それは、ただ美しいだけの死体だった。
緩やかに時間の流れるこの世界で、一番忙しいのはなんだ、と問われたら大半が人形師、と答えるだろう。
人形師は、人形を造ることを生業にしたものたちだ。
特別な技術と力を学び、その職に就く。
彼らの造る人形は人間と全く大差がない。同じ大きさ、声、笑み、肌触り。
唯一、血が流れないこと以外、精巧な人形。
欲する人間は、召使いなどが使用目的。人形には自分が人形という意識が最初にある。人間ではない、人間に従う存在という意識は自ずとあるから逆らうこともない、従順な存在だ。
だが、欲する多くはそういう用途ではない。
欲する大半は、亡き夫、亡き妻、亡き娘、息子、恋人を模して欲しい、という依頼。
彼らは姿すら模せる人形師に、亡き最愛をもう一度蘇らせてくれ、と願う。
だからこそ、禁忌は禁忌。
破ってはいけない、そう千歳は教わった。
千歳のアトリエはある村の、奥まった木々の中にある。
そろそろ食料が尽きる、と家を出て足下を見遣った。
なにか扉にぶつかった気がしたから。
そこには、ただ、美しいだけの死体がいた。
なにか、夜盗からでも逃げてここで力つきたのか、息絶えているのは確かだった。
血痕が転々と遠くから続いている。首と左手、胸に深い刃物の傷。
血が流れた顔は、酷く整っていて息絶えた青さが余計ソレを際だたせた。
本来なら、村の役人に届けるべきだった。
しかし、千歳は青年の死体を家の中に運ぶと、血痕を誰かが見つけないよう跡を消した。
そしてアトリエに籠もった。
ただ、美しいだけの死体。
死体の美貌に虜になるなんて、どこかのお伽噺の王子じゃあるまいし。
けれど、それを精密に模して、一体の人形を柩の中で造った。
人形師は特殊な水の溜まった柩の中で人形の隅々までいじり、形取り、動く仕組みを組み込む。学ぶ前は千歳も驚いた。もっと、なにかで顔を彫ったりするのかと、と。
ほぼ三日三晩、不眠不休で造り、生まれてから半永久的に動くための仕組みが馴染むまでの五日間、千歳は柩の前で死んだように眠った。
起きては食べて、人形を飽きることなく見つめて、また眠って。
その時、自分は既に青年の死体に興味はなかった。
後日、密葬しよう。そう思っているくらい。
あの青年の家族がいるだろうから、見つかったらうるさい。
彼の家族の気持ちも、彼自身のきっと家族の元に帰りたかった気持ちも丸ごと無視して、全く気にならなかった。
それほど、青年にはもう興味はなかった。
人形師は大抵そうなるらしい。散々亡き存在を模していると、死んだ人間自身への愛着は薄れる。
けれど、これは自分自身の性格だな、と思った。
ぴちゃり、と水が揺れる。
手を伸ばして、ゆっくり起きあがったその頬を包む。
「おはよう」
「………」
「“蔵ノ介”」
村に出た時に、それとなく青年の身元を調べた。
蔵ノ介、という名前を。
そのまま名付けた。
美しいだけの人形は、とても綺麗に微笑む。
「おはようございます。マスター」
それで、満足すると思っていた。
ただ、美しいだけの死体。
ただ、美しいだけの人形。
「…マスター?」
微笑んで問う人形。
けれど、足りない、と強く思ってしまった。
微笑む美しさに、何かが足りない。
心だ。
すぐ、冷凍保存していた青年の死体をおいてある部屋に向かった。
人形師として、それは禁忌だ。
うるさく言われた。
それだけは、行ってはならない。
人形師の力は、人形から別の人形に心と記憶を移すことが出来る。
禁忌なのは、死体の心を人形に移すこと。
禁忌と言われるなら、行うこと自体は可能だろう。
そう思い上がった執着は、最早なんなのかわからなかった。
ただ、足りない、と思った。
死体の美しさに虜になるなんて、どこの王子だ。
だから、俺は王子とは違ったんだ。
死体の美しさを眺めるだけでは我慢出来なかった。
「蔵ノ介」
「…はい、マスター?」
「口、開けて」
こくりと頷く身体を抱き寄せて、口移しのように埋め込んだ。
