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禁断の果実/オオカミが来たぞ
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木手は誰にでも優しい。
敵には厳しいけど、味方にはとても優しい。
甘やかさないけど、時に甘やかすような優しさを見せられた時、身体の奥が弛緩するように落ち着ける。
気づけば、みんな彼を頼って。
彼は“ゴーヤ食わすよ”なんて言いながら許して笑う。
平古場や甲斐にとっては、冗談じゃないのだろうが、結局どんなこともその一言で許してしまう木手は、誰より優しいと思う。
怒りを後に引きずらないし、悲しみがあってもそれは見せずに隠してしまう。
それを。
―――――――――寂しいと、最近感じる。
聞き上手だから、自分のことは滅多に話さない。
部活とかのことはいっぱい話す癖、あまり自分のことは話してくれない。
寂しいと思う。
木手は、主将だから、どこかみんなのことを子供をたしなめる母親のように見ている。
それが、ひっかかる。
自分たちは木手にとって仲間で、導かなければならない同士で、時に手の余る子供で。
それなら、彼が時に頼る俺もそうなのだろうか。
彼が頼るのは自分だけだと自負している。
“永四郎って知念だけは頼るよな”―――――――――最近ダブルスパートナーに固定してきた平古場の言葉に、浮かんだのは喜びと、喜びとは真逆の寂しさ。
そうだろうか。
あれは、俺の欲しいものだろうか。
あれは、なんなのだろう。
彼が俺に許す少しの甘え。
許しているのは、自分を甘やかす俺の行為? それとも、自分に甘える己の弱さ?
それは、とても、寂しく悲しい。
彼の、その細い指先が焼き付いて離れない。
どうして。
―――――――――どうして手を伸ばせば届くこんな近くにいるのに、遠いのだろう。
「ああ、知念クン。まだいたの?」
部室の扉を開けると、まだ木手がいた。
こんな時間にいることに驚いたのはお互い様で、彼は“鞄なかったのに”と言いながら書き終えた部誌を閉じる。
「永四郎こそ、まさか今まで部誌を書くのに手間取ってたのか?」
「まさか。さっきまで平古場クンと甲斐クンが帰らなくて、ずっと騒いでましてね。
結局俺が止めることになって」
「珍しいな。甲斐はいつもすぐ帰って、あちこち寄り道するのに」
「そうなんですよ。だから…………あ」
「ちゅーさびたが?」
「………甲斐クン、今日中に家に帰るでしょうね」
木手のつぶやきに、知念も確かに、と思った。
今は、時計の針は八時を指している。
甲斐は寄り道を必ず三時間はするようなやつで、部活が遅くなって、どんなに疲れていてもそれは変わらない。
だから、部室を出た時間が遅ければ遅いほど、心配になる。
果たしてあいつは、今日のうちの時刻に家に帰るだろうか?―――――――――全く、母親のような心配を、何故中学生の俺たちがしなければならないのか。
「……甲斐に電話しておく」
「頼みます」
言って、木手は疲れたようにベンチに背中を預ける。
今日の練習はさほどハードではなかったが、彼は一年の練習も見ているし、そう言えば今日実家の用事から沖縄に帰ってきたばっかりだと聞いた。なら疲れているだろう。
そんな時くらい、部誌を甲斐に任せればいいのに。(せっかく甲斐が遅くまでいたというのだし)(今更だが、甲斐は下級生への指示や試合では副部長として大変役に立つが、こういう事務になると全く役に立たない)
「永四郎。疲れてるのはわかるけど、せめて着替えてから…」
返事はなかった。
代わりに静かな寝息。
よほど疲れたんだな。そう思った。彼は滅多に(合宿でもない限り)人前で眠らない。
(眼鏡くらい外せばいいのに)
思って笑って、甲斐にかけるはずだった携帯を握りしめる。
この携帯の着信は、木手の名前が一番多い。
発信履歴は、甲斐や平古場に対するものが多い。
どうして。
かける量とかかる量。その差に、また、寂しさが戻ってくる。
彼がかけてくることのほとんどは、部活のこと。
甲斐や平古場への電話は、木手に頼まれたこと。
そこに、お互いの関係の感情はどこにもない。
同じ学校で、同じ部活で、なのに隣り合ってたつこの距離は、どうしてこんなに遠いのだろう。
眠る顔が、それでも自分を拒絶するように反対を向いている。
何気ない、それすら今は寂しい。
ねえ、こっちを向いて。なにか話して。名前を呼んで。
おかしくなりそうだ。
寂しくて、寂しくて、なあ木手。俺おかしくなりそう。
眠る唇を重ねる。
同じ器官で塞いだ。離れると、変わらず眠る顔が見えた。
キミが遠いだけで、俺はきっと世界で一番孤独。
鞄を背負って、その肩にジャージを着せて、部室を出た。
