◆GARDEN+◆
相当、眠くて頭がぼやけていたのだと思う。 その日は朝から頭が痛かったし、保健室で休ませて貰おうと思ったら何故か混んでいるし。 仕方なくて、昼休みに避難した屋上で、うっかり眠りこけて。 気が付いたらもうとっくに、部活の始まっている時間だった。 「…絶対、二十周とか三十周だよね」 頭痛は収まったが、それはこの際言い訳にならない。 屋上からの、汚れた階段を降りる足取りは心なしか重い。 廊下に出れば、窓枠に切り取られて四角く差し込む日差し。 まだ赤みを帯びていない陽光は、昼間だと言い張っても通用するくらいに明るい。 教室も廊下も、おかしいほどにがらがらだ。 「……今日委員会とかあったっけ?」 記憶にある限り、何もなかったはずで。 教室のお決まりの形をした時計の針はどれも四時十分前を指す。 今日は授業が早く終わるはずとはいえ、その時間に此処まで無人なのは。 「…気味悪いよねぇ」 誰もいない、磨かれただけの廊下。窓硝子の反射した光。ロッカーからはみ出した雑巾に鞄の掛かっていない机の群。気味が悪いほど、音がない。 取り残された錯覚さえ受けそうで、不二は息を一つつくと鞄を手に部室へと向かった。 「――――――――――――――――……なんで?」 ぽつり、と呟いた声から滲む驚きに不可思議な印象。 相変わらず暮れはしない太陽と青い空。雲の群の影が這う校庭。 本来なら部活動で賑わっているはずのそこにも体育館にも、テニスコートの鍵すら開いていない。 部室側まで来る間、不二は勿論誰とも会わなかったし、人の姿も見はしなかった。 何度も時計を見返すが、大きな時計の針も四時十分前。そもそも夕焼けにはまだなっていない。 まさかあそこで一晩明かしたなんて間抜けなことはないはずだ。第一携帯の日付は今日のままだし、水曜の次は木曜で学校は休みじゃない。 けれどこれではまるで。 「休みの日だよね」 休日に通りかかってみるような、無人のがらがらな学校。 いや、休日でも部活の生徒がいるのに。 「ドッキリでもやってたりして…そんなわけもないか」 どうせ引っかけるなら手塚の方が楽しいもの。 部室のドアに手を掛けたところで、中から物音がした。 誰か居るのかと、少しでも安堵し同時に馬鹿らしさも浮かぶ。 何変なことを考えているんだなんて。 ――――――――――――――――……? 廊下で見たときも四時十分前で、今も四時十分前? 「いくらなんでも五分くらい経過していいのに…」 どうしてこんな時にそんな違和感が芽生えたのか。 それと関係があるかは知れないが、日差しの反射で中の見えない部室のドアを押し開いて、足を一歩踏み入れ、視界を上げた状態で、不二は思考にまた先程の馬鹿らしい考えが過ぎって、挙動を一回止める。 …人は、いた。 しかも見覚えがあり、間違いなく青学テニス部の人間で同級生であれだけ伸びたのにまだ身長が止まっていない今現在はレギュラーから外れてしまったストーカー紙一重で彼を語るにはまず間違いなく野菜汁と逆光の付属する。 分厚い眼鏡のデータマン。 「――――――――――――――――…――――――――――――――――………」 薄暗い部室で何をやっていたのかそんなことはどうでもいい。 不二に気付いて、屈んだ体勢のまま振り返ったのは当然だからそれもいい。 しかし。 しかしソレで何故――――――――――――逆光入ってるとかやっぱり眼鏡だけ光ってるとかそんなこともどうでもよくて――――――――――――――問題は何故。 その尖った髪の頭に二本、兎の長く白い耳が生えているのかということで。 悪ふざけだったら、質が悪い。 「……乾?」 「や、遅かったな不二」 「…うん御免。で、それは君なんの冗談なの?」 「それ? それより手塚が怒っていたぞ。部活に一時間も遅れて」 「一時間もってそんな前から部活やってないでしょ…ってか、その」 なんだろう会話が。 繋がってないというか。 そう、乾の正確全てを把握したわけではなくても、こういう事をやる人ではないと何処かで思っていたんだろう。 あまり驚いてないつもりでしっかり驚いてはいたらしい。 しかも何て言うか、通常の青学ジャージの緑とその身長に兎の耳が似合わない事この上ない。微妙な意味では楽しいが。 「その耳はなに?」 傍目に何か被っているようには見えないんだけど。 「え? 何言ってるんだ自前に決まってるだろ」 「自前って君が買ったの?」 「不二? お前どうしたんだ? 生えてるものを買うわけないだろ?」 