[三日月の上の星]










 硬い扉の向こうで、一人で壊れていく。
 そんな、恐ろしさを、ずっと感じていた。
 なのに、なにもしてやれなかった。







「おはよう」
 朝、部室を訪れた小石川は、まず挨拶をする。普通に。
 部室にいたのは、当たり前だが白石。それから石田。
「おはよう健二郎」
「おはよう」
 二人の挨拶に微笑んで、小石川は部室に入ると扉を閉めた。
「お前、解決したんやろーな?」
 白石の隣のロッカーに立つなり、小石川はそう言った。
 石田は予測がついたので、口を挟まない。部員は皆知っている話だからだ。
「あーうん」
「ほんま?」
「…」
 小石川の問いに、白石は遠い目をした。くるりと振り返って、小石川の肩をがしっと掴むとぎゅううとしがみつく。
「健二郎! お前だけが頼りや!」
「え? なに? …俺、千歳またどつきに行くん?」
 やって、と言葉を濁す白石は「はい」と言っているのも一緒だ。
 部内のバカップルとも言える白石と千歳は、喧嘩した場合いつも、千歳が悪い。
 そして、千歳と力関係が明らかに「千歳<」、なのは小石川だ。
 泣きつかれるのも、いつものこと。
 小石川は内心思う。とかいうて、こいつら今日の昼休みには仲直りしていちゃいちゃしとるんやで?と。





 昼休みには本当にいちゃいちゃと昼飯を一緒に食べていた千歳と白石に、一応様子を見に行った小石川は、疲れた顔で自分の教室に戻る。しかし、安心したのも本当。
「しかし、謙也も光と仲ええし…あいつらはあれやし……。羨ましいっていえばそうか…」
 そう零して、廊下の途中で足を止めた。
 瞬間、頭が鈍く痛んだ。すぐ歩き出す。

 ―――――――――恋愛なんか、したかて。

 意味がない。わかってる。
 欲しがるだけ、相手が迷惑。



「健二郎」
 背後から肩を掴まれて振り返らされた。石田が 立っている。
 小石川はハッとして、すぐ微笑んだ。
「ああ、師範。どないした?」
「…いや、昼、一緒に食べへんか?」
 石田は一瞬、顔をしかめたが、そう言った。なんでもないように。
 小石川は頷いて、どこ行くか、と笑った。


 考え込む寸前、いつも石田が気付くとそこにいる。


 有り難くて、だけど、たまに――――――――――思い切り手を振り払いたくなる。


「師範は、優しいな」
「……」
「?」
 見上げると、石田は今度こそ自分を真っ直ぐに、なにかを堪えるように見下ろす。
 その視線の意味だけは、わからない。
「師範?」
 石田は柔らかく言った。優しいのは、お前だ。






「小石川、ちゃんと食べとう?」
 千歳がある日、石田のところに来てそう言った。
 小石川は一年の練習を見ていて、いない。
「食べてはおる」
「そか」
 千歳も気にしている風だ。
 かといって、謙也たちは気付いていない。
 昔(まえ)から、気付くのはいつも、自分と白石だけだった。
「…手を伸ばせんゆうんは、歯痒いな」
「…、あれは、特にやろ。白石も、そうやけん」
 千歳は眩しそうに背後を振り返る。小石川がいるコートは、日差しが一直線に照らして眩しい。千歳は右目が不自由だから、余計だ。

 見えない目。それでも、可能にする、あのテニスを。

 石田も、正直羨んだ。

「師範」
 丁度その時、小石川がこちらに走ってきた。休憩らしい。
 千歳を見つけて、あからさまに馬鹿にしたように笑う。
「お前、白石になにした」
「え?」
「昨日」
「…聞いてなかと?」
「復唱」
 千歳が途端、たじたじになって背後に下がった。小石川の手が遠慮なく首根っこを掴んで、首を腕でホールドする。
「人の親友泣かせるたぁ毎度毎度ええ度胸やな」
「いだだだだだっ!」
「……」
 石田は助けに入るべきか、迷った。今回も多分、千歳が悪い。
 小石川は親友思いなだけだ。
 迷う自分に気付いたのか、小石川は自分を見て、笑った。悪戯っぽく。





 硬く閉じた扉の向こう。
 彼はそこに、誰も立ち入れさせない。
 一人、閉じこもったまま、傷が癒えたら、扉を開ける。
 傷が癒えないうちは、誰であろうとも入れない。

 いつか、壊れていきそうな、気がしていた。
 しかたなかった。



 ―――――――――――――「レギュラーは一応、外れる?らしいな」


 小石川が一週間前、普通に笑って言った。
 せやけど、少し試合もでれるて、となんでもない顔で、平気な顔で。
 笑うから。



『小石川って、図太いよな』



 違う部の、誰かが言う。
 レギュラー落ちして、副部長続けるの、普通じゃ無理、と。
 小石川は、笑うだろう。
 レギュラーにならないまま三年間終える部長やって、探せばいるやろ、と。
 自分はマシだ、と。




