部活紹介で、体育館のステージ上に上がる人々の影が下で踊る。
 体育館の高く、過分な癖、四隅にまで届くことのない明かりが天井中に散らばっていて、色の違う照明もある。その分、照らされて落ちる人の影は二重三重にぶれて、薄くなり濃くなって重なる。広い室内で素直に体育館座りなどしている奴も少なく、くだけた姿勢で周りと話す姿やあからさまに眠たそうな奴。ご丁寧にしっかり見ている奴と千差万別だ。
 どれに入る? と囁き交わす声。無関係にあの人が格好良いとかいう声もする。
 見渡して、乾と同じ組だと言ったけど、その乾も不二も見あたらなかった。
「…………いねぇな」
「……………」
「乾もいないってのはどういうことだ」
 サボる口じゃないだろうと、ステージの裾で跡部が口にした。他からは見えないステージの死角だ。明かりもほとんど届かない。赤黒いカーテンの影は、やはり二重になって落ちている。
 紹介する立場にでもならない限り、他の上級生は暇だ。多分教室でだらだらしているだろう。急にソレが羨ましくなる。とりあえずこの場を離れて。
 離れて。
 大仰なため息をつくと、跡部までもが大げさにギョッとした。
 手塚は気づかない。気にしない。
 とりあえず、とりあえず探して。
 だって。

(逢いたい)

 帰ってくる、と。その言葉を聞くまで我慢できていたはずだった。
 会いたい。けれどそれは彼も同じだから。困らせたくないから。堪えようと。永遠に会えないわけではないのだからと。
 大きな休みを利用して、何とか再会出来たのも、今から数えれば何ヶ月も前だ。
 必ず帰るからと。一年遅れるけど、青学に行くから。と。
 決意の見える声で言われて。――――――――どうにもならなくなった。
 会いたくて会いたくて会いたくて、一日ですら待てなくなる。
 急に途切れた電話とメール。不安と焦燥。
 そこへ、他人から。仲良くもないような他人から“帰国してる”とか聴いて。
「………………」
 それで姿が何処にもないってどういう事だ。
 総出でからかわれた気分だ。もし本気でそうだったら全員シメる。はっきり言ってもう一日も堪えきれない。なんて言われようが知ったことか。
 思わず口から舌打ちが漏れたが、あまりに真剣に考えていたから気づかなかった。
 側にいた跡部と部長が青い顔をして咄嗟に手と手を取り合って離れたことも、手塚は知らない。