「――――――――――――――――触っていいかな」 「どうぞ」 頭打ったか? なんていつもの平静な調子で訪ねられて、打ったのは君じゃないかなあと口に出しそうになる。 触れてみて、一瞬手を引っ込めそうになった。 柔らかい。 というか暖かい。よく見れば血管がうっすらと見える。 触れた瞬間にぴくりとも動いた。 「あまりくすぐるなよ」 「うん…」 というか、急に曲がらないで欲しい――――――――――曲がるし。耳。 悪戯ではなく、確かめたくなって。 この段階でも不二は信じてはいなかったから。 強く耳を引っ張ってみる。 「っ痛! 不二、何してるんだ…」 「……ごめん」 やばい、痛覚もある―――――――――――――本物っぽい。 感触もまだ手の平に残っている。 夢かなこれ。僕はまだ寝てるんじゃなかろうか。 「こら、なに現実逃避してるんだ」 「った」 乾に額を小突かれる。痛みが確かに感覚として残る。 乾いた笑みが浮かぶのが、自覚の中にあるが。 とりあえず乾の目には普通に映っているらしい。さてとなんて呟いて、不二に背を向ける。鞄を取ろうとしているらしい。 頭どっちがおかしいんだろうなんて考えていた不二は、はたと近くにあるラケットに目がいく。 叩いたら戻るかな。 乾が屈んでいるうちにラケットを掴んで、思い切り振り下ろす。 「ああそうだ。不二――――――――――――――――…」 ごす。 という小気味いい音が響く。 丁度振り返った瞬間に、ラケットを頭に喰らった乾が、口の端だけを上げて不二を見下ろす。 「………乾」 「なに?」 「つかぬ事訊いていいかな」 「うん」 「君の頭さ――――――――――――――――……何製?」 「鉄製」 んなわけあるかい。 「……そう」 何だかまた頭痛が甦って来た気がして、不二は額を抑えながらゆっくりとラケットを降ろす。力無く降ろされた腕から零れたラケットがからんと落ちた。 もう、順応した方が楽なのかも。 「ああ、やばい時間だ。ほら不二も」 「え?」 「手塚が怒ってるよ」 怒ってる。 それすら普通にグラウンド二十周とかの方に思考が移行しない。 どうか、ただの二十周とかで有りますように。なんて考える。 乾の後を追って、部室から出る。視界を埋めるのは相変わらず暮れない日差し。 「やっぱりまだ四時前…」 大時計に目を遣って、小さく呟く。秒針は確かに、動いているのによく見ていれば一分過ぎても長針も短針も動かないのだ。 「不二」 「あ、なに?」 順応した気はないが、乾の兎耳はそれで置いておくことにしたらしい不二が、呼ばれて見上げていた視線を降ろす。 誰か見ていた人の談なら、そこで確かに不二の挙動がまた一時停止した。 フェンス。テニスコートの。 上に乗っかるなんて芸当を遣って、足ぶらぶらさせている。 手塚が。 「――――――――――――――――……………ハンプティダンプティ…?」 ていうか卵。 ぐるりっと顔をこちらに向けて、真面目極まりない顔で。 「不二、遅かったな」 「――――――――――――――――……」 「不二? 具合でも悪いのか?」 急に地面にへたり込んだ不二を覗き込むように、乾が屈んでくる。 「…………か」 「え?」 「……なんで手塚なの……。大石じゃないの間違ってない選択…?」 「や、俺にそんな事言われても」 何げに失礼だね不二なんて言ってくるのは、耳さえなければいつもの乾なのに。 「…頭痛い」 「保健室行くか?」 「行かせて」 というか手塚直視したくないよ。 「待て、せめて連絡事項を言ってからだ」 とんと、やけに軽い足取りで地上に降りた手塚の声が耳に入ってくる。 「ま、そうだね」 同意しないでよ乾と言いたくて、顔を上げ、不二は眼前に佇む手塚の姿に唖然とする。 普通だ。 咄嗟に立ち上がって乾を振り返り。 「…なんだ、体調大丈夫なのか?」 …耳有る。 「大丈夫ならいいが。まぁいい。ついでに話もある。部室に来い」 「うん…」 とりあえず手塚が普通なことに何より安堵したらしい。 ある程度余裕を取り戻して、不二は元来た道を戻る。 途中ベンチの上にチャシャ猫もどきの菊丸が居た気がするが、軽く手を振るに留めておく。 大石なんだろう。 ハンプティダンプティ楽しそうなのに。 と思える辺り、そろそろ順応している不二だったが、戻った部室で急に手首を掴まれて暗い室内に視線を返した。 「…手塚?」 振り返った瞬間卵に戻って無くてよかったとか的はずれなことを思ってみる。 壁に押しつけられる。痛みや冷たさより、やはり卵とか耳が思考。 だが、流石に唇を塞がれて――――――――――そんな思考も薄れた。 