目が覚めると、自分の手をぎゅっと、掴んで、俺を見下ろして、傍で座っている謙也の姿がある。 毎日、毎朝。 同じ部屋で、手を握って抱き合って眠っても、彼はまだ、怯えている。 白石の失踪と思っていた、彼のいない年月が終わって、まだ一週間。 白石はまだ海外から帰宅しない両親の薦めもあり、謙也の家で暮らしている。 謙也の家も、両親はよく家を留守にする。 その日は、久しぶりに外出しようという話になっていた。 「謙也、時間大丈夫?」 「あー、そろそろ出な」 「うん」 洗った皿を拭いていた布巾を置いて、謙也は身支度に自室に向かう。 白石の手を握って。 「…、謙也。今日、なに見んの?」 白石は少しだけ、悲しげに笑って享受する。謙也に引っ張られるまま、謙也の部屋に向かいながら聞くと「お前の見たいもんで」と笑った声。 「俺、今の映画しらへん」 「直感で」 「それでとんでもない外れひいたら嫌や」 「白石、勘エエからだいじょうぶ」 「…そうか。謙也がいうなら、そうやろうけど」 謙也の部屋で、謙也が着替えるのを待つ。 彼はずっと、自分を見たままだ。 笑っている。楽しそうに。 でも、どこかで、まだ、不安げな顔。 久しぶりといっても、戻ったその日も出た街。 あの日は、夜中だったし、なにしろ久しぶりの再会に一杯で、見る余裕なんかない。 バスに乗って、ここらで一番大きなショッピングモールに向かう。 休日でそれなりに混んだバスの車内。 自分の手を握る謙也の手が、熱くて、痛くて、妙な気持ちになる。 「…謙也」 「ん?」 周囲に聞こえないようぼそっと言う。笑顔の彼がこちらを見た。 「手…」 「え?」 「手」 「ああ。ええやん」 「…別に。降りてから繋いでもええやろ」 「嫌や」 一瞬、びくりとした。謙也の否定が、あまりに強く、低い声で。 「…ば、バスやで? そんな、いなくなりようなんか」 「ある」 そんなはっきり断言されると悲しくなる。自分だって好きでいなくなっていたわけじゃないし、いなくなりたいわけない。 わかっている。不安なだけだと。 超常現象じみた理由が原因だから、怖いんだって、わかっている。 謙也は、こちらを見ないで、変わる窓の外の景色を睨んでいる。 「…離したら、またいなくなる」 「……」 「見失う」 「………、……謙也」 きつく、俺の手を掴む手。 大きくて、暖かくて。でも、いつだって、必死で、震えている、手。 この手が、震えなくなるのは、いったいいつ? ショッピングモールの中にある映画館に入ってから数時間後、映画が終わると、大分気持ちも晴れた。 「謙也。なぁ、」 「あかん」 「え…」 言う前に却下されて、白石は怯んだ。何故だろう。 「なぁ…健康器具売り場、行きたいんやけど」 「アカン」 「…なんで」 「見るだけやろお前」 「そら、まだ買うお金ないけど…」 だからって、見てもいいじゃないか。 「うちでカタログでも見れば充分」 「……、」 むすっとした顔の白石に怯まず、謙也は強気に言いきる。 ここまで、反対されてはしかたない。映画も全部、謙也持ちだし。 「……わかった」 「よし」 渋々頷くと、謙也は満足そうに笑った。その一瞬、手の力が緩む。 「ただ、食材買い物してった方がええんちゃう?」 「あ、…そやな」 謙也も、家にもうあまりないことに思い至ったらしく、一瞬不快そうな顔をした。 わかっている。 混雑した日曜のショッピングモールなんて、迷子になりやすいことこのうえない。 そんな場所に長居したくない気持ちは、わかる。 過保護すぎる。でも、わかる。 …離れたくない、気持ちは、理解る。 「謙也」 今日はカレーにしようかと思って、肉を手にとって選んでいたが、値段の目安がまだわからない。 振り返って謙也を見遣ると、珍しく自分から視線を外していた。 向こうで、買い物客のおばさんを手伝っている。高いところのものを取ってやっているのだ。多分、押しの強い大坂のおばさんにごり押しされたというとこか。 (自分は、かまへんのか……いやいや) あれはごり押しされただけだ。謙也の顔には浮かんでいないが、オーラが『邪魔すんな』だ。謙也は基本親切なので、絶対に表情に出さないが、『白石第一』なとこが強いので、それを邪魔されるとうっすらオーラが出る。 (…なんか伝わってくる。こっち気にしてる気配がする) ここまでばしばし感じる気配は、もう声にしているのと一緒だ。 溜息を落とす。 嬉しくて、しゃあないな、という溜息。 自分の顔は、今、緩んでいると思う。幸せに。 束縛されても、嬉しい。束縛する手が、気持ちが傍にあるから。 今でも、変わらず、昔以上に自分を好きな彼がいる。 過保護なのは、帰ってきた証。自分がいるのは、もう、あの世界じゃない。 明るくて、ヒトに溢れた世界。 …謙也がいる世界。 呼ぶと答える。見ると自分を見て笑う。抱きしめる腕がある。 謙也が、傍にいる。 それだけで幸せなのに。他のことなんか、どうでもいい。 いなくなったり、しない。 ( こんなにも、…お前が好き… ) くすぐったくて、でも、幸せ一杯で。 それ以上のことはない。 「…ま、しゃあないな」 そう呟いて、謙也が傍に戻るのを待とうと思った時だ。微かに動かした視線に、なにかが触れた。 「……」 スーパーのレジの向こう側。 