[RAIN-レイン-] 部屋の隅で、泣いている。 一回しか見たことがない姿。 でも、それがその子の本当だって思った。 「……………」 昼食の時間。食卓に並ぶ食事は、基本、個別に分けられて各人の前に並ぶ。 他者にとられることはない。が、逆を言えば、自分の前に置かれた食事は全て食べろ、という意味だ。 その家で飼っているのは、二匹のキメラだ。 一匹は虎のキメラで、もう片方が羊。 年は同じだし、ウサギキメラでもなければ一緒に飼うことを禁止されてもいなかったので、一つの家にこの二匹がいる。 白金の髪の、翡翠の瞳の虎キメラは今、八歳になる。概ね、偏食もない。むしろ、なさすぎる。その年にしては。 だが、一緒に飼っている羊との相性は、よくないかもしれない。 蔵ノ介という虎キメラは自分の皿に入っていたピーマンをフォークで刺すと、隣で笑顔で肉に食いついている羊の口内に突っ込んだ。 「あ」 飼い主である小石川がそう言うが遅い。大嫌いなピーマンを口に突っ込まれた羊キメラの千里は涙目になって、必死に蔵ノ介をじーっと見つめながら必死にそれをのみこもうとする。蔵ノ介はふん、と勝ち誇ったように笑って自分の食事を再開した。 「千里、残してええぞ? てか出せや」 「……く、蔵がくれたけん、もったいなか…」 「…いや、くれたっちゅうか、嫌がらせに突っ込んだっちゅうか…」 半泣きの顔で、必死に、明らかに無理をしてピーマンを飲み込んだ千里は、涙をごしごし拭うと、隣の蔵ノ介の服を掴んだ。お互い八歳だが、千里の身体は蔵ノ介より若干大きい。羊は角が生えないよう調整されるが、黒い髪に少し見える丸い角は羊のそれだ。 「なんや」 「蔵。いまのもういっかい! そっちのおれんじがよか!」 はきはき笑顔でお願いする千里に、小石川は向かいに座ったまま、やめとけと言う。結果が知れてるからだ。 「ふーん」 「な、蔵! ちょうだい!」 「ほな、はい」 蔵ノ介は子供にあるまじき冷め切った視線を千里に向けると、左手に握ったフォークでごすっ、と勢いよく皿に盛ってあったナスを突き刺した。 千里が一瞬で泣きそうな顔になる。蔵ノ介はニヤリ、と笑うと、千里の顔の前にナスを寄越した。 「はい、あーん?」 「…………っぅ」 千里はナスも嫌いだ。というか、子供は嫌いだ。しかし、なんで蔵ノ介の皿には盛ってあるかというと、蔵ノ介はそういう子供が嫌いだが、身体にいい野菜を兎に角好んだからだ。千里の皿には盛っていない。 「あ、あー……」 涙目になりつつ、口を素直にがばっと開ける千里に、小石川は額を押さえる。 嫌いなら口閉じときゃいいのに、なんであけるんだ。 という理由がすごくわかるので、止めたくても止められない。 一回止めたら被害者(千里)に泣いて止めるなとお願いされた。 蔵ノ介は当然、ふっと笑うとそのまま遠慮なく千里の口にナスを放り込んだ。 千里はもう泣きながら、必死に咀嚼している。 嫌いなら、欲しがるな。蔵ノ介なら絶対そうするってわかるやろう。嫌なら噛むなと言いたいが、どうも、千里は蔵ノ介に惚れ込んでいるらしいので、迂闊なことが言えない。 全ては、好きな相手からあーんして欲しいという恋心。 (にしたって、八歳であーんされたがる千里も千里でおかしいわな…) 「あー、またやっとったんか?」 キッチンで皿洗いをしている小石川の傍に立った巨躯がそう訊いた。 家は小石川一人のものではない。マンションの一部屋を二人で借りた。 同居している石田は夜にならないと帰宅出来ない仕事だ。 昼夜が逆転する仕事より、会話の機会があるからその方が小石川も有り難い。 