「馬鹿」
 これほど平坦な声で言われて腹立つ言葉もない。
 と不二は初めてそう思っている。
 ひんやりとした静謐な空間。固いリノリウムの床と、消毒されたタオルとガーゼとピンセット。
 開かれたままの利用者名簿。「1−8 不二周助」と書かれた横の欄には“貧血”とでかでかと書かれている。筆跡はたった今不二をこきおろした乾のモノだ。
 普段とは違う。神経質そうな印象さえ相手に与えて、けれど自己主張の不思議とない字を書くのが彼なのに。教科書のお手本のような、パソコンで『明朝』とか評されそうな字に見えて実際奇妙な癖のある書き方をするのに。
 …実際、不二周助と書いた字は普段の彼の字だ。
 これは多分怒られている。
 外だけが賑やかな世界で、窓には厚いカーテン。薄水色をしているから室内に落ちる陽光は青白くなる。カーテンの隙間から斜になった白い日差し。閉じられた扉。
 特有の消毒液の香りが鼻につく。静かで静かで、壊せないような静寂さは感情にさえ眠ることを促して。
 けれど、乾はそれをさらりと無視する。
「バーカばーかバ――――――――カ」
 ものすごく無機質な声で言われる台詞じゃない。とてつもない違和感が保険室内に拡散していく声にはある。
 しかし、しかし。不二には突っ込めない。
 やっぱり、怒らせている。
「………………ごめん」
「ごめんですんだら多分世の中血判とかいらないんだろうな」
「どうしてそこで極道の約束事のような話になるわけ」
「反省してるんだ?」
「…………………ごめんなさい」
 とりあえず、乾が無表情かつ欠落したようなトーンには慣れている。慣れない奴には嫌だろうが、慣れた奴には別にという感じで。
 凄く、とてもエセ臭い微笑みで『反省してるんだ?』とか自分の普段の声マネというかトーンマネされた日には手塚だって平謝りするんじゃないかなぁ本気で。
 とか思いながら不二は白いシーツの中に頭を潜らせる。
 引き剥がされるかと思ってシーツの端を握りしめたがいつまで経っても上からの力は掛からない。
 代わりに、数分してからの長いため息。手塚のようだ。
「…………あのさ、周助。
 自己管理って判る?」
「……うん」
「だったらさ、三食平気で抜くような真似はしないでくれるか?」
「…うん」
 手伝いしててちゃんと見てなかった俺も悪いけど、と付け足されて。ソレの方が罪悪感には効く。
 自分が悪いのも判る。反省している。まだ少し、身体は気持ちが悪いと訴える。
 ギシ、と寝台が軋んで、乾が腰を下ろしたのが判った。シーツ越しに頭を撫でられる。
「肝が冷えた」
「…はい」
 軽やかに意識目の前でブラックアウトされてどうしようかと思ったよ。とは何分か前の担任の言葉だ。そりゃあ驚くだろう。自分だって他人事なら驚く。
 乾にも心配を掛けて情けない。
 ああ、折角手塚が見れると思ったのに。
 ついつい忙しさにかまけて食事を忘れたのがいけなかった。
 あああああああああと自己嫌悪に呻きながらシーツに顔をぐりぐりしていると、頭を撫でていた手が急に離れて騒がしくなった。
 保健医が来たという風ではない。気になって顔を上げたが、その必要もなかった。
 声で判る。
「よう聴いたで乾っち! 貧血やってな」
「無事かー?」
 テニス部二年名物ダブルスコンビ。
 何処も悪くなさそうだ。物見遊山で来たんだろうきっとと二人は思う。
 乾が、いや俺じゃないと言う前に不二の姿を捕らえた忍足が、挙動の全てを一旦止めて、それから至極真面目な顔で。
「……………生き霊か?」
 と抜かした。
 ので力一杯否定した。


