楽園に帰れない

第五話−【笑ったキミがいた】


 面会謝絶の外れた日、病室に来ると、まだ眠る痩せた顔があった。
 傍に立って、その顔を見下ろす。
 千歳の頬を涙が流れて、咄嗟に落ちた雫を自分の手で受け止めた。
 涙すら、触れたら彼を殺す気がしたから。
「……蔵ノ介」
 呼んで、それだけで堪らなくて、触れたくて。
 でも、許されない。
 優しい温もりに触れたら、あなたの身体を切り裂く。
 背後の扉が開いて、こちらの謙也が顔を見せた。
「あ、今ええか?」
 はい、と頷いて千歳は壁際の椅子に腰掛け、謙也に譲った。
「具合は…」
「落ち着いたらしいです。ただ、原因がわからんから、安心は…」
「…そう、か」
 心配そうに、白石を見下ろす横顔。
「…謙也…さん」
「…え?」
 振り返る謙也の顔に、言葉にしようとした声は、喉を通らない。

 その人をお願いします。

 なんて、言えなかった。
 その方が、白石は幸せに決まってる。なのに、言えないんだ。
 あなたを、謙也に渡す言葉なんか吐けるわけがない。言えるわけがない。
 あなたの命より、俺の命を、あなたの傍の居場所を取る、浅ましいにも程があると吐き気がする自分。
「……、ん?」
 ぴくりと動いた指。目を覚ました白石に、謙也が嬉しそうに寝台に手を突いた。
 起きあがった白石が謙也となにか話して、途中で奥に座る千歳に気付いた。
「…千里、くん?」
 不思議そうな顔は、すぐ不安そうになった。
「…謙也、ごめん。ちょお、二人にして」
「…ああ」
 頷いて部屋を出ていった謙也を見送るような扉の閉まる音が響いた。
「…千里くん。どないしたん?」
「…どうも、せん」
「…嘘や。顔…」
「……」
 ますますいぶかしんだ白石が、手をそっと千歳に伸ばす。
「…こっち。なんで、そんな離れて…」
「…俺が近寄ったら、あんた、また危なくなる」
「…、なんやねんそれ。これは、ただの」
「…俺の所為やけん。…俺は、死神ばい」
 から笑いで否定した白石に被せるように言う。すぐ白石は引きつった笑みで首を振った。
「それは最初の悪いボケか? 続きか?
 そんなわけないやろ」
「…嘘やなか。俺が、…あんたを殺しとう」
 存在しとること自体が、そう続く前に寝台から飛び降りた白石が腕に刺さっていた点滴の針を引き抜いて千歳の傍に立った。それに青ざめた千歳の首に、自分の血に濡れた針を向ける。
「それ以上、言うたらホンマ、俺、なにするかわからん…」
「…か」
 構わない、そう言おうと思った。なのに、白石は泣いた。
 その頬を涙が一筋流れたのを見ただけで耐えられなくなった。
 勢いよく立ち上がって細身を抱きしめ、かき抱く。
 離したくない。触れたら、いけないと知っているのに。
 あんたを殺すって痛いほどわかってるのに。
 涙を一滴見ただけで、堪えられなくて、抱きしめずにいられない。
「……、っ」
 好きだと、言いたい。
 けれどその瞬間、世界が一瞬輝いたと思った。すぐ、自分の身体が薄れていくと理解した。
 訳の分からない顔をした白石を見つめた千歳の表情が歪む。
 帰るんだ。自分の世界に。なら、それが一番よくて。
 でも、離れたくない。
 帰りたくない。
「や…ばい…帰りたくなか…あんたの…おらんとこ行きたくなんか……。
 …蔵ノ介さん…!」
 白石が血の少しついた手を必死に千歳に伸ばした。
 触れる前に消えた身体。

「千里くん!」








 なにかの、音がする。
 ああ、機械の、心音の音。
 瞳を開けると、心配そうな白石が見えた。
 あれ? 何故、自分が病院の寝台に寝ていて、白石がいかにも見舞い客の体でいるのだろう。
「千歳!」
 安堵の瞳と声で、俺をそう呼んだ白石に、悟る。
 ああ、ここは、俺の世界だ。
 白石が俺を、そう呼ぶ世界。