小石川も昔は仕事をしていたものの、キメラを飼う機会に石田に家に居着くよう押し切られた。 一応、石田とはそういう関係だし、付き合って長い。が、一応自分は男だ。 こう、あからさまに家事をする昔の嫁扱いをされるとは思わなかった。 石田は真面目に仕事も家事もするし、他人任せにしない人だから、亭主関白とは違うが。 「やっとったやっとった。あれは、どないかならんかなー…」 夜の八時に帰宅した石田は、あの二匹の様子を伺う。どちらかといえば石田の方に懐いている千里は、石田が帰宅すると出迎えてその日のことを報告する。 でかい石田の腕に収まっていると、ますます小さく見える。 今は寝室にいる二匹の様子を窺ってから、小石川は首を傾げた。 「噛んだりはせえへんけど」 「蔵ノ介は頭ええし、優しいからな。せんやろう」 「ほならあれはなんなんやろう」 「…やから、相性か?」 「一方的に蔵ノ介だけ?」 蔵ノ介は後から飼ったキメラだった。主人を事故で失った彼を、亡くなった主人と縁のあった小石川が引き取ることにした。飼う時、問題はあまりなかったが、それでも前からいた、当時四歳の千里のことは気にかかった。羊と虎。どっちの立場が弱くなるかはわかる。 しかし、一目で千里の方が蔵ノ介を好いてしまった。だから問題はなくなったはずだった。が、蔵ノ介の方に問題が出来た。 どうにかならないか、と悩む小石川の頭が唐突に抱き寄せられた。石田の腕の中に身体を抱きしめられてしまう。 「え、あれ…あの」 戸惑った小石川の頬を手で固定すると、石田からキスが落とされた。思わず小石川は手を伸ばして首にすがりつく。数秒しっかり重なった唇が離れると、小石川はあっさり身を離した。石田の方が名残惜しそうな顔をする。 「いや、寝るまであかんから…な」 小石川は彼が望んでいることはわかっていたが、幼い子供に見せるものではない、とポーズをとって背後に逃げた。二匹は寝室から出てこないから、気付いていない。 石田はそれがわからない人ではないので、仕方なさそうながら頷いた。 未練は、たっぷりある様子だったが。 「子供がおると夫婦の時間がなくなるな」 「夫婦やないから。同居人な」 石田の呟きに突っ込んだら、睨まれた。地雷らしかった。 蔵ノ介の主人とは、つき合いがあった。だから、知っていた。 でも、事故の詳細は小石川も知らない。列車の事故だとだけ、訊いた。 それは、雷雨の激しい日のことだった。 寝室で、主人たちの後かたづけを待つ間、いつも蔵ノ介は千里と二人だった。 にこにこ笑って、自分の傍に座った千里の癖のある前髪をぐいっと掴んで引っ張ると、悲鳴が短くあがった。その隙に蔵ノ介は離れる。 遠く、部屋の隅まで移動して、部屋の中央にいる、痛みからやっと顔を上げた千里にあかんべをしてやった。なのに、千里は自分を見て、嬉しそうに微笑んだ。 (あればかや。すっごいばかや。けんじろーがあまやかしたんやぜったい) ほんの少しの間、小石川に引き取られるまでの間、自分が預けられていたセンターという場所。 自分にそう邪険にされて、同じように預けられていた他のキメラは怒ったり、泣いたりだった。笑う馬鹿は、あいつが初めて。 自分の頭に生えた耳を引っ張って、音が聞こえないように押さえる。 そのまま座っていると、いつの間にか近くに来ていた千里の手がそれを引き剥がした。 自分と同い年なのに、驚くほど強い力にムッとする。自分の方が強い動物だって、小石川は言っていたのに。 「みみ、そげなこつしたらいかんたい」 「おまえにかんけいないやろ!」 むかついて、腕を振り上げると、千里の腕が少し、自分の爪に引っかかれて傷になった。 