ワゴンに山積みになっているあれは、もしや。 白石は一度、謙也を振り返って、まだおばさんに掴まっていることを確認すると、そっと離れた。その場を。 「…あ、ほな、もう」 「あら、ごめんなぁ。ありがとう」 なんか、ハートマークつきっぽい台詞をもらった。 疲れた。高い位置からものを取るのは構わないが、マシンガントークに付き合うのが疲れた。 (うちのおかんに似てる…) 自分の母親は典型的な大坂のおかんやな、と思いつつ、謙也は視線を戻して、呼吸を止めてしまった。そこにいるはずの、姿がいない。 「あー、違うやつやったか…」 通路のど真ん中にあるワゴンに積まれたセール品のクッションが、遠目にテンピュールっぽく見えたのだが、よく考えたらそんなセール品として置かれるわけがない。テンピュールが。 (…そこんとこを忘れてた。やっぱり俺、今、軽く世間知らず…) 微かに、そこにショックを受けつつ、白石はスーパーの方に足を向ける。 レジの傍を通り、置いたままのカゴの傍に引き返す。 「…あれ」 謙也が、いない。 「…謙也?」 いなくなった? 連れて行かれた? まさか。 そんなはずない。 だったら、 (俺がいないのに、気付いて早合点して……?) そう思い至った瞬間、今が一人なことよりも、怖くなった。 「…謙也!」 カゴのことなど忘れて、その場を駆け出す。 「謙也!」 ( アカン。俺の馬鹿…! ) スーパーは、でかいショッピングモールの中にあるだけあって、かなり大きい。 棚は高いし、いくつも並んでいるから、一番奥の通路からいちいち中を見ていかないとどこにいるかなんてさっぱりわからない。 いや、スーパーの中にいないと思って、この広いショッピングモールの中を探しているかもしれない。 「謙也…っ」 怖い。怖い。どうしよう。怖い。 ごめん。謙也。 どこかで、嬉しく想いながら、どこかでほんの少し、お前の過保護さを重荷に思っていた。いなくならないってわからないのかって、窮屈に思っていた。 ごめん。 怖くて、当たり前なのに。 一人の人間がいなくなる。目の前から消えて、何年も待ち続けた。死んでいるかもわからないまま。 戻ってまだ一週間だ。 怖い。怖い。 またいなくなったりしないか。自分が呼んだら返事をするか。傍にいるのか。 その保証がない。 「謙也」 振り返って、でもそこにいないかもしれない。 そんな相手がいたら、怖い。 一緒に出かけるのだって、張りつめた糸が切れそうになるまで張ったままの精神だ。 帰宅して、やっと緩む。 そこにいない俺を見たとき、謙也の糸がふつりと切れたんじゃないかと思ったら、泣きたいほど怖くなった。 「………」 中を一通り探してから、同じようにそこのワゴンのセール品のクッションに気付いて、そこにいるかもしれないと思ったのだろう。 謙也の姿は、灯台もと暗しのそこにあった。 背中を向けたままで、こちらに気付いていない。 クッションを一つ取って、すぐ置く。その動作が、あまりにぎこちなくて。 「謙也!」 堪えられなくて、呼んだら、弾かれたように振り返った。 その顔は、見ていられないほどに、怯えていた。 「…謙」 「どこ行っとった!!」 最後まで呼ぶ前に、怒鳴りつけられた。 周囲の客が、何事だとこちらを見る。 「…ごめん」 「せやから、どこ行っとった!」 「…謙也、探しに」 「やったら最初からうろつくな!!」 「……、うん」 「……最初から…っ」 言われるままに頷いて、傍に立って謙也の手を掴む。震えている。 「……っ」 自分を見下ろす瞳が、我慢の限界のように揺れて、涙が溢れた。 「……、……」 そのまま謙也は何度もしゃくりあげて泣き、自分を抱きしめる。 きつく、痛いほどきつく、抱きしめた。周囲のことなど、きっと頭にない。 自分も、彼の背中に手を回して、きつく抱き返した。 ここにいる、と教えたかった。 安心させたかった。謝りたかった。 きつく、抱きしめながら、泣きながら、謙也は一言、あまりに小さな声で言った。 「 こわかった 」 ごめん。ごめん。馬鹿だった。ごめん。 もう、離れたりしないから。わかったから。 理解ったから。 お願いだから、もう、怖がらないで。 「…ずっと、一緒にいるから」 あげられるというなら、いくらでもあげたかった。 安心も、安らぎも、言葉も。 気持ちも。 切り取って、与えられるならいいのに。 見せられるならいいのに。 言葉以上で、示す術を、まだ知らない。 帰宅したあと、泣き疲れてひどい顔を洗いに洗面所に向かった謙也の手は、当たり前のように自分の手を握っている。 「…なぁ、謙也」 「なに…」 まだ、少し怒った声だ。 「繋いどこうや」 「…?」 謙也が、水に濡れた顔をこちらに向ける。 「手錠ででも、鎖ででも。俺とお前の手。 …繋いどこや。鍵、捨てて」 「…、白石」 「…怖いなら、…繋いでてや。…ずっと、離れんように」 繋いで、鍵かけて、鍵を捨てて。誰も俺達を引き離せないように。 自分をまた、抱きしめた謙也の肩に、顔を埋めて、考えた。 どうやったら、安心させてやれるのかを。 自分が出来ることなら、なんだってしよう。 いっそ、お前の部屋に閉じこめといてくれないか? もう、離れたりしないように。 THE END |