心の結晶だ。
すぐ人形は瞬きを繰り返して、もう一度、瞳を開けて千歳を見上げた。
「……だれ?」
人形ではあり得ない言葉。誰かと問う視線。
足りた、―――――――――――――そう思った瞬間、胸を満たしたのは恐ろしい執着と欲望だった。
「蔵ノ介。これ、持ってってくれっとや?」
「あ、うん」
あれから数日。
生きた人間と全く同じように動き出した人形はまず、何故ここにいるか、千歳が誰かを問うた。
千歳は、お前は夜盗に追われてここに逃げてきた。俺はここに住んでいる人形師。お前はまだ狙われているらしいから、しばらくいるといい。そう言った。
夜盗に襲われた記憶はあるらしく、蔵ノ介はすぐ納得した。
千歳を手伝いながら、ぽつぽつ家族のことも話した。
「家族っちゅうたって、何人もおらへんよ?」
「そうなん?」
「一人。兄貴だけや。他はみんな戦争で死んだし」
「じゃ、お兄さんには俺が伝えとこうか?」
「うん。お願い。千歳は?」
「え?」
「家族」
「…俺はおらんね。一人も」
「…」
聞いたらまずかったかと、失敗したという顔をした蔵ノ介の髪を撫でる。
「もう馴れたけんね。大丈夫たい」
「…馴れる筈ない。俺も、寂しい」
「…うん」
そっと顎を持つと、蔵ノ介が唇を薄く開いて目を閉じた。
素直に千歳のキスを受ける彼に、千歳への愛情が芽生えているのは確かだった。
それを確かめるたび、背筋がゾクリとする反面、恐ろしくなった。
彼は、己が人形だと知らない。
千歳がかい出しに出た日だった。
部屋の隅々まで掃除して、蔵ノ介はふと奥まった場所にある扉に気付いた。
こんな部屋あったっけ。
そう首を傾げながら、手をかけて入ったらダメかもと迷う。
お伽噺の青髭じゃあるまいし。
そう考えて、扉を開けると冷気が流れ込んできた。
「寒…」
人形師だから、模すために預かった遺体を置く部屋だろうか。
掃除はいらないな、やり方がわからないと踵を返そうとして視界に過ぎった、工具などに隠れて顔が見えない一つの死体。
気付かないなら、幸せだった。箱庭の中で、僅かでも。
それでも、近寄ってしまった。
そこに眠るのは自分の顔だ。
自分の死体だ。
じゃあ、自分は?
ここにいる『自分』は?
玄関の方で怒鳴り声と物音がした。
「嘘つくなや! あんたの家で蔵ノ介を見たってヒトがおったんや!」
「見間違いじゃなかね」
「やったら家の中見たってええやろ!」
声は、千歳と自分の兄の謙也だ。
気怠そうに中に入ろうとする千歳と、それを許さず追いすがる兄と。
「俺も、聞きたいんやけど」
自分の声がそんなに響いた気はしなかったが、千歳は酷く驚いてこちらを見た。
「く…」
「蔵ノ介…!」
気付いて喜びの笑みを浮かべた兄が駆け寄ってきた。
抱きしめられて、その温もりすら感じられる。
嘘だ、と言って欲しい。
「…嘘、やんな」
「…え」
「嘘、やんな。千歳。
…俺、…人形やないよな」
蔵ノ介の言葉に、千歳は一瞬叫びたいような形相で否定しかけて、俯いた。
一瞬、否定したくなった程度には、真っ当な部分もあったんか。
そう思った。
「…蔵ノ介? なに、言うて」
「…奥、部屋見てみぃ。…俺の死体がある」
俺は、心を移された人形や。
そう言うと、謙也は信じられない顔で自分を見下ろした。
それでも奥の部屋に向かったのは、嘘だと信じたかったからか、彼もなにかおかしいと感じていたからか。わからない。
「……なんで、造った」
「……、……」
「謙也に頼まれたんやないなら、…なんで造った」
「………、」
「なんで造った! 心を使う真似までして…なんで俺を造った!!」
激高して千歳の胸ぐらを掴んだ手を、そっと握って千歳は目を細めた。
その、目の感情ばかり鮮やかで顔の変化が乏しい、表情。
「…お前が……、…綺麗やったから…欲しかった」
囁くように告げられて、きつく抱きしめられる。
「離せ…っ! そんな、そんな理由…誰が納得…!
