恋じゃない。友情なんかじゃない。 ただ、叶わない想いをすり替えるように、何かを埋め合って。 「そういえば、大石の組は何の課題だったの?」 放課後の、陽も暮れて久しい部室の中で、着替えも合間に言い出した不二が、声の後から視線を向けた。 「ああ、確か」 「一組と二組は物理だったぞ」 大石を遮って答えた手塚が、書き終わった部誌を閉じて筆記用具を片づけている。 「え、六組も物理だったよな不二」 「うん」 みんな同じなの? なんて不二が視線を巡らしたところで、少し遅れて乾と河村が部室に戻ってきた。 目敏くそれを見付けた菊丸が、“なあなあ”と水を向ける。 「課題の話?」 「四組は物理だったよ」 なんだ結局皆物理じゃん〜なんて机に突っ伏す菊丸をおかしそうに見遣って、それからふと、会話の外野にいた桃城が口を挟んだ。 「先輩達、さっきからなんの話してんですか?」 「あ、二年はないんだっけ?」 「だから何がです」 「課題だよ、課題」 じれったそうに輪に入ってくる桃城の眼前で指を振って、菊丸は“二年は楽だよなぁ”と零す。 「もうちょいで試験じゃん? その復習兼ねて、平均成績の悪かった教科の課題が出てんの」 「ああ、それで物理ってことは平均低かったんすね」 「他人事のように言うないおチビ。受験生なんだよ一応」 「一応じゃないよ英二」 一通り着替えを終えてロッカーを閉める不二の横で、ジャージの上着を脱ぎながら乾が傍観者のようにその様を見下ろしている。 「どうしたの乾」 「ん? いいなぁと思って単純に」 「二年生が? 君でもそういう所あるんだ」 「でもって引っ掛かるよ。そういう不二こそとばっちりって気がしてるんじゃない?」 基本的に成績悪くないんだからさ。 なんて付け足されて、不二は“ソレ嫌味?”と言いたげに視線を向ける。 「首席の君に言われたくないなぁ。君こそとばっちりじゃない。 物理満点だったんじゃないの前の試験」 「うん。だからいいなって」 「は?」 話、噛み合ってないよ? と見上げてくる不二に何か言い返そうとした乾を遮る形で、横手から菊丸が割り込んだ。 「にゃ」 「…なに英二」 「にゃって、主語は?」 「君それ言えないよ乾」 いつも抜く人が。 「ちょっち前から思ってたんだけどさ」 「うん?」 「乾と不二って最近仲いいのな」 『――――――――――――――――――――――――――――――――………』 レギュラーくらい(+α)しかいない部室に、一瞬だけ妙な沈黙が落ちる。 中心の二人は顔を互いに見合わせ。 「………仲いいっけ?」 「悪くはないけど。最近?」 なんか変わったことあったっけ? 「よく一緒にいるじゃん。昼飯とかさー」 「ああ、菊丸は不二が取られて拗ねてるだけだろ」 「違いますー!」 乾外れー! なんて指付きで言ってくる辺り図星なことは承知済みで、乾はどっからか出したノートにまたなにか書き込んでいる。 「で、なにが“いいな”なの?」 メモるなと乾にしがみつこうと(邪魔)している菊丸を剥がしながら、不二が視線だけを向けて訊く。 「課題だよ。十一組も物理なら楽だったなって」 「違うの?」 「十組と十一組は古典だよ」 ちなみに九組は英語。 「統一されてたんじゃなかったんだね」 不二の言葉に、とりあえず話を置いておくことにした菊丸も同じようなリアクションを返す。 「でも古典も羨ましいかな」 「得意教科だもんね不二」 「結局はとばっちりなんだよ」 乾の台詞に“ソレは頭がいい奴の台詞”だと突っ込んだのは二年だけではなく。 制服の上着を、衣擦れの音を立てて着て、それからふと乾は向けられる視線に気付く。 「不二?」 「うん。なんかさ、どうせ試験休みになるんだし。勉強会でもやったほうが早いんじゃないかなって思って」 君物理得意分野でしょ? 