして欲しかった。






 同じ部屋が住処だ。気まずく思う自分を気遣って、小石川は「白石の部屋に泊めてもらうし。気にせんで」と言っていなくなった。
 残された石田に、引き留める術はない。
 友人以上の思いはない。だから、断るしかない。
 なのに、引き留めて期待をさせるような、惨い真似は出来なかった。
 仲間として、とても彼が大事だった。

 でも、この寂寥はなんだろう。
 あの一瞬、胸が痛んだのは、




「あ、おはよ」
 翌日の朝練、部室で出会った小石川は普通に微笑んで挨拶した。
「おはよう…」
「師範はやっぱり早いな。今日も千歳は来るかわからんわ。白石、なんか聞いた?」
「さあ。聞いても聞いてなくても、来るか来ぅへんか怪しいわ」
「言えてる」
 師範もはよ着替え、と中に手招く彼は本当にいつも通りだった。
 普通に着替えて、部員を待って、白石と話している、普通の彼。

 気に病む必要はない、のだろう。

 自分のロッカーに行くために、傍を通った時、ほんの一瞬小石川の身体が強ばった。
 一瞬で、よく注意していなければ気付かなかった。
 それに、背後で足を止めた自分に、更に彼は身体を緊張させたが、振り返るときょとんとした顔で「どないした?」と聞いた。
 いつも通りの顔なのに、そうじゃない。
「…なんでもない」
「そか」
 普通の笑顔、声、言葉。
 でも、それはやっぱり、彼の気遣いの上にある。

 白石が、こちらを見ていた。なにか、気付いたように。





 三時間目の授業の休み時間、隣のクラスで、よく同じクラスの仲間が教科書を四組に借りに行く。
 なんとなく、石田も席を立った。クラスメイトに石田が忘れ物?と驚かれた。
 四組の教室に行くと、小石川は廊下側の一番後ろの席に座っていた。
 彼はそこの席だ。借りに来た五組の友だちと、談笑している。
 楽しそうだ。
 気に病む必要はない、のだろうか?
「小石川」
「あ、師範」
 自分が呼びかけると、普通に顔を上げて微笑んだ。
 明るく。
 でも、その一瞬、机に置かれた彼の指先は跳ねた。驚いて。
 普通の仲間になら、絶対しない反応。

「…師範?」

 なにも言わない自分に、不思議そうに彼は首を傾げた。
「……」
 小石川は、唐突に席を立つと、友だちにごめんと言い置いて、廊下に出た。
 石田を促して、人気のない階段の方に行く。
「ほんま、師範、気にせんでな?」
「…いや」
「気にしとるやろ。…ほんま大丈夫。やから、忘れて。な?」
 優しく、気遣って微笑む顔は、よく見慣れたものだ。
 けれど、彼の優しさはいつも、彼自身を置き去りにする。
「…師範?」
 気付くと、小石川の手首を掴んでいた。彼の身体が、一瞬緊張する。
 更に強く握ると、彼の顔は一瞬泣きそうになった。
「…すまん」
「…謝らんで。ほんま。…頼むから」
 今にも泣きそうな顔で、彼はいいから、と言う。
 なんでもなかったから、と。
 忘れてくれ、と。
 最後には、やはりいつも通りに、笑った。






「銀て、健二郎になんか言われたん?」
 放課後の部室だった。小石川は外に出ていていなかった。
 白石と二人きりだった。
「……」
 着替えの手を止めて、どう答えるべきか迷った自分に「答えは求めてへん」と白石は素っ気ない。
「ただ、断ったんやろ?」
 わかっている。彼は。
「知っとったんか? 小石川が、儂を」
「それは、親友やしな」
「……」
「断ったんやろ?」
 白石は繰り返した。部誌を書く手は止めないまま。
「…ああ」
 はっきり言ってはいなかった。が、断ったのだろう、あれは。
 石田が重く頷くと、白石は軽く息を吐いた。溜息に似ている。
「同じ男に告白されてご愁傷様やけど、断ったんなら、下手に気遣わんといて」
「…白石はん」
 石田の語調に、白石を責める色が混ざった。
 ご愁傷様、はないだろう。親友に向かって。
「他に言い方あるん?」
「やって」
「師範は、困ったやろ? で、気まずいやろ?
 せやから、ご愁傷様。他の言い方があるなら、なんで断って、そない困っとる」
 白石の言葉に、石田は返す声を見失った。その通りだった。
 他の言い方はない。小石川に告白されて、困った。同室で、仲間で、男だから。
 傷付けたら、と。それ以上に困った。
 白石の言うとおりなのに、何故、こんなに痛い。
「…断ったんなら、下手に気遣わんといて。顔見に行ったりして、期待させへんで」
「……」
「頼むな」
 白石はそれで話を終わらせて、席を立つ。
 着替えるのだろう。部誌を机に置いたまま、ロッカーの前に立った。