俺は…なんなんや。…どうしたらええん。…人形でも、…人間でもないんに…」
怒り狂っていた身体が、徐々にきつい腕の中でおとなしくなっていく。
彼自身が、一番怖いのだ。
人形なのに、心は人間のまま。
恐怖も、愛情もあるから世界から別れがたく。
けれど、心を移された人形が禁忌であることを、普通の人間だって知っている。
違法に当たる人形の末路は、政府の手による抹消。
どちらにしろ、消滅は免れない。
彼は、再び味わう死に怯えている。
あの日味わった思いを、何故もう一度、と。
「……嫌や…。なんで…こんな半端な夢……。
……たすけてや。…あんたが俺を造ったんやろ。あんたが悪いんやろ…。
助けろや………」
やっと思い知る。
禁忌の理由を。
人形の自覚のない、人形がどれほど危険かを。
人間の意志がある、逆らう意志も、主を殺す意志もある人形を。
けれど人形は機能停止か完全な肉体抹消以外に死はない。
その上で、人間の殺意や抵抗意志がある存在は、危険でしかない。
だから、禁忌だ。
それでも、動く姿を見たかった。
心を持って、微笑む顔が見たかった。
心が応えるキスがしたかった。
死体に虜になった王子様じゃあるまいし。
死体にキスするだけに、諦めればよかったんだ。
翌日の早朝、三人で村を出た。
違法の人形だと知られる前にどこか遠くに行くべきだと、謙也が言った。
彼は、違法でもなんでも、再び蘇って会えた弟を無に帰すことは嫌がった。
蔵ノ介はおとなしくついてくるだけで、時折千歳によこされる視線を、千歳は考えないようにした。
知る前、彼にあった自分への愛情が、本当だったかすら、もう疑わしい。
自分の願望が仕組んだ細工ではないかと、思う。
美しいだけの死体。
足りない、と求めた。
欲しかったんだ。
逃亡劇は意外と長く続いたが、ある街で蔵ノ介のことがバレて、謙也が負傷した。
どう助かったかも、あまり記憶にないが、謙也は助かった。
人形や造った人形師はともかく、人間を見殺しにする程倫理のない街じゃなかったというところだろう。
だが、助かる前、負傷した兄を抱きしめた蔵ノ介の言葉が忘れられない。
「謙也はやめて」
なにを言っているのか、わからなかった。
「謙也だけは、人形にせんで」
次で理解する。俺と同じ道に置かないでくれと、願った声。
「…せんよ」
千歳はそう答えた。
一瞬、蔵ノ介が泣きそうに自分を見上げた。
謙也が目を覚ます前の朝、街を後にする蔵ノ介を追っていくと彼はなにも言わなかった。
ついてくるなと、言わなかった。
街は無関係の人間を傷付けた時点で逃げ腰で、無理に引き留めようという意志はなく。
街を抜けた森の中、斜面になって千歳より高い位置に顔があった蔵ノ介が一度振り返った。
「謙也は、よかと?」
聞いた千歳に、彼は頷く。
「…愛しとるから、…つれてはいけへん」
「…俺は?」
聞かなくても憎まれているのは知っている。
でも、その朝、彼がとても静かに、けれど自分にすがるように見つめてきたから。
「…お前は、…死んでも痛くないから…ついて来て………………ええ」
「…うん」
ついてきてくれ。
そう、彼は言った。すぐ、取り消すように「ついてきて『いい』」と付け足したけれど。
隣まで歩いて、肩を抱くと、小さく震えていた。
「…一人にせんで」
か細く、そう願うから。だからもういい。
一生、憎まれたままでもいい。
傍にいる。
それが、お前を造った俺の罪。
それが、あの日お前を見つけた、俺の罰。
握った彼の手は、生きた存在のように温かかった。
でも、造った自分が一番、痛いほど知っている。
彼は、人形なんだ。
わかっている。痛いほどに。
死にたいほどに。わかっている。
だから、傍にいる。
本当に死ぬことになったら、お前を連れていこう。
一人で、ヒトの迫害の視線の場所に遺したりしない。
だから、安心していい。
そう告げると、瞳が揺れて泣きそうに千歳を見上げる。
すぐ膜が剥がれて零れた涙を拭うと、重ねたキスを拒まないですがりつく。
二つの背中が静かに並んだ。
片方が消えることはない。
消える時は一緒だと、約束した。
2008/12/12