おのぞみの結末

◆おのぞみの結末◆










 雨が降っていた。
 いっそ空事泣いていればいいのに、不気味なほどに晴れた空はそれが天気雨だと主張した。
「………止まないか」
 屋上で弁当食べようと思ったんだけどこれじゃ無理だな。
 諦めて踵を返したところで、乾は何だか見覚えある顔が階下にいる事に気付いた。
 手に持った、同じようなジュースの缶と弁当箱。
「おや、手塚」
 珍しい、と単純に思った。
「君も屋上で食べようと思ったの? 残念だけど雨だよ」
 閉じた、重苦しいドアを指さして笑えば、手塚は一瞬考えるように黙り込む。
 階段を、登り切ってから考えればいいのに。
 見下ろしながら胸中で、馬鹿だねぇとか微笑ましい気持ちで呟いてみる。
 まるで、それが聞こえたように顔を上げたのには、驚いたけど。
 表情になんて出さない。
 無言でいる手塚から視線を外すと、乾はくるんと身体の方向を変えおもむろに側に積まれた机に腰を下ろした。
 どうせ此処まで来たので。
 手塚も諦めるなりなんなりするだろうと思っていたら、静かな足取りで階段を登って近くの机に同じように腰を下ろした。
 そのまま無言で弁当を広げ始めるので、流石の乾も少し吃驚した。
 いやこういうのは別に初めてではないが。
 何だか色々と。

「………何かあった?」
 時間だけはさっさと過ぎる。
 同じように弁当を広げて、学内で買ったパックのジュースにストローを指しながら、彼を見ずに問い掛ける。
 手塚は、意味が判っているのかいないのか、缶のプルトップを開けると一口付けただけで机に置いた。
 そのまま、彼も乾を見ずに、すすけた天井を見上げて一言。
「学園祭」
 常の変わらない平坦な口振りで。
 しかし気を付ければ判る程度の、不機嫌さを含んで。
 吐き出された言葉に乾は危うく吹き出しそうになった。
 同時に納得もする。
 ああ、そういう事ね。
「沢山渡された訳ね。金貨」
 それで逃げてきたわけだ。
 ようやく納得がいったと頷く乾に、手塚は一瞬だけ一瞥を投げかけるが、それで何か効果の現れる相手でない事は承知済みで。
 楽しげに引かれた唇を横目で見遣って、小さく息を吐く事に留める。
「お前こそどうなんだ」
「俺は君ほど苦労しないし」
 よって青学伝統行事に振り回される必要も無し。
 言った後の手塚が普段の彼からすればあからさまとも言えるほどに眉間に皺を刻んでいて、乾は今度こそ吹き出した。

 文化祭と平行して行われる恒例イベント。
 一枚の金貨を好きな人に渡すし返事がYESなら銀貨を渡す。
 バレンタインのノリに近いものがあるが、渡す方は真剣で受け取る方も真剣だ。
 しかし集中砲火を喰らう事が、幸福とは限らない。

「ま、あと三日ほどの辛抱だよ」
「他人事だと思って…」
「他人事じゃない」
 俺が他人事に逐一首突っ込んでやってたら鳥肌たたない?
 言われてみれば確かにそんな気もひしひしとするのだが――――――――――――
 だが。

「……お前は厄介ごとに限らず首を突っ込んでいると思うぞ」
「手塚の思い込みだよ」
 うっすらと笑みを浮かべて、乾は飲み干した紙パックを片手で潰す。
 お互いの長い足が、机から完全に床に着いて、ぶらぶらと揺らすことも難しい。
 踵が机の脚に幾度かぶつかる。小さな衝撃。
 ちらりと横目で乾を捕らえて、手塚はフラストレーションでも起こしたような胸中で呟く。それなりに、女生徒の金貨攻撃や生徒会長の仕事も含めて苛々していたらしい。自分で思っていたより余程。
 なので胸中での呟きに、声のオプションがしっかりと付いてきた。

「………昔は女に“乾君ちっちゃくてカワイー”とか言われていた癖に」

 ぶしゅとか言う音がして、手塚の頬に数滴冷たい飛沫が飛んだ。
 乾が思わず潰していたパックを握り締めたからだ。ちなみに苺オレ。
 何か化け物でも見るような乾の視線が、分厚い眼鏡越しにもはっきりと判る。
 普段感情の読みにくい相手であるだけにそれは珍しい。のだが、手塚にはあまり構った事ではない。

