逢魔が時
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アリアD.C/[さみしい感染]
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がらりと引かれた生徒会室のドアが、途中引っ掛かったように動きを鈍くした。
「…今、悲鳴聞こえなかった?」
「…変な音もしたよな」
開けた状態で、ドアに手を掛けたままの手塚も、不二と菊丸同様廊下の向こうを見つめている。
「硝子、割れたとか」
「風で?」
「…うーん…」
言い返されれば、大石も首を捻った。風で硝子が割れたような場面を見たことがない。
「誰かがふざけたのかもしれないが…、手塚どうする?」
「どうするも、もしそうなら怪我人を確認して、教師を呼んでくる事くらいしか出来ないだろうが」
「見に行こうか」
「ってか、他の組の奴が音聞きつけてなきゃいいけど…野次馬いるんじゃねぇ?」
「かもな」
同じ階だと思ったが、どうやら一階上だった。
音を聴いた時は考えなかったが、生徒会室は三階の西側、その上は三年の後ろの三クラス。もしかしたら先に乾が教師を呼ぶなりしているかもしれないと、手塚も大石も思ったが。
「先輩…っ乾先輩…っ…!」
半分泣き声になって、悲鳴じみた音で叫んでいる後輩の美波が、近寄ろうとするのを教師や生徒が制していた。
教師や下宮の手を借りて立ち上がった乾の足下に、散乱した硝子は如何にも凶器じみていて。風の強さに、窓硝子の残った部分までが割れて落ちてくる。雨で水浸しになっているはずなのに、彼の血が混ざって。血の海のようだ。
自分自身で必死に押さえている側から零れている、手首の血。俯き加減の額からも出血しているのが遠目にも見えた。
「……………………」
青ざめて、ただ立ち尽くした菊丸の、落とした視線の先に、ふと入った見慣れた物。
血と水の混ざった液体の中に転がった。
濡れた。
「………なぁ、……あれって………………」
普通に考えて、場違いなソレ。
「……テニスの…ボール……?」
五時間目終了後。
「あ――――――――――――――――やっと終わった…」
「桃、お前それくらいでへばるなよ…」
「だってあそこで指すのは姑息だ……っれ?」
「どした?」
「いやあの廊下の…」
ひょいと指さした先、二年七組よりの廊下に佇んでいる背中。
「…大石先輩?」
「部活の事かな。こんな嵐だし」
「あー…」
話ながら、顔を見合わせて、林と桃城はどちらからでもなく席を立つ。
しかし教室を出てすぐ、そこに海堂の姿も見付けて表情はげっとしたものに変わった。
「あ、桃に林」
「あ、はい…。部活っすか?」
「ああ…、流石にこの嵐じゃね」
部活は無理だよ。と笑うが、妙に無理しているように映ってならない。
「…大石先輩、どうか」
「そういえば昼休み頃なんか騒がしくなかったですか?」
遮る形で問い掛けた林に、桃城が視線を向けるより早く、大石が表情を曇らせる。
「…先輩?」
「…………」
言い辛そうに口を開き掛けた大石と、二年生の沈黙を無駄にするようにぱたぱたと軽い足音が近づいて響いた。
「…不二」
「あれ、皆まで…」
「不二先輩」
三年の中でも小柄な先輩は、大石と桃城達の顔を交互に見渡して、普段通りに笑う。
ますます何があったのか判らなくなっていくのだが。
「…不二、どうしたんだ?」
二年は俺が伝えるって言ったはずだけど…。
そう続いた言葉に、不二は笑って小さく首を横に振る。
「うん判ってる。そうじゃなくてね。
さっき病院から連絡があったって先生から聞いたから」
「っ…本当か!?」
「うん。大丈夫だって」
「………………――――――――――――――――そうか………………」
あからさまに安堵して、先程急に声を上げた事も、桃城達には話が追いつかない。
けれど先程のような無理笑いではない笑いが大石には浮かんでいるので、何らかの自体が好転した、という判断は付けられる。
「……あの」
遠慮がちに掛けた声に、先に反応した不二が小さく微笑んで“後でね”と呟いた。
見ればもう六限の始業時間。
止まない嵐。
同じようなものだ。
ああ本当、侑士は狡いと思う。
「…………………………ぐぇえ……」
こんなの、俺だけで判るはずがない。
朝方渡された参考書を机に放り、力尽きたとばかりにべたーと手を伸ばす。
がたがたと軋む窓。割れそうだ。
雨粒が、降ってきそうだ。
「岳人、何へたれてんだよ…」
「五月蠅い跡部…。お前に俺の気持ちはわかんねーよ」
「随分大人しいじゃねえか」
ぺしんと後頭部に、ノートの重みが掛かる。
天候も手伝って、跡部のからかいに返す気力もない。
「てか社会なんぞ暗記問題じゃねぇか。何故出来ない」
「全ての歴史が俺に喧嘩売ってるんだよ」
「なんだそりゃ」