 あの人がいない世界。

「千歳…、大丈夫か? 身体…」
 涙を浮かべて伸ばされた手を、千歳は動かない身体で力一杯振り払った。
「……せ、ん」
「……」
 触られたくなかった。この白石は悪くない。嫌いじゃない。でも、だけど。
「…先生に、言うてくるな」
 少し悲しそうに笑って、白石は病室を出た。




 なかなか動かない、やつれた身体。
 医師から聞いた。
 自分はあの事故の日から、九年近く経っても目覚めなかったらしい。
 二十四歳。あの人と、同じ年。
「千歳」
 代わるように見舞いに来た謙也が、ひどい顔をした千歳を見て気遣うように笑い、傍の椅子に座った。
「元気出しや。生きててよかった」
「……」
「あれからみんなにも連絡したから。みんな心配しとってな」
「………」
「………目覚めてよかったわ」
 なにも答えない千歳に、謙也は自分の足下を見るように、切なそうに笑う。
「…なあ、なんか言ってや」
 聞きたくない。なにも。
 帰ってきた証明の言葉なんか、こっちのみんなの近況なんか。
 要らないわけじゃない。嫌いなわけじゃない。
 でも、だけど、あの人がいない。ここにはいない。
 耳を塞ぎたかった。目を閉ざしたかった。要らないから、帰りたかった。
 あの人の傍へ。
「白石、お前のこと、えらい心配しとった」
「……自慢?」
「…ぇ?」
 初めて漏れた千歳の声に、謙也が喜ぶ暇なく、固まった。
「それは、あの日フラれた俺への、自慢か」
 そもそも、謙也さえいなければ事故に遭っていなかった。でもそうしたら、彼に会えなかった。なんて、ひどい我が儘。
 謙也は、持っていた鞄を床に置いて、千歳を見て微笑む。
「俺な、…お前が事故った直後に、白石にフラれてん」
「………」
 驚いて、思わず謙也を見る。今、なんと言った?
 あの直後に、フラれた? 謙也が? 白石に?
「俺の…」
「所為とも言う。自分の所為やって、白石が痛い程自分のこと責めるから…な」
 肯定した謙也はしかし、千歳を責めていなかった。
「あの後、あいつわざわざどうでもええ女と付き合うて、そのうち結婚して…。
 …お前のこと、忘れて」
「……忘れ……『俺の事故の責任を忘れた』?」
「やったらまだええ。お前の存在自体を、や。
 多分、お前を思いすぎることに、頭が堪え切れなかったんや。
 周りも、合わせた。
 ……」
 なにを、言えばいい。喜ぶ? 喜べるわけないだろ。
 ただ黙っている自分を見て、謙也は不意に嬉しそうに目を細める。
「ただな、…最近、変わったことがあったんや」
「……?」
「お前の顔して、お前の名前名乗る、中学生のガキを拾った…て、白石が」
 耳が聞いた言葉を頭で理解するまで、時間がかかった。
 心臓が、一瞬高鳴る。
「俺もそん時おったけど…まあ、知らないふりしたけど…。
 白石は気にいったらしいて、仕事で会うとしょっちゅう『千里くんが』ってうるさかったわ。結婚した女ともうまくいってなかったみたいやし。
 …俺、一回そいつと会うてんけど……、まんまお前やったなぁ」
 どういう、ことだ。
 それはまるで、あの人のことじゃないのか。
 まるで、そのまま俺とあの人のことじゃないのか。
 声も出せずに、固まる千歳を見て、謙也は急に立ち上がる。
「心当たりあるみたいやな。まあようわからんけど、白石と話し合っとけ」
 謙也と入れ違いに、花瓶を持った白石が部屋に入ってきた。すぐ出ようとする白石の肩を押しとどめて、謙也はいなくなった。
 椅子に座ったが、戸惑うような様子で白石は千歳を見る。
「……千歳?」

 ああ、そうだ。あの時、俺が拒んだ瞬間、この白石がこう呼んだ。


『……せ、ん』


 あれは、「千里」を言いかけた声じゃないのか?