「………飛んだぞ」
「…………………………………ぁあ…、………悪い。
 ちょっと待ってティッシュ」
 乾の返事も歯切れがいやに悪い。それでも直ぐに手渡されたティッシュを受け取って、付着した部分を拭い取る。
 無言で潰したパックを折り直している乾の手元からそれを奪うと、横手に置いてあったコンビニ袋に纏めて放り込んだ。
「ありがと」
「ついでだ」
 素っ気なく答えて、手塚は弁当箱を仕舞い始めた。
 腕時計で時刻を確認する。休み時間終了まで後十五分。
(大体このくらいか)
 まだ時間在るのに忙しいねぇなんて視線を向けてくる乾を横目に、胸中で目安を付けると立ち上がり、その動作の過程で乾から眼鏡を奪い取った。
「………手塚?」
 予想外だったらしい行動に、素の顔を晒したまま瞬く乾を見下ろして、弁当箱の包みとコンビニ袋を纏めて持ち上げる。
 眼鏡をそのまま自分の胸ポケットに仕舞うと。
「眼鏡は十一組の奴に預けておく。自力で戻れ」
 とだけ言い残して手塚は一人階段を下った。
「って…手塚! 待て!」

 ひとまず追おうとしたが、眼鏡がなければ乾は歩くのも困難なほどの低視力だ。
 がたんと音を立てて、そのまま机から落ちる。
 痛む足を押さえて、辺りを見回すが手塚どころか周りの状況すらぼやけて見えない。
「……………本気でこのまま教室に戻れっていうのかあいつ」
 一階分階段を下らねばならないのに。更にしばらくの長い距離を進まなければ十一組には帰れないのに。ってかそもそも。
(…あいつ、なんか変なモノでも口にしたのか?)
 眼鏡人間にとって眼鏡がどれほど重要か判っているはずなのに。彼以上に自分が視力が悪いのも充分判っているはずなのに。
「…階段から落ちて打ち所悪く死んだらどうしてくれるつもりだ」
 ぽつりと聞く者もなくぼやいて、乾は何とか立ち上がって、また軽く肩を落とす。
「……弁当箱の位置もわかんないし」




 例えば廊下を歩くたび、増えていく金貨の枚数とか、安っぽい鍍金のような色だとか、断っても無理な事だとか、…彼も沢山貰っているのだとか、それを知っていて呑気に集計なんてしていられる“誰か”の態度とか。
 全部。
 苛立ってるって判っている。
 届くはずのない、そう思っていた想い。
 可能性事、奪われたソレ。

「あれ、手塚」
 三階の廊下で、行き交う寸前に声を掛けられた。不二だ。菊丸も一緒にいる。
「すっげえ怖い顔してんぞお前ー。相当キてんね」
「他人事か?」
「お前よりは俺は貰ってません」
「僕はもう諦めた」
「それが無難だ。手塚もいっそ開き直れ」
「開き直った手塚?」
「不二、真面目に考えんな……。? 手塚、その眼鏡どした?」
 何だか漫才みたいなノリで会話を繋いでいた二人の一方が、ふと手塚の胸元に気付いて眉を顰めた。
「予備なんて持ち歩いてたっけお前」
 最初菊丸の言う事が判らなかったが、直ぐに乾の眼鏡のことだと理解する。
 そういえば、十一組に置いてくるのを忘れていた。
 予備はあっただろうか。置きに戻る暇はない。
 …まぁいい。
 随分投げやりに思う。もう今日は色々と考えたくない。
「気にするな」
「いや、気にするって…なんか微妙に…いや形が…」
「チャイムが鳴るぞ。早く戻れ」
 一方的に言って、一組へと戻ろうと踵を返す。
 後ろで。

「手塚」

 不二の明るい声が響く。
 笑って。
「今日、日直で遅れるね!」
 上げた手と、一緒の。言葉。
 聞いた振りで、背を向ける。
 背後で。
「………あの眼鏡、乾のっぽくなかった?」
 と不二に問う、菊丸の声。
 辛うじて耳に届いたのは、答えとも言えない、不二の密やかな笑い声。



 薄暗い教室。
 濃く薄く、残る影ははっきりと。
 今はもう空は暮れていると知らしめる。
 放課後。ほとんど人気なんて失せた教室。
 がたんと、些か大げさな音がして、不二は日誌を書く手を一旦止めた。