視線を意味を理解した乾の方は“ああ成る程”なんて呟いていて、周囲の視線などお構いなしで。 「じゃ明日日曜だし」 「うん、別に俺も用ないし」 「あ、じゃ決まりー」 これで少しは楽だよねーなんて言いながら、自分を鞄を掴んで帰る気でいる不二と、部室内であっさり決まった話にぼーっとした視線を向けている菊丸の視線が途中でかちあう。 ハッとして。 「…って狡いじゃんか二人だけで! 俺も混ぜろよ」 「英二も? 大石はいいの?」 「大石も。なあ大石」 いきなり水を向けられて、戸惑いがちに大石も頷く。 「まあ、かたまってやったほうが楽だろう?」 「まあそれもそうだね。でも」 がたん、と誰かが急に席を立った音が部室内に響く。言葉を濁しかけた乾も不二も、揃って海堂の方を向く。 「…………俺も行っていいですか」 「でも二年ってなにかあったっけ?」 「あ、そういえば二年も課題が出てるって訊いたよ。全組じゃなく極端に低い組だけらしいけど」 乾の補則に視線が桃城に一旦集まる。 「あ、うちは出てないですよ」 「じゃあ海堂は運が悪いのか」 「いや本人が成績悪いって事もあんじゃん? 貢献したとか平均点下げんのに」 「…英二」 「言っておくけど菊丸だって貢献してるんじゃないか?」 「あ、なんだよ乾それ」 食ってかかる菊丸を乾は“さあね”とあしらっている。 「で、どうする不二。俺は構わないけど、その場合うち狭いから無理だよ」 「僕の家でもいいよ? その日は家族仕事遅いし」 「じゃ、不二の家でやる?」 と周囲に意見を求める乾の声に、異を唱える者は居らず。 代わりに手塚も参加するという方向で話がまとまった。 「…で、なんでおチビまでいんの?」 やけに晴れた気候の昼。 不二宅に集まった面々の中には何故か一年レギュラー越前も居た。 「悪いっスか? ついでだから宿題訊こうと思ったんス」 「宿題と課題じゃわけが」 「いいじゃない英二。後から四苦八苦するより心構えが立派だよ」 「つまり普段のお前より立派」 「なんだよ不二に乾二人して」 綺麗な玄関を潜って案内された居間の広さに、初めて来た越前や海堂はしばし唖然とする。 「凄いっスね」 「あはは僕に言われても、建てたの僕じゃないし」 「謙遜してないで。で、流石に一つのテーブルには五人が限度みたいだけど」 「ああそれならそっちの低いやつも使えばいいよ。七人いるから三と四に別れれば」 「じゃ低い方に俺と不二と越前が行けばいいかな」 「ってなんで乾が決めんの」 言うが早いかとっとと低い方のテーブルに移動した乾が、文句を付ける菊丸に“遣りやすい組み合わせ”と付け足す。 「菊丸は大石と一緒の方がいいだろ。で、海堂の課題は世界史だから手塚の得意科目だし。 手塚は物理の成績そんな低くないじゃない」 よって俺の助けはあまり必要ないし。 キッチンの方でジュースを次いでいた不二も運びながら。 「越前の宿題は古典だしね」 別にいいじゃない違う部屋とかじゃないんだから。 「…やっぱ」 「英二?」 「ううん何でもね」 大石の言葉にそう返して、菊丸も遅れて筆記用具を出し始めた。 「あ、そういえばさ乾この間、学校の角の病院行ったじゃない?」 「ああうん」 ノートをめくる音とシャーペンの書く音だけが妙に響く室内で、ふと思い出したように不二が話を振る。 一番近くの越前が、やりかけの宿題から目を離す。 「なんスか? 病院て」 「乾病院なんか行ったの?」 「菊丸、越前。勉強は?」 「いいじゃんやってるんだから」 「気になるっス」 とかいって後で困るの君等でしょ。と息を吐く乾の横で、不二がひょいと伸び上がって越前のノートを覗き込む。 「手、止まってるけど解らないとこあるの?」 「あ、ここんとこ…」 「そこは送り仮名使って、こっちから…」 「あ、こっちからか…」 早くも宿題に意識が戻ってしまった越前に、菊丸は不機嫌に唇を尖らせる。 