ずっと二人でー夢U











 あの一瞬、頭を過ぎった、あまりに醜い心。





 全国、準決勝敗退。決勝までの間まで時間が空いていることもあって、ホテルに帰った四天宝寺の面々の気は緩んでいた。部屋でぼーっとしているものや、集まって泣くもの、様々だ。
 石田は寮で同室で、ホテルでも同室である小石川の様子が気になっていた。


「健二郎が」
 謙也の部屋を訪れると、彼はのんびりと財前とお茶を飲んでいた。
 彼は他者への気配りがうまい。自分が泣くより、他人なのだろう。
 小石川も、そういうタイプだ。
「ああ、ずっと、黙ったまんまでな」
 石田の言葉に、しゃあないんやないかな、と謙也。
「あいつ、副部長やしな」
「ああ」
「あと、銀さんのこともあるんちゃう?」
 謙也が石田の首に縛られている三角巾が支える折れた腕を指さした。
「多分、そうやともわかっとる」
「無茶しぃやから。うちは部長も副部長も。
 多分、両方とも、負けた時に糸切れたんやないかな。
 白石も、切れたように寝てしもて、起きないて千歳が」


 部長の白石は帰ってからずっと糸が切れたように寝ているらしい。
 寝かせといてやれ、と顧問は言う。
 千歳が傍に付き添っているらしかった。






 いっそ寝てくれればと思う。
 小石川はひたすら、貝になったように黙ったままだ。
 謙也と財前の部屋から戻る途中、部屋から出てくる小石川に出くわした。
「健二郎」
 滅多に呼ばない名前で呼ぶと、小石川はこれまた、滅多に向けないきつい視線で石田を見上げた。
 それだけで、石田は言葉を失う。普段、穏やかで優しい視線しか向けない小石川だから。
 責められた気分にもなった。負けた、自分。
 石田の顔に浮かぶ、その罪悪に気付いたのだろう。小石川はすぐ視線を柔らかくすると、首を左右に振った。
「師範の所為で、負けたんちゃうし」
 やっと、口を利いた。
「ほなら…」
「ごめん。ちょお外出てくる」
「え」
 言うが早いかさっさと廊下を歩いていってしまう小石川は、途中出会うチームメイトに明るく声をかけた。普段と変わらない彼の様子。
 だが、彼は自分を犠牲にして、他人に優しいのだ。知っている。


『無茶しぃやから。うちは部長も副部長も。
 多分、両方とも、負けた時に糸切れたんやないかな』


 謙也の言葉が、頭を過ぎった。
 すぐ、石田は廊下を蹴って、彼を追っていた。
 ホテルから出たらしい小石川に、ホテルの従業員にどっちに行ったか聞いてそちらに向かう。

 レギュラーから落ちた時すら、笑っていた。
 堪えていた彼を知っている。
 だから、今度こそ、その時切れなかった糸ごと、糸が切れたんだろう。
 それが怖い。
 一人で泣かせたくなかった。





 醜い、自分を知った。

『ゲームセット、ウォンバイ青春学園、手塚・乾ペア』

 あの瞬間、頭を過ぎった、あまりに醜い、侮辱の感情。



 負けてしまった。
 本当は糸は、もっと早くに切れてしまいそうだった。



 ホテルから出て、信号の多い道をなんともなしに歩いていると、空がやけに暗いと気付いた。
 一雨来るかと思いながら足は止めない。
 不意に、背後から響く足音に、はたと振り返って、小石川はぎょっとした。
 こっちに向かって走ってくるのは石田だ。多少、追ってくる予感はした。
 しかし、顔が必死で、正直怖い。
 気付いたら自分も走り出して、逃げていた。


(ななななななんでっ!? てか師範、運動してええの!? 腕は!?)


 なら自分が止まればいい。だが、出来なかった。
 純粋に追われるのが怖いから、条件反射もある。充分ある。
 昔、自転車で出かけた時に、背後で自分を見つけた同級生が笑顔で追いかけてきたことがあって、思わず怖くて逃げたことがある。あれは条件反射だ。笑いながら追われたら怖い。
 だが、今はそうじゃないし。
 それに、今は石田になんかすがれなかった。
 白石になんか無理。謙也にも、千歳にも無理。

 言えない。だって自分は、

 空を覆う雲が重苦しかった。なにかが頬に当たる感触に、小石川は足をぴたりと止めた。
 すぐ追いついた石田が、痛いほど自分の右腕を掴む。
「…健二郎?」
 荒い呼吸で名前を呼ばれた。雨が降ってきた。止まらないと、あかんやろと言った。石田の腕を指さして。
 石田は理解して、痛そうに目を細めた。
 やめて欲しい。そんな風に理解らないで。

 雨宿り出来る場所に行くまでに、結局濡れてしまった。
 石田の腕を自分が着ていたジャケットで濡れないよう保護して、たどり着いたのは人気のない公園の傍、閉まった店のシャッターの前。
 濡れた髪と、服が張り付くのが気持ち悪い。
「健二郎」
 石田の呼ぶ声を無視した。
「健二郎…」
 じれったいように、何度も石田が呼ぶ。
 顔を背けて、小石川は答えなかった。