「……なんやマジに生身かいな。
 俺はてっきり生き霊の類かと思た」
 とても手っ取り早い説明の後、どこからか引っ張って来た椅子に陣取って言った台詞はソレだった。保健室の静寂感は何処かへ失せ、忍足の首に巻き付いている向日を見ているだけで暑苦しい。
 大分楽になった身体を上半身だけ起こした不二の足下でシーツが擦れた音がする。
「君がそんなものに近しいとは僕初耳だね」
「こう見えて霊感強いねん。リョーやんよか見えへんもん見えるで」
「リョーやん?」
 そう訊いたのは不二だ。乾が“越前”と答える。
「つか越前て見えるんだ」
「寺の息子やん見えて当たり前」
 以前にお前等そんなに仲良かったかと言いたげなのは乾だ。起きあがった不二の枕元に腰掛けて、傍目には無感動な様子で二人を見ている。
「ていうか、君たち抜けてきていいの? 自習とはいえ授業あるんじゃない?」
「自習だからこそ抜けてきたんじゃん」
「自習でも受けるモノはしっかり受けてようね先輩達?」
「んなわざとらしゅう先輩や言われたかて嬉しくもないわ。…起きあがっといて大丈夫なん?」
「今は大丈夫だよ」
 今はな、と付け足す乾の声。
 今の時間、体育のクラスは何処もなく、騒がしい声は届かない。
 静寂は、今は欠片もない空間。心配してくれた? とは訊かない。
 考えれば、随分懐かしい再会。中学三年の夏の、関東大会。それ以来だ。乾は何度も、顔を合わせただろうけど。
「あ、そういえば乾さ」
「はい?」
「引っ越しのこと言ってなかったの?」
「…はい?」
 前振りがない会話には慣れているが、つい聞き返した。乾の態度に、向日は首に巻き付けた腕を軽くゆるめて忍足と顔を見合わせる。
「せやから、引っ越しのことや。この前やっとったやろ?」
「…話したの?」
「というか、荷を運び出しているときに遊びに来ていたから」
「…忍足が、貞治んとこに?」
「いや、向日先輩が忍足先輩…じゃない。忍足先輩が向日先輩の所に」
 思い切り逆転して答えてから言い直す。口振りも表情も冷静で平坦だが、何だか動揺したような節が見えて不二が首を傾げる。
 ぼんやりと、そういえば向日は彼の隣人だったと思いながら。
「……ちなみにお二方。“言ってなかった”という単語の主語はもしかしなくても」
 訊いてはいたのだ。本人から。よく忍足や向日が自分の組まで遊びに来るとは。
 だから、予想はつく。つくから、何だか。
『海堂』
 重なった言葉が、それを肯定した。
「……言ってなかったの? 海堂に」
「なかったよ。言ったら多分手伝わせそうだから。終わってからにしようと思ったんだ」
 と口に出してから、乾は忍足達を見遣って呟く。
「逆効果だったらしいが」
 二人の態度を見れば海堂のそのときの反応が目に見えるようだったので。
「まぁ、対処法は判りますので。報告と余分なお節介有り難うございます」
「うわきっつ。余分てなんや」
「海堂先輩に話したことです」
「いやまぁそれが元っちゃ元やけど」
 そもそもは乾っちがとか言いかけて止める。不毛な気がしたので。
「とりあえず放課後仮入部も兼ねて行きますので。そう海堂先輩に報告願いますよ」
「しゃーない承っといたる」
「…君らどっちが後輩なのさ」
 自分もだけど。
 そう呟いて、ふとひかれるように窓越しの狭い空を見た。
 カーテンの隙間からしか見えない青だ。殺風景な空だ。雲さえ薄く脆弱な、晴れやかな空だ。
 白っぽくて薄水色の青空は、春の日のモノだ。
 踊る桜の花弁の影。
 無言の視線を、乾が自分に向けていたけれど気づかない振りをした。
 多分、二人が居なくなってからなんて言われるか判っているのだ。
「国光の所に行くんだろう?」
 と。





 その日は五時間目で切り上げられた。予め判っていたことで、だから終わったら直ぐに一年八組に行こうとした。確定した過去形でないのは、行く途中で教師に捕まり、余計な時間を割いた挙げ句辿り着けばもう二人はいなかったのだ。
 無駄足もいいところだ。普段ならソレを茶化しにくる跡部は、今日は何故か静かで遠巻きに自分を見遣っている。
 まだ暮れゆくには早い空。コート上まで散らばった花弁が汚らしく潰されていて、その側で咲き誇る桜との差に眼を細める。