「……謙也から、聞いた」
「え」
「俺が、なんか、お前の傍におったって」
「……ああ」
 白石は窓から見える冬の空を一度見てから、千歳の横顔を見て、少しだけ笑う。
「お前は、馬鹿にするやろうし、場合もわきまえてないし、…でも聞いて欲しい。
 …お前の顔して、お前の言葉喋って、お前の名前名乗る子供がおったんや。
 お前のことを忘れてたから、俺はすっかり気に入って」
「気に入った、だけと?」
「え」
「…好きとかじゃ、なかね?」
 遮って問いかける千歳の、切実に祈るような視線を困惑して受け取り、白石は迷うそぶりもあまりなく、首を左右に振った。
「ううん。…好きやった。結婚した女や、みんなや、…謙也以上に…大好きで、愛しいて。
 ずっと離れたなかった。
 そいつが、いつかいなくなるって言うから、怖ぁて、怖ぁて。
 …慰める口実で、抱かれてでも、傍におりたかった。
 馬鹿にしてくれてええ。蔑んでええ。せやけど、そいつがいなくなった途端、お前のこと思い出して、…あれって、…眠ったまんまの、お前やったんやないのかって……」
 願うように、信じるように、膜の揺らいだ翡翠の瞳が千歳を見上げる。

 そうだったのか。

「…ち」
 手を伸ばして、自分を抱き寄せた千歳の腕の中で、白石はぽかんとする。
「そうやなか。『千里』、ばい」
「…」
 白石が目を見開いて、千歳の背中に迷いながら手を伸ばす。
「…蔵ノ介」
 耳元で呼んだ瞬間、白石の瞳から涙が溢れて、千歳の肩に落ちる。

 やっぱり、夢じゃ困る。
 これは、現実じゃなきゃ困る。



 白石は、最初から彼だったんだ。





 謎も解ける。あの時間の自分のアパートには、もう『千歳千里』はいない。
 学校にもいない。
 実家は、実は別の場所に引っ越していた。俺のために。
 多分、駐在の聞き方が悪かったんだ。
 謙也たちは白石のために知らないふりをして。




「強請ればよかったばい」
 二月になって、また雪が降った日だった。
 まだなかなか思うとおりには動かない身体は、リハビリを続けている。
 今、住んでいるのは、白石のあのマンション。
 表札に妻の名前はもうなく、『白石蔵ノ介』と『千歳千里』の名前。
 扉を開けてくぐると、玄関で靴を脱ぐ。
 一緒にリビングにあがった白石が、「もしかして」と笑ってくれる。
「あの時、遠慮した誕生日プレゼント?」
「うん。ばってん、同棲出来とうし、もうよかけん…」
 出来ていなかったら、それを強請ったところだ。
「同居って言えや」
 コートを脱いでハンガーに引っかけているその肩を抱いて、耳元で意地悪に囁く。
「蔵ノ介は『同居人』とあげんこつすっとや?」
「…ばっ…!」
「怖かねぇ。お前を他のヤツと住まわせられんたい」
 更に続けると真っ赤な顔で、額を叩かれる。
「お前以外と誰が寝るか!」
 その返事に、顔を緩ませて「正解」と答えた。
「…てか、恥ずかしいなぁ」
「なにがね?」
 ソファに腰掛けた白石に習い、向かいに座る。
「お前がお前…同い年ってわからんかったとはいえ…大人ぶっとったやなんて」
「別によかよ」
 そのおかげで好きになれたこともあるし。
「…………」
 急に無言になった白石が、立ち上がって、どうしたのかと見上げる千歳の首に抱きついた。
「……お前、さ」
「うん?」
「……俺のこと、好き?」
「当たり前ばい」
「……どっちとして?」

『白石』? 『蔵ノ介』?

 不安そうに自分を見遣る白石の腕を引いて、膝に乗せてしまう。
「蔵ノ介さんが好き。…になった、てこつは否定ばせん。
 が、蔵ノ介も『千里くん』やったけん、好きになったは否定でけんばい?」
「……う、ん」
「なにも、どっちも自分に変わりなかのに、あら探しせんでよかよ」
 細い腰を抱き、首筋に口付けると、白石は力が抜けたように千歳の肩に額を乗せた。
「……でも、……よかった」
「…え?」
 あの時、踏みとどまっていて。
 魂の傍にいたから、あの時彼は危なかっただけだ。
 でも、あの時もし飛び降りていたなら、きっとここにいられなかった。
 自分勝手な欲で踏みとどまっただけでも、あの時の自分の浅ましさに感謝する。

 意味の分からない白石の脇に手を差し入れ、顎で示すようにキスを誘う。
 一瞬赤くなったあと、瞳を閉じて降りてくるキス。






『おい、お前…』






 あの日、俺を忘れていても、手を迷わず伸ばしたキミがいた。


『やっと起きたか?』


 そう言って、笑ったキミがいた。













 2009/05/31 THE END