こんな時くらい寒い風が吹けばいいのに、南のこの島では、暖かい風しか望めなくて。
「永四郎。これありがと」
「え? なにそれ凛……童話? なにお前、中学生になって」
「ちっがう。読書感想文。今回のテーマは絵本」
「……あー、三原はたまにおかしいテーマを出すよな。…待て、ってことは俺もそのうち絵本をテーマにしなきゃいけないってことか?」
木手の家は、基本きれいだが散らかっているところは散らかっている。
彼らしくないと思ったのは最初だけだ。考えれば彼も沖縄人なのだから、家まで綺麗だったらちょっとイヤだ。
「多分ー」
「うわー勘弁して。つーか木手はよくそんな本持ってんな」
「妹のですよ。なので借りる時はあまり汚さないでくださいね」
「あ、木手の妹のか。いくつだっけ?」
「今小学校一年」
「うわーちっちゃい」
「俺の時なに借りよっかな…。あれ、なんだっけ? 三匹のヤギと…。
あの、ガラガラドンって呼ばれてるヤギの話」
「三匹のヤギとガラガラドン?」
「多分」
「……裕次郎。ガラガラドンは谷の怪物で、ヤギと違うんどー?」
「え? うそ違った?」
「違う」
「……えー無理言うなー。読んだの保育園の時だぜ?」
よく凛はわかったな。
「だって俺が借りたのそれともう一冊だし」
「あ、ずりぃカンニング」
「………カンニング?」
「この場合用途が違うよ甲斐クン」
「あれ? ……凛、お前こういうときに木手を味方に引き込むな? ずるいって」
「いいじゃん。俺とお前だと弁がどっこいどっこいだから永四郎でも味方にしないと口論長引くし」
「……言うなお前。………もう一冊は?」
「ん? 借りたもう一冊?」
「そう」
「オオカミ少年」
「あーあれか。それはさすがにストーリーわかる」
甲斐がだらん、とソファでのけぞって、頭のてっぺんにある窓を覗く。
「……俺、その話嫌いさ」
「そうなの?」
木手の言葉に、平古場は本の表紙を軽くなでる。
「だって、嘘つかない子供なんていないだろ。それくらいでさ、信頼失って呼んでも来てもらえなくて、続きなんかないけど、俺この子供はもう二度と誰かを呼べないと思うな」
「………凛、にしちゃ、まともなこと言う」
「どういう意味か」
「ごめん。でもそうだよな。俺たちだって嘘つくわけで、子供なんか無知と悪意のかたまりだって親が言ってた。多分これ書いた大人は自分の子供時代が綺麗だったと思ってんだろ」
「それ半分お前への嫌味だったんじゃねーの裕次郎……」
「でも、」
言い置いて、少し寂しい思いで呟く。
「……でも、馬鹿だね」
「…なにが?」
「…この子供。オオカミが来たぞ、なんて言わないで、“そばにいて”って言えばよかったんだ」
ただ、一言。そばにいて。って。
部室の閉まる音がした。
合図のように瞳を開いたけど、唇の熱を残して、彼はもうどこにもいない。
胸を押さえて呟く。
馬鹿だね。
「………」
そのつぶやきは、寂しさににていた。
「……そばにいてって、言えばいいのに」
想いが通じ合っただけで、満足したわけじゃないのに。
その一言がいえずに、今日も僕とキミは遠ざかる。
そばにいて触れて欲しいのに。その言葉を言えない自分は、どこかで彼が踏み込むのを待っている。
寂しいから、うそをつく。
オオカミが来たぞ。その言葉を、“甲斐クンたちが騒いでた”なんて言葉の代わりにして。嘘をついて、少しの接点でもいい。多くキミの側にいたかった。
ねえ、触れてくれるのに。
触れるのは俺が寝てもいないとしてくれないキミに問いたくなる。
そんなにこの行為を重ねることが後ろめたいなら、キミはいっそ嘘をつけばいい。
“嫌いになった”って嘘をついてオオカミから逃げればいい。
本当は嘘をつくのは、子供じゃなくてオオカミなんだ。
知念は子供にしては広めの部屋をもらっている。
昔は六畳の部屋だったが、予想以上に大きくなってくれた子供のために、親は八畳の部屋をあてがってくれた。
風呂からあがって、飲み物を喉に流し込む。
そのとき家電が声を上げた。
「はーいもしもし、……あ、待って」
でたのは弟だ。くるんと視線を回して、何倍も高い兄を見つけると顔を上げた。
「にーにー。甲斐兄ちゃんから電話」
「ん?」
(甲斐から? 携帯じゃなくて家になんて珍しい…)
「あい? もしもし、どした?」
『あ、知念くん! 知念くん今日帰り遅かったよな!』
「……そういう甲斐はまだ寄り道途中?」
『は? 今は家!』
なんだ、今日は予想より早く家に帰ったらしい。余所の思考で安堵する。
『それよりさ、部室でる時木手はまだいた?』
「……いたけど。部誌書き終えたとこで」
『……書き終えたとこ? っかしーなー』
胸がざわついた。
「……甲斐?」
『木手がさ、まだ家に帰ってないらしいんだ』
時計は既に十時前を指していた。
あのまままだ眠っているのだろうか。それとも帰り道で?
