君を見るのが苦しかった。 届かない視線、届かない手。叶わない感情。 羨望だけ、抱いていけるならどんなに。 苦しいんだ。 青々とした木々が、地面に長く陰を落とす。 僅かに砂が舞う。晴れた地表、白い校舎の壁。 「……じ? 不二?」 呼びかけられて、ハッと我に返る。 コートのフェンスに凭れた背に、緩く力が掛かる。 コートで、打ち合う耳に慣れた音。 「あ、御免英二。なに?」 「何じゃないよ…次、俺等の番だからって」 「ああそっか」 何呆けてるんだよ〜なんて大仰な台詞。 視線だけ外さずに、少し笑ってみせる。“だからごめん”って。 かしゃんとなる、フェンスの。 空が高い、断層になった雲が影を落としていく。散り散りに。 反対側のフェンス越し、佇んでいる姿は遠い。 唇だけで呼ぶ。 手塚。 気付くはずはないから、期待はしないし実際気付かないのだから。 風。 「……っ」 「…不二?」 どした? と覗き込んでくる菊丸に、何でもないよと笑いながら、額を抑えかけた手を引っ込める。 心配する彼に“ちょっとゴミが飛んできたの”なんて誤魔化して笑う。 誤魔化して安心させて、小さく息を吐いて。 頭痛い…。 呼吸が少しだけ浅くなる。 けれどどうして、ふと向けた視線の先で。 「………………………………」 君は僕を見てるんだろう。 少しだけ、そうやって心配げに、何も言う気なんかなさそうに。 見なかった振り、すればいいのに。馬鹿だね。 唇を、誰にも気付かれないほど小さく、噛み締める。 君は、最近越前の事を気にしている。 確かに彼は強い。それは認めているし、嫌いなわけでもない。 そう、君がただ見ているのならいいんだ。 けれど、僕が君に抱いているのと同じ想いを君が彼に抱いたら。 僕はどうすればいい――――――――――――――――…… 「…―――――――――……じ、不二。おい」 ぱしん、と後頭部を叩かれた。 手の平ではない。ノートの感触。 それと声だけで予測済みで、軽く首だけで振り仰ぐ。 「…見付かっちゃったか」 なんて、小さく笑って見せて。子供じみて。 呆れたんだか可笑しいのだか判らない調子で、ため息を吐く乾を。 緑のフェンスに囲まれた、地上よりは高い場所。 四角い石のタイルの隙間から生えた雑草。苔の張り付いた隅の石。 白い用具入れの建物と、上部分しか見えないフェンスの向こうの木々と。 空と。 少しだけ汚れたプールの水。 飛び込み台に腰掛けて、足だけ水で遊ばせて、項垂れていた。 誰か見付けるとは思わなかったよ。 「部活サボリの奴が、見付かりやすい場所になんかいないだろ」 「…君もそじゃないの? 手塚の許可取ったんだ?」 探すのに。 付け足すと、持っていたノートを肩に置いて、口の端を上げて見下ろされた。 「いいや」 「じゃ、君も同罪」 「承知済みだよ」 少しだけ息を吐く、様が妙に普段とは違くて、彼らしくて。 口元だけ手で押さえて、笑う。 「なに?」 「…ううん」 飛び込み台の上で、膝を両方抱え込む。 水の音が近い。 「越前?」 ぽすりと、自身の膝に顔を埋める。そのままくぐもった声で、呟くみたいに言う。 「…狡い乾」 「そう?」 「メモらないで……」 「うん」 ぱたんとノートを閉じる音が、耳の端でする。 「なにが?」 主語が抜けた問い方は、乾特有で慣れている。 これが初対面なら、戸惑うんだろうな、と今関係のないことが浮かぶ。 「そーいうの。 一年の時さ、“あんまり人のこと読んじゃ駄目だよ”って言ったの君じゃん」 「言ったっけ」 「言ったよ」 忘れないでよ。 飛び込み台に、プール側に背を向けて腰掛けて、乾は気配だけで笑う。 「そだね」 とんと、伸ばした足の踵を石の隙間に引っかけて。 不二の顔に、髪が掛かって影が落ちる。揺れる髪先と影。 「でも、俺は例外」 「なにそれ」 ぱしゃんと跳ねる、水。冷たい感触が素足に触れる。 そのまま流れに任せて、不二は左足だけを揺らす。 透明な、少し汚れただけの水。映る日差しの光。反射。木々のざわめき。人の声。 風だけに煽られる、水の波紋。 目を閉じる。音だけになる。 乾は何も言わない。気配だけで居ると知る。 頬を撫でていく風。 緩やかな。 「………………………………」 勝てないね。手塚。 君には。 それが今凄く悔しいよ。 昔、君に勝てなくても、僕に向けられていた興味は。 今は、何処。 水。 触れている物全て、希薄になる。 「――――――――――――――――――――――――――――――――……」 「…不二……―――――――――…!」 乾の少しだけ、焦った声。 水に遮られる。 飛び込んだ水の痛さ。冷たさ。 浮力の中で、顔を抱えて、子供が泣く真似事をする。 服が水を吸って重い。 今どうでも良くなるほど、身体が痛い。 締め付けられる。指の先まで。心臓から。 内側から。痛い。 いっそそのまま、壊れて。 「…っは………っ……!」 呼吸が続かなくて、ようやく水面に顔を出す。 流れる水。顔が冷たい。 他人事のように。 「あーあ…」 びしょ濡れ。