不二はそんな事構いもせず―――――というか背を向けている為解らない――――ノートに目を走らせる越前をもう大丈夫かなという風に見遣って、座り直す。 「で?」 「うん病院」 「だからなに?」 「菊丸お前は課題の続き。大したことじゃないよ俺は人の付き添い」 結局話すんじゃんと言いたげな視線を向けてはいた菊丸だが、とりあえず答えは返ってきたので納得いかないながらも課題に戻らなければならない。 そもそも不二と乾は会話しながらも手は動いているのだ。 「で?」 「うん。僕もこの前行ったんだけどさ。第一診察室の葛西って先生いるじゃない」 「あ――――――――――――――――ああ、あの生え際やばい人か」 「うんそれ。その人に見て貰ったんだけど」 そこで一旦言葉を切って、不二は短いため息を吐き出す。 「…目の前の医者の独り言ってやだよね」 「ああ、あの医者独り言多いから」 なんか嫌なこと吐かれた? 「ていうか、人のレントゲン写真手に“あーへぇ成る程”とか“こんなんなってたんか”とかひたすら不明瞭で不安煽るような事ばかり言うんだよね」 「で?」 「ああ、精密検査受けてけって言われた」 それだけ言われるんならまだいいけどその前の独り言がね。 なんて続ける不二は気にした様子もないが、精密検査と訊いては気にならないはずがない。 「って大丈夫だったの不二」 「…訊いちゃいけないっスかね」 「もう訊いてるし」 しかし不二はやはり気にした様子もなくぱたぱたと手を振り。 「もう結果でたけど全然何ともなかったよ」 瞬間的に、安堵に似た息が同時に漏れた。 「まあその時も散々独り言吐かれたんだ」 「第一診察室にはもう行かない方がいいんじゃないか?」 「やっぱり?」 ていうかはげるよねあの医者。なんて呟きながらも不二も乾も手は止めない。 宿題の合間にソレを間近で見ながら、越前は心底“凄い”と感想を抱く。 「……………………」 「乾?」 「や、そういえばその葛西先生さ」 「うん」 「手塚と似たり寄ったりな髪型じゃない?」 爆弾投下。吐いた本人自覚有り。 「――――――――――――――――…ま、とりあえず乾ここの計算式さ」 「ああうん、これはこっちの奴使って」 「…平然と話続けないで欲しいんスけど」 空気怖いっス。 乾は平然とした表情でこう言うのだ。 「俺は背中向けてるし」 はいそうっスね。でも俺からは見えるんスけどね。 とは言っても無効っぽそうで、越前は目のやり場に困った。 「…んー…身体固まったー」 「でも終わったじゃない英二」 「うんー何とか」 窓の外を見て大石が。 「もうすっかり暗くなったな」 と零す。 そろそろお暇するか、という話も出て玄関へと移動した。 「じゃ、また明日ね」 「んじゃーね不二」 「お邪魔しました」 と一足先に家を出る大石と菊丸を見送ってから、不二はふと海堂が頻りに家の中を窺っているのに気付く。 「どうしたの?」 「……いえ」 不二の問い掛けにぱっと視線を外した海堂の視線の先で、越前と乾が玄関まで遅れてやって来た。 「じゃ、助かりました」 「うんじゃあね越前」 「じゃ」 「うん、乾も」 急に静かになるね、なんて笑う不二の前で玄関に足を降ろしてから、乾は服を探っていた手に違和感を覚える。 「……?」 「乾?」 「…ん、ちょっと」 今度は鞄の中を探って、諦め加減に携帯を取り出すと、壁に寄りかかって誰かへと掛けた。 「…あ、俺だけど」 携帯電話向こうの話し声は乾にしか聞こえないから、声だけでは独り言のようだ。 手塚と越前、海堂も視線だけは向けている。 「…うん。そう。………え?」 「…どうしたんスか?」 「さあ…」 何か不都合でもあったかな? なんて零す不二を横目に、越前は盗み見るように乾にも視線を傾ける。 「……って、じゃあ俺どうするの? 