 千歳を羽交い締めにしたままの小石川の顔が、気のせいでなく青く見えた。
 石田は手を掴むと、千歳から引き剥がす。小石川が「お」とびっくりした声を出した。
 それでもおとなしく、自分の腕の中に来る。
「千歳はん。ちょお、保健室行くわ」
「…ああ。わかった」
 小石川に絞められていた首をさすりながら、千歳はなにもかもわかった顔で頷いた。





 保健室に連れて来られても、小石川はなんにも反論はしなかった。
 自分の不調くらい、わかっているのだろう。
「気分、悪いか?」
 彼のなにが質が悪いって、限界まで堪えるところだ。
「んー…貧血かも。寝不足で」
 常人なら倒れるところを越えてなお、誰かが止めないと止まらない。
 痛みに疎くない。人一倍、聡い。
 精神は、強くはない。弱いと思う。
 なのに、そんな弱い心で、ぎりぎりを、限界を越えてなお、笑う。

 石田の伸ばした手が、小石川の肩を抱いて引き寄せた。
 腕の中に収まる身体は大きいのに、自分と比べたら非力で。

「もっとはよ、言うてくれ」
「ほんまに辛なったら言うから」
「…」
 そうじゃない。彼の辛い、はもう手遅れだ。
 嘘吐きといえたら、どんなに楽だ。

 言わない癖に。

 本当に、泣きたくなって、死にたくなったって、言わない癖に。
 絶対、誰にも頼らない癖に。泣かない癖に。

 図太い?―――――――――――――違う。


「今にも、ぶっ潰れそうなんや、お前」
「…は。師範、目、どないかなった?」
 俺のどこが、と微笑む小石川の顔を見ていられなくて更にきつく抱きしめる。
 腕の中に収まったまま、逃げていかない身体は体温が低かった。
 不調を示すように。
「大袈裟や。師範は」
 一人きりの部屋から、出ては来ないだろう、彼は。
 絶対に、誰かに弱音を吐かないだろう。
 他人にぶつけないだろう。
 強いんじゃない。弱い。だから、怖い。


 気付いた時には、手遅れなくらい、ぼろぼろに壊れていそうで。


『気持ちが心の中で飽和しきって初めて外に出すなら、まだかわいげもある。
 あいつは出さへん。自分自身に全部突き刺して、ぶつけて終わらせる。
 その痛みで泣いて、決着つける。
 せやから、あいつが怖い。いつか、振り返った時には手遅れな気がして』


 白石が言っていた。
 届きそうな腕も、思いも届かない。

 壊れないで。
 願うなら、それ一つしか願わないから。
 お前には、他のなにも願わないから。
 その一つだけは、どうか叶えて欲しい。







 石田は小石川と同室だ。
 彼が風呂に行った間、部屋で一人考え込んだ。
 机に置いたままのボールペン、散らかった紙は部活の資料。
 白石が直接指導や、メニュー決めを行う以上、彼の手に余る仕事は全て引き受けてきた。
 ナイター設備の使用許可や、時間、雨天の時の練習場所など、それらは自分の雑務だ。
 他にもあるが、言っていたらきりがない。
「…ぶっ潰れそうなんは、白石や」
 小石川の声は、一人きりの部屋では拾う人がいない。空しく響いた。
 石田のいうコトは、本当はわかっている。

 机に手を叩き付けて、呻るように零した。
「やって、間違っとる…今までは逃げた…」
 今までだって、しんどいことはあった。
 石田は自分にとって、なにより特別だった。
 だから、最後どうしても泣きたくなって、疲れたときは、石田の所に逃げた。
 ちゃんと、吐き出していた。

 けど、これを吐き出すのは、間違いだ。

 逃げられない。逃げたくない。
 千歳は、仲間だ。
 仲間のことを、仲間の石田にぶつけたら、――――――――それは千歳を否定する。
 そんなの、間違ってる。
 石田を苦しめたくない。千歳を否定したくない。
 だから、今度だけは、逃げない。





『辛いか?』



 あれは、二年の春だった。
 急に身長が伸びた小石川は、しばらく成長痛に苦しむことになった。
 最初はわけがわからなかった。経験がなくて。
 ただ、痛くて、なにかわからないから怖くて。
 成長痛だと知ってから、それでも苦しかった。
 特に夜、ひどく膝を襲う痛みに、身体を丸めてベッドの中で堪えていた。
 実家じゃないことを、寮に入ったことを初めて後悔した。実家なら、父がいた。
 でも、弱音を吐く子供ではなかった。
 自分が何故、そんな子供なのか、自分でたまにわからない。
 心はどっちかといったら、弱い方だからだ。吐き出すタイプのはずの、仕組み。
 自分は弱いと、認めていた。
 仕方ないと、諦めていたから、楽だった。自分の心が折れやすいことを。
 そうすれば、落ち込んだ時、ああ、いつものだ、と思って泣いて終わりに出来る。
 下手に、なんでこんなことで泣くんだ、とプライドが邪魔することもない。
 誰かに頼る選択肢は、なかった。一人で片付けるのが、普通だった。小石川の中では。