 言えない。こんなの。
 ぐちゃぐちゃで、頭の中がうるさくて。
 吐き出したら楽だけど、言えない。言えっこない。

「健二郎…!」

 何度目かの声に、小石川は堪えきれずに店の軒先から出た。
 走り出そうとして、すぐ腕を掴まれた。片手で器用にシャッターに押さえつけられて、ぶつけるようにキスをされた。
 抵抗しようとした腕は、出来なくて石田の背中にすがる。
 瞼を閉じて、触れた石田の背中は冷たく、濡れていた。
 大きな石田の手が、濡れた自分の肩を、手を撫でる。
 湿った頬をなぞって、瞼を開けた自分の額に張り付いた髪を退かすように触れる。
「……」
 なんで、なんて言えなかった。
 石田が優しいことを知っていたから。

「…お願い。黙らせといて」
「嫌や。今、お前を逃がしたら、お前は一生、儂に心開かんやろ」
「…大袈裟や」
「いや、そうや」
 自分の肩を掴んで、断言する石田に小さく嗤った。すぐ、喉が詰まる。嗚咽に。
「…言え…っこない」
「言え」
「……やって、あんな」
「言え」
「……」
 繰り返し、石田は強く、責めるように急かした。
 それが、自分のためだとわかるから。痛くて、すがりそうで。
「……師範が、怪我した」
「…ああ」
「駆け寄りたかった。せやけど、そんなん出来んやろ」
 石田は頷いた。
 駆け寄るわけに行かない。観客席から、出てまで傍に行ったら、下級生を不安にさせる。
 大丈夫だとわかっているから、駆け寄れなかった。
「…不安にさせたな」
 石田の声が優しく耳を撫でた。泣きそうになる。
「…師範が、万一テニスやれんようなったらて……」
「大丈夫や」
「……」
 視線を精一杯逸らして、石田の胸板を軽く押した。逃げるわけではないとわかるのに、石田は更に強く自分の肩を右手で掴む。


 負けてしまったと、すぐに理解した。
 ああ、俺達はここで終わったんだと。
 それが、悔しくて、悲しかった。

 すぐに、泣けなかった。
 白石がいる。

 後輩がいる。

 それ以上に、あの一瞬、頭を過ぎったのは、


「…俺、最低や」
「…健二郎?」
 血を吐くように、嘆いた声に、石田が驚いて小石川の瞳を真っ直ぐ見つめる。
「…あの時、千歳が負けた時…俺…ひどいこと…」

 あの瞬間、青学の勝利のコールの瞬間。

 過ぎった一瞬の、自分の愚かさ。

「…あんな、醜いこと思った……」
「どんな」
 石田の声は、あくまで優しく、柔らかく背中を押す。
「…」
 喉が震えて、もう逆らえなかった。頬を涙が流れ落ちる。
「…あそこに、おったの、俺でもよかった…んやないかって…!」
 千歳が立っていたコート。連れ戻されたコート。
 あそこに、立ちたいと思った。思ってしまった。
「千歳でも勝てへんなら、負けるなら、俺でもよかったんやないかて……そんな、四天宝寺の負け前提にして、千歳や光や、謙也に……ひどい……」
 途中から、嗚咽で声が途切れた。涙で視界が歪む。
 頬を何度も落ちていく涙に、手で目を押さえても意味がない。
「おれ…っ…俺……こんな……副部長やない…全然…こんなん…っ」
 痛々しく、自分を責めて泣く姿をこれ以上は見ていられなくて、石田は手を伸ばすと軽くだが、抱きしめた。本当は強く、骨が折れるほどに抱きしめたかった。折れた腕が邪魔だった。
「悪うない」
「しは……ごめ…おれ」
「悪うない。健二郎は。…責めるヤツがおったら、殴ったる」
「…こん…な……ごめん…最低で、……ごめ…」
「…当たり前の気持ちや。なんも、謝ることない」
 何度も繰り返し、自分を責めて謝る小石川を、何度も宥めて抱きしめた。
 ひどくなんかない。醜くなんかない。当たり前だと。

 だって、中学生は子供だ。
 身体が大きくても。

 そんな綺麗に、ただ認められる人間がいるのか。

 千歳だって、謙也だって、一氏たちだって本当はきっと。

 あとを担う後輩たちだって。



 自分だって、本当は。




 腕の中で、声を殺して泣く恋人に、何度も告げた。
 好きだと言った。
 そのたび、小石川は嗚咽を漏らす。
 何度も、背中を撫でた。





 たとえば、精神の糸にも、太さはあると思う。
 そうそう切れたりしないヤツとか、すぐ切れるやつとか。

 みんなを支えて、自分を置き去りにしてしまう、彼の糸は細かったのだと。

 だから追いかけたんだ。
 言葉は余すところなく本心だった。

 今、放置したら、彼は二度と自分に心を開かないと思った。

 だから、呼んだんだ。


 泣きやんだあと、小石川はやっと笑った。自然に、情けなさそうに。
 かっこわるいと。
 頭を撫でると、また笑う。
「そないなことない」
 仲間を支える彼はいつだって、かっこよかった。
 そう伝えると、やはり笑った。少しだけ、照れたように。












 2009/07/14