「跡部ー……手塚が怖いでーす……」
「言うな菊丸。今日だけは見て見ぬ振りをして見せろ」
「お前が見て見ぬ振り出来てないじゃん」
「五月蠅い」
 フェンスの側で囁くと言うには大きな声で交わし合う会話。
 今日はあいつ部活休んだ方がいいんじゃないかと跡部は本気で思うが、言ってやろうとは思わない。
「…な、なんであれごっつ険しいんや?」
 とは後から来た忍足の談だ。向日がその横で無言で頷いている。
「あー……」
 面倒だ。ついでに説明する気力がない。
 空しく吹く風がどんな緩やかさだろうが関係が無く。
 世界は少し寒いことになっていく。
 コレの状況を顧問の阿須賀に訊かれても正確な事実を話してやる根性は跡部にもない。
 あっても放棄する。
 あるかもしれないが放棄してやる。
 やれというんだったら一度てめーらもあの手塚の舌打ちを喰らってみるがいい。
「…跡部?」
「…いや」
 脱線というか走りすぎた思考を首を振って戻し、けれど効率のいい理由は出てこない。
 終いに。
「五時間目の部活紹介に不二がいなかったからだ」
 と言った。
 傍らの忍足と向日が視線を彷徨わせること数分。菊丸が、宇宙船が今目の前で降りてきましたみたいな表情で固まっている。
 何が?
 と言いたげに。
「………あー、あ……。それは、しゃーないやろ。貧血やったんやし」
「そ、そだよな侑士」
「……ひ?」
 何だか訳知り顔でフォローしだした二人に、跡部は中途半端な止め方で問いを上らせる。
 なんで“ひ”で止めんねん全部言えやと、ありありと顔に浮かべながら、忍足は手塚を横目で見て、話を続ける。
「せやから、不二。貧血起こして保健室におったん。せやから行けへんかったんはしゃーない」
「うんうん」
 何故か小声で。聞こえるはずはないのにこの距離で。
 右フェンスの側で話している声が、反対側のフェンスに寄りかかっている手塚に届くはずもないのに。
「……………会ったのか?」
「会うた会うた。乾もおった」
「うん。普通に存在してた」
「不二周助?」
「他の不二が話題に上るかい」
「うん」
 跡部が沈黙したのを近距離で見遣って、あの跡部が黙り込むの初めてみたかもしれないと思う。新鮮だ。新鮮だけど沈黙は怖い。
 まるで自分が何をされるか判らない緊張の中にいるような威力が、彼の沈黙にはあって。
 何か強制的な命令を仕方なく待っている人間のような印象を受けて、跡部が黙っている間に立ち去ろうとは思ったけれど、それまで眼を白黒させていた菊丸が叫んだから全て終わった気に、忍足はなった。
「帰ってきてんの!? 不二ここにいんの!?」
 周囲に確実に届くような騒音に近しい叫びに、忍足は胸中でああいるいるいるから好きにせぇ会ってきたえらええねん俺は止めへんから頼むから視線を集めんでくれと叫ぶ。
 そんな事言っている間にもこっちに向けられた手塚の視線がというか存在自体が怖い。
「……忍足、岳人」
「なんやい!」
 まとわりついてくる菊丸を引き剥がし、部室の方で意味の判らない顔をしている今来たばかりの大石に心の中で思い切り謝り倒しながら忍足は返事をした。向日がつられるように裏返った声を上げる。多分手塚と眼があったんだ。堪えろ、男なら堪えてみせろ岳人。
「行って来い」
「あぁ………、え?」
 反射的に口にしてから、視線を合わせると跡部は何だか全てに開き直ってしまったような顔をしていた。
 なんだか全ての災害を放棄したような表情で、親指を手塚に向ける。
「今すぐ、全部。手塚に言って来い」
「は、はぁ!? いやや! 自分が行けばええやん!」
「五月蠅い! つべこべ言わずに言われたとおりにしろ!」
「いやや! 自分もう部長やないねんでえばんのもほどほどにしとき!
 第一、不二やったら乾と一緒に仮入部しにくるゆうとったわ!」
「…………………………………………………………………………………マジか?」
「マジや! ぅやおぅ!!?」
 叫んだ反動で手塚の方をもう一度直視してしまい今度は自分の声が裏返る。
「……手塚怖いわ怖いわ――――――――………」
 ぶつぶつと呟いてその視線に背を向けても痛い。その際に大石と眼があったので視線で祈っておく。ごめん、ごめん大石君あとは君だけが頼りやと(生け贄)。
 端のコートで玉出ししていた部員が奇妙な声を発する。フェンスを越えてボールが飛んでいく。多分手塚見たかしたんだろう打つ瞬間に。
 思いの外力が掛かってしまったらしいテニスボールは黄色い軌跡を薄い青空の下に描いていく。何処まで行くのかと目で追って、それから忍足は口で“あ”と言っていた。
 このまま行けばボールが落ちるだろう軌跡の先。学生服の二人組。
 黒髪の方が近場においてあったラケットを掴んで片割れに放り投げるのが見えた。
 その片割れが受け取ったラケットを構えるのも。
 忍足の視線を追うようにした跡部が同じ方向を向くのと、落ちてきたロブのボールを構えたラケットが打ち返すのと、時間的には一緒だった。
 打ち返されたボールはフェンスを飛びだしたときよりは低い軌跡で飛んで、フェンスの外にあるボール籠に突き刺さるように当たって収まる。
 忍足や向日と視線を交わし合うまでもない。不二だと判って、跡部が心なしか屈めていた姿勢を直す。
 菊丸や大石が“不二!”と叫んで、それに答えるように手を振りかけた不二の手を乾が徐に掴んだ。のがフェンスの内側からでも見えた。
 そのままこちらに引っ張ってくる乾の姿に何か嫌なモノを覚えて背後を振り返ろうとし、その側を通り過ぎてコート外へ駈けだしていく手塚の背を見送り、納得する。
「…生け贄かい」
「でも正しい判断だよ侑士…多分」