なんて笑っていると、頭上から乾が“当たり前だ”なんて言う。 呆れていないって、見上げて判るのに。 自嘲めいて笑い、プールサイドの彼に手を伸ばす。 「引き上げて」 断らないのを知っているから。 そしてその通りに、その不二の手を掴んだ乾の、体勢の不安定さに。 悪戯を思いついて。 手を――――――――――――――――思い切り引いた。 「っ……わ!」 水が大きく跳ねる。飛沫。 落ちてきた青年の身体を受けて、不二はまた水の中に沈む。 痛みはない。全て、吸収されていく。 顔を上げて、眼鏡も何処かにやった乾の何時もとんがった髪が、水のせいで降りている。 ぷ、と小さく吹き出す。喉を痙攣させて笑う。 「……なっつかし……一年時みたいよ…」 「実行犯がそういうか……」 ジャージまで濡れて気持ち悪そうにしている乾が、水面に視線を走らせて眼鏡を探している。 ほとんど見えないだろう視界で見付けるのは無理と踏んでか、一度沈んだ長身が、また水から顔を出した。 案の定濡れた眼鏡を手に。 「…ほら、上がるぞ。風邪ひいたら馬鹿みたい………不二?」 体温下がっているのかなと思ったんだ。 濡れた胸に顔を押しつけて、濡れた服にしがみついて。 ひやりとした感触に、不二は頬を寄せる。 「……どうしたの?」 目を閉じる。心音がする。彼の。 少しだけ、また、笑う。見ていないから、どう笑っていたか判らない。 「読んでよ……」 水の波紋。音色。 ゆっくりと、力を込めずに回される、肩に乗せられる濡れた腕。 他人の体温が、水に吸われてほとんど伝わってこない。 ただ、心臓だけ確かめるように、頬を押しつける。強く、握る。 「……読むなって、言ったのにね」 ぽつりと呟く、乾の声がした。 心臓と一緒に。 「…………………………………で…………、」 例えば僕が。 額を押しつける。俯く顔が、揺らぐ水面に遠く映る。 「………………読んでよ」 例えば僕が、女だったなら。 苦しみだけを抱えはしなかった。 ねぇ手塚。 君の、優しさも労りも。 苦しいんだ。 …苦しいよ。 「……………乾」 縋り付く、細い身体を緩く抱く。 その度に、波紋が浮かんでいく。 昔は、自分の方が小さかったんだと、遠い日を思う。 不二の想いも、感情もわかりはしない。 理由だけ、察せるならそれだけ。 水に濡れた、眼鏡の視界。 フェンスの向こう。 きっと地面に足をつけて、同じくらいの視線で。 見ている。 「…………………」 水が流れていく、レンズ越しに。 海堂。 何か言いたげに、睨むように見据えてくる双眸。 無意識に、抱く力に手を込める。 金縛りにでもあったように。自分からは視線を逸らせずに。 ただ、乾は不二を抱く力だけに現実を感じる。 視界がぼやけそうになる。 ふと、突いた痛みに意識を背け。 抱き締めたまま、水面に今度は自分から潜った。 冷たいなんて、今更な事を思う。 水面に沈められて、驚いた表情で見上げてくる不二が、一瞬泣きそうに笑う。 水の中で組み敷いた身体を、呼吸のない意識の中でただ見下ろして。 そのまま口を塞いだ。深く。 息が混ざる。 そのまま不二の顔を見ずに、腕の中の閉じこめた。 藻掻きもしない身体を、掻き抱く。 頭の中で、乾は同じ言葉を繰り返した。 ――――――――――――――――…読んで 読んで、察して、何か。 何でもいい、言葉が欲しい。 判った振りをして、結局痛みなんて解っていない。 汚いのかもしれない。 ただ、手足の先まで、痺れるような痛みが刺す。 神経から。 ――――――――――――――――…海堂 ごぼり、と水泡が立て続けに浮かぶ。 息が足りずに、苦しげに顔を歪ませる不二に、気付いて。 乾はまた、抱く力を込めた。 鳥籠でも作るように。 このままなら、死ぬんだろうかなんて事を思って。 水の外へと顔を出した。 「……っ……は………かは……っ………!」 幾度も空咳を繰り返す不二の背を撫でて遣りながら、もう海堂が何処にも居ない事を知って、乾は少しだけ安堵する。 眼鏡なんて、もう何処に行ったのだか。探す気もない。 きゅ、と服を掴んでくる、苦しげに上下する腕の中の身体。 少しだけ、傾けるように顔を上げた不二が、口元だけで笑う。 生理的な涙が頬を伝っていても、この濡れ方ではどのみち解らない。 「…………だれか…………いたんだ…………」 読んでと願った。 その通りに紡がれた気さえする言葉に、もう一度その背を抱いた。 可笑しげに笑った不二が眼鏡を拾ってきて、先にプールサイドに上がった乾に手を引かれて、石の上に膝を乗せる。 水が、身体中から流れていく。 もう鬱陶しいとも、思えない。 馬鹿なことしたな、なんて本気じゃなく思って、不二は乾の腕の服を小さく掴む。 「………………………………………………駄目だねぇ」 自嘲の響きにも似た言葉で紡いで、泣き笑いのように顔を歪ませて見上げる。 それは、自分に対してか、乾に対してか。 本当はどうでもいい。 どちらからでもなく、寄せられた唇を。 彼は拒まなかったし、自分も拒まなかった。 |