「選挙カーに腹立てんのと一緒だよ」
「……お前の例えは異常だ」
いくらへたれているという自覚があっても跡部に真顔で宣われたくはない。
この嵐で何故こう高圧的なんだこいつとは周りも思ったが、突っ込んだチャレンジャーはテニス部レギュラーくらいなものだ。
「てゆーかお前オプションどこやった?」
「…それはお前樺地の事か」
「Yes」
「お前、あいつは一応人間で義務教育過程なんだが」
「ウスしか喋らせん癖に」
「俺の所為になってるのかそれは」
「全校生徒そう思ってんぞ。
何だよ自覚ないのかよ跡部様」
「…尊敬の念もなく『様』つけんな」
完璧に屁理屈をこねるガキと化してきた向日に、徐々に疲れてくる辺り自分で思う以上に天候に左右されていたらしい。馬鹿らしいと思っても、思う様にテンションは上がらない。跡部は諦めて、しばらくは向日に付き合うことにした。
「…で? お前は俺になにさせたいんだ?」
誰だかの椅子を退いてどかりと座り込む。跡部曰くそういう動作は“高圧的”の部類に入らないと言う。大いに違う気もする。
「……教えて」
「嫌だめんどくせぇ」
「即答かよ!」
「てめぇ以外が相手か教科が社会でなけりゃ場合によっちゃやってもいいが。
お前の場合社会は言っても受け付けねぇから」
「断言すんなよケチ。
樺地に言うぞ」
「お前の頭の中ではピラミッドの頂点が樺地になってんのかよ」
「お前+樺地=監督かな」
「真顔でふざけた方程式をでっちあげんな」
お子様が。そう呟いて、跡部は片手で向日の切り揃えた頭をぺしんと叩いた。
でっ、と小さな声を上げて机に突っ伏した向日の視界に一瞬だけ足が映る。
「…っ、侑士!」
机で打った顔を上げて、横手で佇む人物を振り仰ぐ。
跡部はそれまで気付かないでいたらしい。忍足の出現よりも向日の洞察力に小さく、驚いてから呆れた。
「お前等は一緒にいないと気が済まないのか?」
「は? それよか跡部、オプション何処やったん」
「お前もかよ」
これが先程の会話を耳にして言っているならばにやにやと笑っているはずだが、返された言葉に忍足は眉を寄せて“はぁ?”と聞き返すだけだ。
「…なんやお前もテンションおかしなってんなぁ。
ま、ええわ。
岳人、進んだか?」
「全然!」
「そんなこったろーと思た」
「なんだよ馬鹿ゆーし!」
機嫌良く笑顔で躙り寄った相方に大声で返して、それからはた、と彼の手の内の物に気付く。
「何ソレ」
「あ? あぁこれか?
職員室の前で原に渡されたんよ。組行ってからくばらなあかん」
「パシリにされたのか」
「普通の解釈たまにはせぇや。でな、六時間目切り上げやって。
多分HRやって終いや」
時計でちらりと、五時間目も終わろうかという時間を確かめて、忍足は二人だけに言うように話す。けれど周囲にも聞こえているからクラスメートはとりあえず喜んで、それからどうやって帰ろうと考える。
「げ――――――――――――早くおわんのはいいけどさー。
帰れないじゃん結局」
無理難題を吹っ掛けられた子供のように言って、向日はじっと跡部を見遣る。
「…なんだ」
「な! お前どうせ迎え来て貰うんだろ? 乗せてけよ!」
「は? お前親は」
「仕事」
「自力で帰ろうとは考えたか」
「朝から考えてて無理なんだよ」
「方向は?」
文句に被さるように返されて、向日は一瞬“は?”という表情になる。
「だから家の方向。遠回りでなけりゃ考えてやる」
「逆! 前ん家と正反対! 青学の方!」
「あ、青学方面かよ…。もちっと具体的に言え」
「あーほら校門の前の通り行くと交番のある交差点あんじゃん。
あそこ左行って」
「…あぁ、もしかして西小の近くか?」
「わかんないけど小学校はあった」
「じゃそこだな。
っし」
他人の机の中から勝手に拝借していた雑誌を閉じて、椅子から立ち上がり見上げてくる向日の頭をソレで叩く。
「生物のノート貸せ。それで乗せてやる」
「あ、やっりサンキュー! 跡部」
「おおよそ中学生の会話とは思えへんわ…。
跡部、もう一人分空いとるか?」
「お前家逆方向だろうが」
何を言い出すこいつとばかりに向けられた視線を、さらりと流した忍足の手が雑誌をひょいと取り上げる。跡部の背後の窓が滝に打たれた窓のように早い勢いで水が伝っている。
五時にもなっていないのに。蛍光灯の方が太陽よりも明るくて、それは当たり前の雨の日の様子だ。
「そやけど、この分じゃ自力で帰れへんよ。濡れたないし。
せやったら岳人ん家泊まらせて貰った方がお得や」
「そういうことならいいが。お前も後でなんかしろよ」
「任せとき。貸しは忘れん」
「借りの間違いだろ」
「ってかお前等俺の許可もなしに話すすめんなよ」
泊まるなんて初耳だぞ。
「ええやん」
目を通しただけの雑誌。雑に持ち主の机に突っ込んで、忍足は口の端を上げる。