木手は俺たちの中で一番強い。彼に限ってそれはない。
けれど胸を突く悪い予感にせかされるまま、学校への道を急いだ。
校門は閉まっている。
手足の長い知念には、よじ登るのは簡単だ。
部室を目で探す。一緒に足も動いている。
明かりはついていない。
やはり、もう帰り道の途中だろうか。
しかし扉は開いた。
驚きとともに開かれた扉の向こうで、彼は眠るようにベンチに腰掛けている。
安心が襲って、その場に座り込んだ。ふつふつと、怒りも沸いてくる。
立ち上がると一発くらいいいだろうと胸元をつかんだ手が、逆に捕まれた。
「…えい…」
「……どうして」
瞳をあけた彼が、どこか泣きそうなほど目を細めて。
「……どうして、キスだけでやめてしまうの、キミは」
「…起きて…」
「…キミは馬鹿? 武術家なら人が近づけば目が覚める」
言って、木手は手を離して立ち上がる。
やっと着替え始めようというのだろう、上着にかけた手を、止めた。
「知念クン?」
「………さっきの、それは……先をしてもいいって?」
「………俺も」
言って、彼はいったん言葉を切る。
「俺もキミも、あけすけではないし、欲張りな方じゃない。わかっていたけど」
背中と胸がくっつく形で寄り添っている知念の手に、木手の手が寄せられた。
そのまま、指先がぎゅっとその手をつかむ。弱く、それでいて、離さないでと言うように。
「………それでも、俺は。……キミが側にいないのは、……寂しくてもうイヤなんです」
口実も、寝顔でもなければ触れてくれないなんて、そんなのはイヤだと。
伝える指先は細く、見下ろす首筋も肩も細い。
そっと寄り添う肩に手を寄せて、そのまま背後から抱きしめた。
痛いと彼が言うまで抱きしめていてやろうと思ったけど、彼はそうは言わなかった。
代わりに、抱きしめる腕に頬を寄せて、その腕にしがみつく。
「……………ここにいて。キミがいなきゃ、…」
息も出来ない。
ささやくような告白に、胸を占拠していた寂しさはあっという間になくなる。
ああ、こんな言葉だけで満たされるのに。
もっと早く伝えればよかった。
「………うん。ここにいる。……好きだ。永四郎」
「おおーい」
朝の六時。縁側で寝転がっていると、塀の向こうから聞き慣れた声がした。
「……甲斐」
その帽子は彼しかいない、と塀からのぞく帽子にあたりをつけて呼ぶ。
「お前! なんで俺たちに言わないかっ!」
「………は?」
「木手! 見つかったんなら言え! お前に昨日電話したの俺だろが! 凛なんかほんと青くなっててだな」
「……お前たち、昨日お泊まりでもしてたのか?」
「……」
そういえば、見つかったと連絡をいれるのを忘れていたが、木手も忘れていたらしい。
「むるむかつく! 今日の部活覚悟しとけ!」
言うだけ言って甲斐は塀の向こうに消えた。
「……まだ学校行っても誰もいないと思うけど」
呟いてももう届かない。それを遠いとはもう思わない。
キミは側にいる。
オオカミが来たぞ。
そんな嘘を叫ばなくても。
オオカミが来たぞ。
叫ぶ気持ちはよくわかる。
でも側にいてといえたなら、そんな嘘にはもう意味はない。
側にいてをいえたキミを、心から愛しいと思う。
だからもう俺は叫ばない。
オオカミが来たぞ。
そんなことを言わなくても、ほら、キミは僕の側にいる。
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