一瞬、後悔したけど、見られたくなくて顔を背けた。 早く、早く小石川たちに来て欲しい。二人だと、なにか嫌だ。 彼は、なにか、嫌だから。 遠くで一瞬聞こえた音に、蔵ノ介は身を震わせた。 まさか、と思う。雨が降っているから、まさかとは思った。 でも、轟音が響いて、部屋が真っ暗になるまで、信じたくなかった。 一瞬の雷鳴はかなり大きかった。加えて停電。 主人たちはすぐ来れないだろう。明かりを探すはずだ。 蔵ノ介は身体を丸めて、自分の身体を抱きしめた。 やだ、こわい、こわい、はよきて。 あれは、きらい。こわい。 あのひとをつれていってしまったから、きらい。 目頭が熱くなって、涙が零れた。小さな嗚咽が溢れる。 雷は嫌い。恐くて、あの日を思い出す。 いくら待っても、あの人は帰ってこなかった。その日。 雷が、あの人を連れて行ってしまったからだ。 優しくて、大好きな人だったのに。 「蔵ノ介」 そう呼んだ、あのひとの声が、重なった。 千里が自分を呼ぶ。その声とあのひとの声が重なった。 戸惑う暇なく、ぎゅっと身体を抱きしめられる。暖かい、体温は千里のものだ。 弱いとこなんか、見せたくない。 なのに、恐くて、怖くてしかたなくて、彼に縋った。 震えが、彼に吸収されたみたいに、収まっていく。 きつく抱きついていると、頭をぽんぽん、と撫でられた。 「おまえ、アホちゃうか…」 詰ったけど、涙で掠れた。千里はにこにこと笑う。相変わらずのようで、少し違う。 その笑顔に、自分を呼ぶ声に、思い出す。 彼が苦手だった理由を、悟る。 「蔵ノ介。だいじょうぶ」 ―――――――彼は、似てるんだ。 あのひとに、雷が連れてったあのひとに。 声も、笑顔も。 だから、嫌だったんだ。傍にいると、弱くなるから。 わかって、無性に泣きたくなった。ぼろぼろ流れる涙を、どう思ったのか知らない。ただ千里は優しく笑って拭ってくれた。 手を、ぎゅっと握って額同士をこつんと当ててくる。 「こわくなかよ」 「こわいもん」 「だいじょうぶ。いまはこげんちいさくても、すぐおれおおきなるから」 千里は初めて、勝ち誇ったように微笑んだ。それでいて、優しく自分を見た。 「おおきくなって、つよくなって、はやくくらをまもってあげる」 やくそく、ととても柔らかく告げた声。涙がまた流れてしまった。 また抱きしめられる。瞬間、明かりがついた。 「蔵! 千里!」 小石川が部屋に飛び込んできて、泣いている蔵ノ介と、それを抱きしめる千里の頭を優しく撫でた。 「くら! それあーんして!」 ある日の朝食、石田も揃った食卓で、千里はにこにこ笑っていつものようにオレンジを強請った。向かいの小石川は「あ」と呟いたあと、少し笑う。 千里の目の前に突き出された、フォークに突き刺さった食べ物は、いつもみたく苦い野菜じゃない。千里が言った、オレンジ。 蔵ノ介の尻尾が、ふるふると揺れている。 「あーんとかしてやらんからな」 はよ喰え!と命令する口調は相変わらず偉そうだ。千里は気にせず、嬉しそうにそれにかぶりつく。 「くら、ありがと!」 「…もうやらんで」 むすっとして言い、そっぽを向く蔵ノ介の頬は、小石川達から見れば赤い。 あのひとに、似てる。 声も、笑顔も。 でも、あんな約束は、あのひとはくれなかった。 (いっしゅんしんじてやっただけや。いっしゅん…。………「いっしゅん」て、どんくらいのながさ?) その約束を、信じてもいい? いなくならないと、信じても、いい? そう、泣きたくなる気持ちで、問いかけた。 今は、心の中で。 2009/07/25 |