 前方からもの凄く怖い速度出かけてくる手塚が居る。
 確かに、連絡しなかったのはこっちの落ち度だけど。怖い。
 更に自分の手を有無を言わさず引っ張っていく乾も怖い。
 遠巻きに見ている跡部達の意図は何だか分かる。自分をスケープゴートにするつもりだ。 ええい畜生。なってやろうじゃないか。
 乾と手塚が接触したのは部室の真ん前で、乾は手をおっ放すと不二の背を手塚に向かって押しこくる。それでバランスを崩した不二を手塚が受け止め、、文句を言わせず部室に引っ込んだ。流石副部長の権限。とは乾。
(あとは自分の弁解をしないと)
 と、髪を掻き上げながら、テニスコートの方を見た。
 一人じっと、こちらを睨んでいる人を見つめて。





 埃っぽい部室。がたがたと連れ込まれて音がする。
 直後手首を掴まれ、視界が急回転したかと思うと、背中にロッカーがあった。
 眼前、すぐにでもキスできそうな距離に手塚の顔。
 唇をふさがれる。
「ん!」
 足をばたつかせるが強い力で顎をもたれてどうしようもない。
 入り込ませた舌で口内をまさぐられる。付け根をなぞられてぞくりと身体に快感が走った。
 いつの間にかばたついていた足は大人しくぶら下がっている。
 貪られるだけ貪られて、唇をようやくはなされた時いやらしく糸が引いた。
「………っ…………はぁ……っ……」
 国光。
 何年ぶりかのその姿に愛おしさを覚える。
 だが、顔の両側を押さえられて身体を持ち上げられ、ロッカーに密着させられては痛いは怖いはでそんな感情は吹っ飛んだ。
 額と額をごんとぶつけられる。
「…あ、あの」
「帰ってくると言っていたな?」
「………はい」
「一週間、連絡が全くなかったな」
「…はい」
「その間、俺がどんな思いをしてきたか判るな?」
「………な、なんとなく」
「それを忙しいという理由で放って置いたんだな?」
「…………………はい」
「五時間目、何故居なかった?」
「………貧血で、保健室に」
「………」
 大きな、大仰な溜息が吐かれる。
 額も顔の両端も痛いが、手塚に多大な心配を掛けたのには申し訳なく思う。
「…あのな、周助」
「はい」
「俺は、お前が帰ってくると訊いて嬉しかった。
 来れると聴いて来るのを今か今かと待ち望んでいたんだ」
「………はい」
「それを、一週間音信不通になった上、他人から帰国を知らされて見ろ」
「………………」
「お前だったらどう思った」
「………………………………………………………………………ごめんなさい」
「……意地の悪い質問をしたな」
 ずると背がロッカーの上を滑る。
 手塚が手を放したからだ。
 また、彼の溜息。
「俺は、お前に会いたくて会いたくて仕方がなかった。
 この一年間。
 来ると知れば知るほど我慢が効かなくなるんだ」
「………国光」
「今日はお前のうちへ行く。以前住んでいた家なのだろう?」
「うん」
 そこでようやく手塚に笑顔が浮かぶ。
 不二の頭を撫でてから、きつく抱き締めて。
「覚悟しておけよ。今夜は容赦しないからな」
 そう優しい声で呟いた。
 ちゃんと届いたので、泣き出しそうな瞳で、うん、と答えた。



「あ、そういえばね僕、今一人暮らしじゃないんだ」
「なに? 他に誰か帰国したのか?」
 部室の椅子に並んで腰掛けて話す。
 窓の外からの明るい日差しが埃を浮かび上がらせる。
「ううん。でも一人じゃ心配だって親や貞治がいうから、貞治もうちに住むことになったんだ」
「じゃあ今のあいつの現住所はお前のうちか」
「うん」
「…………まあ、あいつなら少しは目をつぶってくれるだろう」
「…なにが?」
「いや、こっちの事情だ」
 ゆっくりと、色素の薄い柔らかい髪を梳いて、彼が此処にいると確かめて微笑む。
 不二もその微笑みが嬉しくて、ふわりと笑った。