「……なら、なんで痛いんやろう」

 そう石田が唐突に言うと、白石はこちらを見た。不思議そうではなかった。なにか、理解したように。
「…あいつが、『忘れて』言うた時も、白石はんに、そない言われた時も」
「……銀、は…ほんまにあいつに友情?」
「……」
「銀の気のせいやて、思うけど」
 白石の声は静かで、正確だった。友情なのだろうか。
 忘れて、と言った。
 彼が言った。
 でも、そんな風に忘れられていい程度の気持ちで、好きと言ったのか。
 違うだろうと、気持ちが痛い。

 顔を見に行ったりするな、と釘を刺されて、痛い。
 自分はまだ、彼に関わっていいはずだ。
 そんな風に、その他大勢で片付けないでと、痛い。






 寮に帰ってすぐ、自室に戻った。
 改めて見ると痛い。
 彼がいない部屋。
 笑う小石川の気配が、ない。

 気付けば、理解は容易かった。

 すぐ部屋を出て、白石の部屋に向かう。
 ノックをして、扉を開ける。白石の声の返事はあったが、きっと構っていなかった。
「師範…?」
 びっくりした顔の小石川の前に立って、「帰るぞ」と言うと手を掴んで引っ張って歩き出した。
「師範!?」
 部屋から引っ張り出されて、びっくりする小石川と逆に、白石は悟った風だった。
 自分の声の余裕のなさに。

「師範…っ! ごめん、わかったから、ええから!」
 廊下には人気はなかった。みな、テレビを見ている時間。
 だから、小石川は声に出して拒んでいる。
 そうじゃなければ、自分に優しい彼は気遣って黙るだろう。
「もうええから……忘れるから…」
 引っ張る手が、重みが愛しい。
 なのに、彼は「忘れる」と言う。
「師範…! 忘れるから…ホンマ、やめて…」
 泣きそうな声は背後からした。繋いだ手から、その震えが上ってきた。

 石田は急に振り返って、小石川の手を強く引く。
 瞬間、傍の部屋の扉が開いて誰かが出てきたが構わなかった。
 小石川の、自分よりは細い身体を腕の中に抱きしめる。
 小石川の身体は、緊張して、動きを止めた。
 驚いて。

 後ろ頭を撫でて、何度も背中に手を当てた。
 自分の腕の中に、彼がいるだけで、胸が詰まるような気がした。

「…師範…っ」
 彼の声に、我に返ったわけではない。人が見ていることは知っている。
 だが、手を離すと、彼の手を引っ張って、すぐ傍の自分たちの部屋に連れ込んだ。
 ばたん、と音を立ててしまった扉の鍵をかけると、小石川に向き直る。
 自分が掴んでいた手首を押さえて、茫然とした彼の顔には、少し涙の膜が張った瞳。
「…しはん?」
 おそるおそる、自分を呼ぶ、声。
 ぐいと、肩を掴んで、壁に身体を押さえ込んだ。痛みに気を取られる余裕なく、彼は怯えたように自分を見上げる。
 手で頬をなぞって、首筋に指を当てる。軽く辿ると、小石川はあからさまに反応した。
 悲鳴に似た声を上げる。
「そないな声、出すんやな」
「し……は、ん?」
 瞳の涙の膜は、今にも零れそうだった。
「……」
 後ろ頭を抱いて、腕の中にもう一度抱き込んだ。
「……好きや」
 石田の告白に、小石川は瞬きすら忘れて、腕の中で硬直した。
 何度も好きだと言って、背中を撫でると徐々に弛緩していく身体。
「……うそ」
「嘘やない」
「……ほんまに?」
 そう自分に問う小石川の声は震えていた。泣いているんじゃないか、と身を離すと、涙が零れていた。頬をなぞって指で拭う。
「ほんまや」
 顔を見て、そうゆっくりはっきり、告げるとまた涙が零れる。
「……そんなん……っ……」
 目を伏せて泣く顔が、愛しくてしょうがなくなる。石田の指が何度も頬をなぞると、小石川はおずおずとその手に自分の手を重ねた。
「…はよ、言うてや」
 涙声が絡んで、石田を詰った。全然怖くない。
 すまんと、謝ってまた抱きしめる。
 そして、顎を掴んで唇を、それに重ねる。
 小石川は流石に驚いて、声もなく真っ赤になった。







「…うまくいったやろか?」
「さあ」
 一方白石の部屋。毎度同じく入り浸る千歳が、二人の出ていった扉を見遣った。
 千歳は小石川が連れていかれた時に既にいたが。
「…きびしかね白石」
「俺、健二郎泣かせる奴嫌いなん。師範でもな」
「……白石」
 千歳は名前を呼んだだけだった。なにか言いたげだったが。
 賢明なので、なにも言わなかった。











 2009/07/11