 前の扉、前。手を掛けて、見知った人。
 自分以外なら、多分“誰?”なんて台詞でもくれそうな。
 にこりと笑ってみせる。きっと見えていないこと、承知で。
「お疲れさま」
 声を掛けたら、素の顔が僅かに笑みを刻んで、息を吐いた。
 眼鏡が無くても、表情の変化が薄い人。
「日直だっけ。不二」
「うん。……こっち来れる?」
「何とか」
 机の避け方はマスターしたよ。
「誰かさんの御陰?」
「誰かの所為でね」
 ほとんど、視界がぼやけている者とは思えないほど、すたすたと歩いてきて、手探りで椅子の位置を当てると不二の前の席にすとんと座り込んだ。
「授業受けられた?」
「耳では聞いてたよ。流石にノートから十pの位置で睨めっこしながら書くわけにいかないじゃない。そもそも黒板見えないし」
「乾、一番後ろの席だもんね」
「判っててあーいう事するんだよな」
 全く。

 くすり、と不二が笑う。手の平の中のシャーペン、ころりと転がして。
「でも、今日の手塚って普段から見たらイレギュラーじゃない?」
「ああ、うん確かにね」
「ストレス?」
 ことんと、首を傾げて。
 この距離では、朧気にしか見えていないはずの乾が、それを見て僅かに笑った。
「さぁね。フラストレーションかな」
「発散」
「テニスか釣りか」
「喧嘩でもしてみる?」
「手塚相手じゃ洒落になんないよ。俺と不二じゃ」
「たーしかにね」
「だろ?」
 日誌を書く様を、側で見えもしないのに見ている乾は、時折見えもしない窓越しの夕陽を観て。
 不二は、それについて何も言わない。
 一人で、部室まで行くのは大変だと判っているから。お互い。
 乾は真っ先に此処に来て、不二は初めからそんなつもりで。
 大方読めてしまう。苛立ちや、行動や、そんな。
 三人。して。

「……ふふ」
「どうしたの?」
「眼鏡してないから、」
「一年時みたい?」
「そう」
 日誌を書く手は止めない。ただ呼吸で笑って。
「ちっちゃくてさ、授業中だけ度の低い眼鏡してて、今とおんなじ喋り方で」
「手塚はあの頃から老けてたね」
「だよね」
 笑い声。
 夕陽が落ちる、机の上。日誌、シャーペン、持つ手、机に置いた手、頬。
 赤く。
 その光すら、見えているのか判らないのに、乾はまるで見えているように眼を細めて。
 見えているだろうか。きっと。
 おふざけのように僕を“綺麗”という君が、こういう時、綺麗だと思う。
(乾は、何だか、透明)
 色がない。ゼロのよう。
 そっと、彼の手の上に手を被せたら、こちらを見て、薄く笑った。
 握り込んだ手。
 夕陽、照らす。
 僅かな物音、お互い知っているのに。
 眼を伏せて、唇、互いに、触れて。

(多分、見てるな)

 なんてことを、内心思うのだ。



(俺だけ知ってる。多分)


(二人は両思い)



 息が届くくらいの距離に、離れて。
 笑みで伝う。

(内緒だよ)

 席に座り直して、それから、今頃気付いたように扉を見遣る。
「あ、手塚」
 こういう関係、知っている彼だから慌てはしない。彼も、呆れて。
「……お前等、学校内でやるなと」
「あはは御免。でも、手塚も日直だっけ?」
「違う。竜崎先生に呼ばれて……。
 乾、お前は日直じゃないだろう」
 暗に“部活に行け”と告げる口調に、乾は口の端を上げて椅子を鳴らす。
「眼鏡ないから無理」
 君が取ったからね。
 非はあると感じているから、手塚も憮然とした顔で押し黙るしかない。
「早く返してあげなよ」
 記入者名を書いて、終わりとばかりに不二が日誌を閉じた。
 筆記用具をさっさと片づける横で、“眼鏡は?”と問う乾を見下ろして。
 手塚はまた、ため息を吐く。
「部室」
「………君ねぇ」
 玩具にされてたらどうするの。本当に。
 時計の刻み音が、かちこちと響く。
「さてと、行こ」
 促して不二が椅子から立つ。
 二人ともそれに従って後にした教室にも、強い日差しの赤。
 出る寸前、手塚の背中を前に。
 乾に至近で、不二は人差し指を立てて、諦め加減に笑う。

(内緒、だよ)

 了解の意で、口の端をもう一度上げた。




 届くはずのない、そう思っていた想い。
 可能性事、奪われたソレ。

 本当は届いていた事、知っているのは、多分一人。


「教えてあげない」

 廊下を歩く、歩調を合わせながら、ひっそり。
「乾、なんか言った?」
「何でもない」
 笑う。