「引っ越した家どんなんか見たいわ。
岳人、お前俺に濡れ鼠になれ言うんか?」
「いやそじゃないけど…。誰も嫌だっつーてないじゃん」
「ほな宜しゅう頼むわ。あ、せやけど参考書は手伝ってやらんよ」
「…ケチ侑士」
ぽつりと毒づくが、やはり覇気のかけたものに終わった。
ザ――――――――――――――――……………
パシャン……ピシャン………
(雨の、音と水たまりの音)
ザ――――――――――――――――……………
パシャン……ピシャン………
(…遠く、車の音)
傘は、黒。
小さな、一つ。
黙って、見下ろしている、子犬。濡れた箱、濡れた身体。
瞳。
「…――――――――――――――――――――――――――――――――…」
目覚めた瞬間、白い光の氾濫に晒される意識。
何処か夢現に、夢を引きずったままで乾は覚醒した。
病室の、清潔なベッドの上。左手に繋がった点滴。何故か、左手だけが小刻みに痙攣したように震えていて、乾はゾッとした。思わずシーツを握り込んだ。
「…目、覚めたか?」
明るい声が頭上から掛かる。
ふと、乾が右側に視線を移すと、見慣れた笑顔が二つ、安心したように笑った。
眼鏡のない目で、はっきり認識できないが、多分。
「…先輩…鳴瀬さん」
隣の部屋に住む、高等部の先輩とそのお兄さん。
自分に何かあると、親は忙しいからこの二人に世話になった。
お兄さんは車の免許を持っているし高校まで青学を出ていて、今高等部に通っている脱色髪の先輩は一年前の部長だ。
咄嗟に、意識していないのに動いた右手の首に、ぐるりと巻かれた包帯の束。
感触が遠い。奇妙な感覚だ。傷口が疼くとは、こういうのだろうか。
(あれ?)
視界が、おかしい。
眼鏡がないから、視力の極端に低い自分がほとんどぼやけた視界にいるのは普通なのだが、片方、暗闇だ。
変な感触も感じる。
思わず右手で触れる。右目の部分を覆うように、額に包帯が巻かれていた。
「額の傷、右目の近くまで行ってたんだよ。瞼まで行ったわけじゃないけどな」
挟んだ声に、ああそうかとまだぼんやりした頭で考える。先輩には笑われた。『貞が珍しく呆けてる』と。
「災難だったな」
「……っと……、どうなってます?」
さっぱりだ。本当に。
教師に連れられて車に乗り込んだのは覚えている。
途中から、記憶はない。
「足の傷はほとんど軽い切り傷。ただ右手首と額の傷は何針か縫ったよ」
穏やかな調子で、兄の方が答えてくれた。
「大丈夫。テニスが出来なくなるとかそういう傷はないよ」
「…そうですか」
「ちなみに、お前は途中で失血に意識飛ばしたわけ」
「……」
つまり、気絶したと。
何だかソレは状況を考えても…、気が滅入る。
力を入れて、もそりと起き上がる。途中、また左手が傷もないのに疼いた。
「首」
起き上がってから、ふと触れて、呟いた。
首筋にも巻かれている包帯。
「浅い傷だよ。それも。ただ結構数切ってたから」
「そうですか」
相づちのように言って、首筋をもう一度撫でる。
ああそういえば、生徒会はどうなったんだ。今更だが。
(…第一、硝子は何故割れた?)
「………」
つ、と病院の窓を伝い落ちる雨水。嵐は、まだ過ぎていかない。
風の轟音。子供の、怖がる悲鳴でも聞こえてきそうだ。意味ないのに。
「…貞」
「先輩」
遮るつもりで、呼んだ。
彼の顔は自分には見えないのだけど、視線を無理に合わせるように顔を上げた。
ずれて、いても別にいいのだ。自分の気持ちの問題だから。
「俺の眼鏡、壊れてました?」
「あー、ってかサイドテーブルに置いてあるけど。レンズ割れてるわ血だらけだわで使えた代物じゃねぇぞ」
「買い直さなきゃ駄目ですか」
明日も学校あるのに。
「…、別に入院しなくても大丈夫ですよね?」
「まぁ…医者の話では。通院はするだろうけど」
「じゃ、家まで送ってもらっていいですか?」
「…看護婦さん呼んでくる」
軽く音を立てて病室に背を向ける先輩を、その足音を鼓膜だけで追って。
気配だけで、残された彼の兄が笑うのが判った。
「…治、大丈夫か?」
今更な、確認は身体の怪我の事なんて指していなくて。判らないほど自分は鈍くなくて、それをその人も判っていて。わざと気付かない振りをするほど、短い付き合いなわけじゃない。
「まぁ概ね」
口の端を上げる。
聞かなくても、判っていることが一つある。
(あの人達は、今も仕事に追われている)
息子の怪我くらいで、戻る程暇人じゃない。
大きく鳴る窓枠が、あの時のようにまた割れていきそうだった。
誰もいない部屋。
誰もいない場所。
ただいまも言えない。
おかえりは帰らない。
それが当然過ぎたから。
時折顔を背けたくなる。
…あの場所の突き放すような暖かさに。
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