「あー…今頃部室が愛の巣やで」
「俺もそう思います」
「乾、勇気あったなー。あの手塚に対面するなんて」
「慣れてますから」
 不二と自分、二人分の仮入部を済ませてコートの外に立った乾と、忍足と向日。
 跡部はとりあえず台風が去って安堵している。
 他の部員もそうだろう。
「それで、忍足先輩。向日先輩。
 海堂先輩に保健室での旨、伝えていただけたでしょうか」
「あ、ああ伝えたで」
「ぶっすりとした顔で聴いてた」
「でしょうね。
 これで一応は何とかなるでしょう。
 あとは放課後、」
(自分で話します)
 という台詞は続かなかった。
「おい」
 そう、低い声が背後から掛かったからだ。
「そこの一年、水飲み場までついてこい」
 海堂だ。如何にも怒っている。
 他の部員が、苛めか? イビリか? 可哀想だぞ誰か止めろよ嫌だよあいつ怖い等と話している。
「判りました、海堂先輩」
 乾は案外あっさりと頷いた。
 こうなることも予想できていたのだろう。
「……台風、二つ通過、やな」
「本当、津波被ったね」
「被ったな」
「全く」



 水飲み場。
 さーと水で顔を洗って、タオルでおおざっぱに拭い、それから海堂は乾の方を向いた。
 わざわざ顔を洗ったのはすっきりするためと待たされる気分も判りやがれと言う彼なりのボディランゲージだろう。
 タオルを放り投げられて、受け取る。
 真っ直ぐに睨み付けてくる視線。久しぶりだ。怯えたことはない。
「どういうことだか判ってんだろな」
「引っ越しの事ですね」
「そうだ。
 お前、俺が前に訊いたとき『手伝いだ』と言ったよな」
「いいましたね」
 乾の冷静な態度にキレたのか、だんと拳が水飲み場の縁にたたきつけられる。
「何処が手伝いだ!」
「落ち着いて下さい」
「ないがしろにされて落ち着いてられるかよ! …!」
 自分より背の高い後輩が、ふ、と近づいて海堂の唇をかすめ取った。
 顔が急に赤くなるのが判る。
「お、お前…」
「落ち着いて下さい。理由は話しますから。
 勿論、悪かったとも思っています」
 しれっとした様子で、乾は元の位置に戻っていた。
 見上げるのも、久しぶりだ。
「最初は本当に手伝いだったんです。
 不二周助。知っているでしょう?
 先輩の元同級生の」
「あ、ああ……。なんか今日帰ってきた」
「正確には一週間前に帰国していたんですが、以前住んでいた家に住むことになったのでその手伝いをしていたんです。
 当然一人暮らしになります。
 それを彼の両親が心配して、俺に一緒に住んでくれないかと持ちかけたんです」
「………それで?」
「ええ。電気代や食事代、家賃も浮きますし。
 何より俺も心配でしたから。
 そういうことです。早く報告できなくてすいませんでした」
 と言って深々と頭を下げる。
 すっかり毒気を無くされた海堂は水飲み場に腕を突いて、なんだそんなことか、といった顔で見ている。
「おい」
「はい?」
「勿論、俺が行っても」
「いいですよ。二人で使っている分広いですから」
「………なら、いいんだ」
「心配、かけてすいません」
「いや、早とちりした俺も悪い。
 仮入部そうそう呼び出しかけちまって悪かったな」
 評判に関わるだろう。と言えば、笑顔で。
「初日に海堂薫に呼び出されるほどの後輩、という格が着いて良いですよ」
 それは不二も同じく。
「そういえば、お前等幼馴染みだったな」
「ええ」
「結局、なんだったんだ? 手塚のあのオーラは」
「ああ、それは話すと長いんですが――――――――」









匂艶      











 
二話−会いたい


                                                       →三話−キミといる景色