「大丈夫か?」

 夜、痛くて眠れないとき、起こさないように堪えるのに、気付くと石田は寝台の傍に座って、自分の頭を撫でてくれた。
「はやく寝ないと、師範、明日眠い」と言うのに、石田は遅刻するなら一緒やろ、と優しく笑う。
 父を思い出すことはなかった。父は構いたがりで、明るく、子供っぽい人だった。石田には当てはまらない。
 石田の手に、シーツ越しに身体を撫でられていると、気のせいじゃなく身体の痛みが薄れる。そのまま、眠りに落ちる。寸前で、石田の安堵した声が「おやすみ」と囁く。
 泣きたいほど、安心した。

 そんな居場所。


 ―――――――――恋愛なんか、したかて。

 意味がない。わかってる。
 欲しがるだけ、相手が迷惑。

 そう思った。
 思ったのは、わかっていたから。

 自分が、好きな人が、わかっていたから。もうとっくにいたから。
 でも、どこまでも愚かな自分は、それは違うと、迷惑だと信じた。
 居場所なのに、逃げられない。





 視界が真っ暗になった。なにかと思う前に、それが頭にかけられたバスタオルだとわかる。
 そのまま、抱きしめられた。
「師範?」
 石田だ。何度も抱きしめられたから、わかる感触。
 石田は話さない。離さない。
「…師範?」

 ぶっ潰れそうに見える、と石田は言った。

 だって、逃げられないんだ。

「…………」
 自分が泣いているから、抱きしめてくれたんだと気付いた。目尻を濡らす熱い涙は、またすぐ溢れて流れた。
 利かない視界で手を伸ばすと、石田の身体に掴まった。
 羨ましい。白石が、千歳が。
 (唯一)誰かがいる、人が。

 迷惑だって知っている。

「…儂は、どないしてやったらええ」
 石田の方が、泣きそうな声で言った。自分を抱く手が震えている。
「…なら、なんも聞かへんで」
「それは」
「そのまま、抱いとって、痛いから、抱きしめとって」
 初めて、逃げる言葉を吐いた。石田は息を呑んだあと、安堵したように息を震わせて、自分をきつく抱きしめる。
「…俺のこと、…優しいして」
「…ああ」

 卑怯で、ごめん。
 卑怯で、馬鹿でごめん。

 辛いことも、逃げられなかった理由も言わないで。
 ただ石田の優しさを利用する。
 ただ、拠り所として、甘える。

 それが申し訳なくて、辛くてしかたないのは、…好きだからだ。


 彼らが羨ましかった。
 あんな風に、なんの気兼ねもなく、対等に在りたかった。石田と。
 そのうえで、好きと告げたかった。思いたかった。

 自分は食い物にする。石田を利用して、甘え尽くして、それでなにも返さずに。
 対等じゃない。端から負けて、勝つ気もなく、依存する。
 醜いから、迷惑だって我慢したのに。


「…好き言うて」


 涙に絡んだ声で、願った。石田の手がきつく、更に抱きしめたあと、すぐ離した。
 そのままタオルを取り払われて、きつくまた抱かれる。唇に、石田のソレが重なった。
 うっすらと開いた瞳から、涙が零れて石田の姿がぼやける。

 幸せで、痛くて、どうにかなりそう。
 嬉しくて幸せで。
 自己嫌悪で痛くて。
 どうにかなる。


 手を伸ばして、首にすがりついた。


 好きだ、と思う。それだけは、本当だった。








 泣き疲れて寝台に眠る顔を、石田はそっと撫でた。
 小石川は、自分を軽んじていると、知っていた。
「…優しいだけやない」
 石田は自嘲のように笑った。同室の相手が眠ったあとでは、実質独り言だ。
「儂は、お前のように、優しいだけの奴やない」
 彼は、自分を買いかぶっている。
 ただ、本当の善性の人だと、信じ切っている。
 そんなはずない。
 好きな人間のためなら、好きな相手の弱さすら、利用する。
 つけ込む。
 甘やかして、心の中に自分の居場所を作って。
 優しい言葉で、自分を必要にさせる。

 なにが迷惑だ。迷惑なものか。
 お前が気付くのを、待っていた。
 逃げてくることを、待っていたんだ。

 そうしないと、お前を得られないことは、わかっていたから。

 言わなくても、いい。
 お前が逃げなかった理由を知っている。
 言わない分、苦しむだろう彼を、抱きしめて、甘やかして、抱いて泣かせてやるから。
 自分を傷付けて泣かないで。
 涙で哀しみを流したいなら、自分が泣かせてやる。





 硬く閉じた扉の向こうで、一人で壊れていく気がした。
 だから、もう待たない。
 扉なんか壊して、手を掴んで引きずり出す。
 彼が泣き叫ぶなら、思惑通りだ。


 一人で、壊れさせたり、しない。
 きっと、自分の方が、壊れている。



 手を握って、キスを落とす。
 彼の声が、自分を呼んで、謝った。
 それに、ただ答える。眠る彼に、届かなくても。











 2009/07/24