「………っ…、手塚…君ね…っ」 「好きだ」 ――――――――――――――――はずだった。 「……………………………………………………………………………………手塚」 「何だ」 「普通の格好で言ってくれると僕有り難いよ………」 卵で言われたって頭入って来ないよ。 「俺は至って普通だが」 「思い切り違うよ。宇宙人に誘拐されたんじゃないの君」 大体ソレでどうやってテニスを致す気なのか。 絶対転ぶ。バランス取れるはずがない。 ハンプティダンプティはそもそも塀から落ちて割れたじゃないか。 「や、それはいいそれは今は」 「不二?」 「……ごめん手塚」 手近にあったラケットを頭に振り下ろす。 普通に気絶してくれたことと、割れなくて良かったという結構切実な思考を共に、ラケットを放って不二は校庭に出る。 誰の姿もない校庭を見渡して、とりあえず夢でもなんでもいいからうちに帰ろうと置いていった鞄を探す。 と、おんぶお化けの如く後ろから抱きつかれて、とりあえず驚いた。 「……英二」 「何処行くんだよ不二ー、俺が寂しいだろー」 「英二、チャシャ猫なんだね…」 「消えられるぞ」 「うん凄い」 苦笑しか浮かばなくて、巻き付かれたままの腕に手を遣る。 大石はと訊こうとして止める。訊いて来られても困る。 「不二――――――――――――――――…、俺持って帰ってもいい?」 「誰を」 「不二」 「英二が人間になったらね」 「何だよそれー!」 だって。言いかけた瞬間にふっと菊丸の姿も重みも一瞬にして無くなった。 「………英二?」 声が返らない。 時計の針は、まだ四時前で。 とりあえずまた誰かに会う前に戻ろうと踵を返した。 家に戻ろうとしているはずなのに。 気付けば足は屋上に向かって。 重い扉を開けたところで足から力が抜けて、自由になった気がした。 「………疲れた」 青い空、断層になった雲は現実と何ら変わりない。 まだ夢か、なんて思いながら扉を背にへたり込む。 とりあえず手塚は見たくない。 しかし建物の影から急に誰か来そうで嫌だななんて思う。 瞬きのつもりで目を閉じた直後、開けた視界に越前が居て驚いた。 「……越前?」 「今日和先輩、部活始まっちゃいますよ?」 風景に、代わりはない。 越前は制服の姿で。屈んで。 ふと伸ばした手で頬をつねったら痛いと言われて。 現実かなぁと朧気に思う。 「ねぇ先輩」 「ん?」 目を閉じて下さい。 そう言われて、何故その時閉じたのか。 夢の続きのつもりで。まだ寝ているつもりで。 重なってきた唇が、何の抵抗もなく受け入れられて。 離れる瞬間に、意識が遠のく気がした。 「――――――――――――――――…じ、不二」 繰り返し呼ぶ声がする。ああ英二だ。 寝惚けた視界に映る姿は普段そのままで。 「……あ」 ハッとして、目を擦る。 「やっと起きたよ不二ー!」 「部活始まっちゃいますよ先輩」 「…英二、越前」 夢。 ああ、夢だ。 こっちが現実。 「……ごめん」 安心したように微笑んで、立ち上がると屋上の近い空が視界に迫る。 「早く行きましょ。部長怒りますよ」 「グラウンド二十周! てか。……不二、何笑ってんの?」 「…や、ごめん」 何でもないよ、と誤魔化すようにして手を振りながら、屋上に背を向ける。 どうせ夢なら、もうちょい楽しめたななんて。 結局大石はなんだったんだろうとか。 「英二、チャシャ猫好き?」 「ってアリスの? んー割と。でも実際消えたりしたらむかつかね?」 「そう?」 「菊丸先輩はむしろ猫自体でしょ」 「なんだよ越前それは」 階段の、罅の入った壁や汚れ。 廊下に出れば、帰りで賑わった生徒の話し声と、四時になった時計の針。 校庭にもぱらぱらと人影が見える。 そういえば五、六限さぼっちゃったなぁと思いながら部室のドアを押し開く。 「――――――――――――――――――――――――――――――――…」 ワンスモアだかなんだか知らないが、兎耳生えた乾に振り返られて、不二は踵を返して帰りたくなった。 「不二ー? って何だよ乾ソレ!」 「俺のせいじゃないよ。桃が勝手に付けたんだよ」 「だって乾先輩寝てるんですもん」 「悪ふざけ過ぎますよ桃先輩」 切欠さえ有れば後は好き勝手に騒ぐ部室の中で、不二は乾の兎耳が確かに外れていることを確認してから呟く。 「君の頭何製?」 「……はい?」 流石の乾も返し損ねて、後でデータ追加しようなんて考えている。 まだ夕暮れには早い日差し。 後ろの方で、軽く自身の唇に触れて、越前は小さく笑う。 どうせ夢って思ってるんだろうなんて、考えながら。 |