知らないって……………あ」 「どうしたの?」 「切られた」 耳から離せば、少しだけツーという音が聞こえてくる携帯の電源を押して、乾は鞄の中にしまい直す。 「誰?」 「親。で不二、急で悪いんだけど一晩泊めてもらっていいかな」 乾の突然の申し出に、海堂が小さく息を呑む音を何とも無しに聴いて、越前はふと覗くように手塚の顔を伺う。 表面的に普段と変わりない、けれど手の平に僅か籠もる力。 それを見付けて、小さく息を吐く。 「いいけど。なんで?」 「家の鍵忘れたんだ。親に掛けたら二人とも今日は帰らないっていうし」 「ああ。災難だね。いいよ一人くらい」 ただ着替えないから風呂入れないけど。うち君サイズの服無いもの。 「いいよ。屋根さえあれば」 助かるよ。なんて声が、耳に軽い。 このまま放っていたら居心地が悪くなりそうで、越前は小さく嘆息すると比較的通る声で切り出す。 「じゃ、俺達帰るんで。海堂先輩なにぼーっとしてんスか」 帰らないの? なんて向けられる視線にふいと背けて、海堂は不二に軽く礼をして玄関から外へ出る。 気を付けて帰れよ。という乾の声に返事はない。 「じゃ、手塚も越前も、気を付けてね」 「大丈夫っスよ」 「………、………じゃあ」 「うん」 じゃあななんて、手を振ってくる乾の台詞が何だか確信犯めいて。 この人は普段からそう見えるから、他意があってもなくても。 知り合って数ヶ月で把握した事を思い返して、越前は勝手に零れそうな息を押さえる。 二言程度告げて踵を返す手塚をちらりと見遣って、ひょいと二人に顔を近づける。 「一言いいっスか?」 「なに?」 「この前」 視線で、手塚が戻ってこないのを確認して、小声で紡ぐ。 「二人揃って部活さぼったじゃないっスか」 大した驚きは、どちらの表情にも見れない。 「あん時、してましたよね。プールで」 掠れもしない声で、平然と、何を? なんて訊いてくるのは乾で。 不二はただにこりと笑う。 「キス」 慌ても、しないんだから。 「したね」 「まあね」 「それだけっス」 じゃ、手間取らせてすいませんでした。 そう言って踵を返す背に。 「越前」 呼びかけた先輩は、振り返った先でいつもの笑みを浮かべて口元に人差し指を当てていた。 内緒。 返事のように、後ろ手を上げた。 「……見られてたんだね」 「うんしっかりと」 「知ってた?」 「越前が見てたとは知らなかったな」 言いながら互いに顔を見合わせて。 居間へと戻る。 「やっぱりさ、プールサイドって高いから」 「その割りにサボリはバレなかったけど」 「サボリはばれたでしょ? 事後発覚なだけで」 リモコンでTVの電源を入れながら、ソファに腰掛ける。沈む感触。 意味もなく、髪を弄ぶ乾の手を心地よさそうに受け入れて。 不二が軽く、寄りかかる。 「――――――――――――――――いいじゃない。越前は賢いから」 ばらさないよ。なんて続けた乾が、誰のことを考えているのか何て。 どうでもよくて。 乾も、不二の心の中の存在なんて。気にしてはいなくて。 気にしているのは互いの存在のみ。 握り合わせた手の平から伝わるのは確かな体温。離れて曖昧になる、その時だけの絆。 「……ねぇ、乾」 「なに?」 「さっき電話あったんだ。母さんも姉さんも、今日帰ってこれないって」 寄りかかった背に感じる体温を受けて、見上げて。 心だけじゃない。身体だけじゃない。 繋がりなんて無かった。 「……そっか」 なんて呟いて、寄りかかる身体が眼を開いて見上げてくる眼差しを受け止める。 寄せられた唇。降りてきたもの。 受け入れて、絡ませて。何かの祈りみたいに、眼を伏せて。 「…しよ」 誰が言い出したかなんて、どうでもいい。 慰めるだけの絆。 埋めるだけの情事。 ただ、温もりだけ欲しがるみたいに――――――――――――――――…… |