雨の日だった。 もう、授業はない。 いやあったけれど、出ようと思う授業はなかった。 千歳は興味のある授業しか出ない。 白石に度々注意されるが、興味がないのだからしょうがない。 放浪癖は昔からあったが、授業に出ろと注意してくれる同級生は白石が最初で最後だ。 橘は、うまく隠れろとは言っても出ろ、とは言わなかった。 「千歳先輩」 昔のその橘の声を思い出して軽く吹き出した時、廊下の向こうで呼ばれた。 「…光?」 案内されたのは理科準備室だった。 その部屋の主である、渡邊は今いない。 しばらく留守にするから、預かっててくれと言われたらしい。 「光、授業は?」 「俺はこの時間自習です」 「そうたい……」 「先輩」 なんね、と言うと財前は冷たく千歳を見上げた。 「あんた、部長をどうしたんですか」 単刀直入、とはこのことだ。 「…どげんして、そう思うと?」 「あの人、イケへんやろ…。付き合ってんの知ってたけど、そんな身体や前なかったし…。 それに」 言いかけた財前が無言になったのは、千歳が小さく笑って近寄ったからだ。 決して大きくない音が響いた。 千歳の手が、財前の頭の横に置かれている、閉じこめるように。 低く笑った千歳が、急に一変した。 「………どげん意味か、訊かせてもらわんね」 呼吸が出来ない程、喉を絞められて財前は苦しそうにしたが、抵抗はしなかった。 「…なんでそげんことしっとーと。前は違ったとか、今はとか」 「……あの人、抱いたことありますもん。俺。あんた来る前」 圧迫が苦しくなる。 「告白余ってのやったから、ほぼ強姦っスけど。まあ許してもらったし。 そんで、この間ちょお手、出したんですわ。そしたら、」 言葉がまた途切れた。今度は千歳は簡単に、手を離した。 頭の横からも手をどける。 「…先輩?」 「……光は、傷のこと知ってんね?」 それは、もう断定だった。 「…昔見たんスわ。偶然」 「…どう思ったと」 「正直、みれたもんやないなと。ほんと、惨いっちゅーか」 「……そう」 それならいい、と千歳は興味を失ったように財前に背を向けた。 「先輩?」 「…俺は、傷に感謝しとーと。あれがある限り、白石は俺のもんたい。 白石は、傷があるから俺が傍におると思っとるけん、逆たいね。 傷があるから傍にいられるんは、俺ん方たい」 「だけん光があの傷を醜い言ってくれたこつ安心したと」 「……なんで?」 後ずさった後輩が、伺うように問う。 「俺ば醜いとは思わん。白石の身体なら、なんだって綺麗たい。 だけん、他にあの傷を綺麗ば抜かすような奴おったら殺すごつ、光を殺さず済んでよかったたい」 それが限りなく本音で、本気の殺意で、財前は恐怖に喉が鳴ったのを訊いた。 「光、今回は見逃すけん。次は、なかよ?」 暗く、酷く暗く笑って言った唇。伸ばされた手が喉を再び掴む前に財前はその場から逃げ出していた。 必死で廊下を走った。 心臓が、五月蠅い。 本当に殺されそうになっている被害者のように、手足が震える。 「財前!」 だから腕を掴まれた瞬間、放せ!と怒鳴ってその頬を殴っていた。 「……財前、」 もう一度、腕を掴まれた。 落ち着かせるように、頭を撫でられた。 白石だった。千歳の姿は、どこにもない。 そういえば、あの人は自分を名字で呼ばない。 「……部長」 「大丈夫か?」 「…それ、俺の台詞やないんですか」 「…なに言うとんねん」 お前、顔真っ青やで―――――――――――――白石は覗き込んで、落ち着かせるように背中を叩く。 「……なんで、怒らへんのですか」 「…財前?」 「なんで、殴らへんのですか。…俺を」 「…」 「俺、去年もあんた無理に犯したったし。この間もやし。 普通にされるん、意味わからん…。 今も、殴ってしもたんに…なんで?」 震えた声が支配する以外は、雨の音。 白石は、財前の両肩を叩いて落ち着かせるように、笑った。 「簡単やろ」 「……?」 「そんな顔しとる奴は、殴れん」 真っ青になって、悔いとるような奴、殴れん、と。 「…………、あの人も、やかなぁ」 「……あの人?」 「……部長は、なんで平気なんですか」 平気ではないだろう。わかっていたけれど。 けれど、何故と訊いた。 何故、自分に二回も無理に抱かれて、平気に話しかけられるのかと。 「人間ってなぁ」 白石はそんな風に言った。 一人、絶対自分を捨てないでいてくれる奴がいると、なんでも耐えられんねん。 俺もそうやから。 千歳は、絶対俺捨てへんから。 俺も、絶対千歳からもう、逃げられへんけど…。 やって、逃げられへんもん。傍、おりたいんやもん。 好きなんやもん。 あいつが、…俺を好きやのうても。 言って、彼は少しだけ泣いた。 白石を途中で見つけたのだろう。追って来た千歳に、漸く殴られた。 泣かせたことについてだったけれど、財前は少し安心した。 白石は驚いて、また彼の腕で泣いていた。 (謙也クンみたいや…) Mみたいや、と思いながら廊下を歩く。 今頃なにしてるかなんて考えない。 きっと宥めて、抱いてしまうんだろう。 あの人の身体は綺麗だったけれど、気持ちよかったけれど。 あの傷だけは醜いと心底思った。 受け入れられないと思った。 だから、もう自分は白石になにも出来ないのだろう。 「……やけど、」 俺があの傷を醜いと思うのは、あれがあんたのための傷だからだと思う。 俺のための傷なら、思わない。 「やけど、俺のための傷なら…………俺もあの人、……抱けたんかな」 呟きは雨に消えていく。 雨の中であの二人がしていることなんて、一生見たくないと思った。 |